第五十五話 心理実験の勧誘
――翌朝、データセンターのダイニング。
カタリストは、玲子が淹れてくれたカフェオレを一口飲み、少し申し訳なさそうに口を開いた。
「……お姉様。実は昨日、大学で少しだけ騒ぎを起こしてしまいました。ナンパを装った三文芝居に絡まれて……つい、鳩尾を二つほど『押して』しまって」
玲子はトーストを口に運ぶ手を止め、驚くかと思いきや、満足げに目を細めた。
「あら、いい判断ね。ウルフパックから教わった近接格闘術、ちゃんと役に立っているようで安心したわ。それで、その害虫たちは?」
「『時間の無駄』だと思ったので、そのまま放置して帰ってきました……ご迷惑、でしたか?」
「いいえ。むしろ効率的で素晴らしいわ」
玲子はそう言って、手元のタブレットを彩香の方へ向けた。そこには、今朝のネットニュースに「警察本部のサーバーへ不正アクセスを試みた大学生グループが逮捕」という記事が踊っている。
「その害虫たちの親玉が、昨夜私の『裏庭』に侵入しようとしていたから、ついでにお掃除しておいたわ。今頃は大学の講義室じゃなくて、取調室で自分たちの『技術』を説明しているはずよ」
彩香は目を丸くし、それからクスリと笑った。
「……ふふ、お姉様には敵いませんね。私がお掃除したのは枝葉だけで、お姉様は根っこごと引き抜いてくださったんだ」
「当然でしょう? 私の大切な家族に手を出すバカには、相応の対価を支払わせないと」
二人は顔を見合わせ、まるで「今日の天気」でも話すような穏やかさで、微笑みを交わした。
――その頃。とある海岸沿いの裏びれたアパートの地下室。そこは錆びついたアパートの外観からは全く想像できない、無機質なコンクリートで構築された軍事要塞のような作りをしていた。
所狭しとサーバーラックが置かれており、終わりのないファンの低い音だけがコンクリートに反響する。
その一角に、ほっそりとした初老の男性が足を乱暴に机の上に投げ出し、無表情でテレビのニュースを眺めて居た。テレビの画面には『裏サークル、警察のシステムにハッキングをかけ逮捕』というタイトルが踊っていた。
「『クラックス』……期待はしていなかったが……しょせんは学生のおままごとサークルだったか」
人身売買組織「ボイド・ネットワーク」のサイバー主任のヌルは濁ったような声で呟いた後、沈んだ体を起こした。
ゆっくり立ち上がり、地下室の扉を静か開け、ひょろひょろとした足取りで地上へ続く階段を上り始めた。
――彩香が通う大学の一角のとある教授室。
学内では高潔で知られる白髪の教授が、今は椅子の上で小さく丸まり、脂汗を垂らしながら受話器を握りしめていた。
スピーカーからは、神経を逆なでするような、ボイスチェンジャーで変換された声が漏れ聞こえる。
『先生。一つ、有意義な提案がある。私がこれから指定する学生グループを、「特別な心理実験」と称して、地下の低温実験室へ誘導していただきたい』
「……何をするつもりだ?」
『なに、簡単な心理実験をちょっとね……それと、先生は参加しなくて結構』
「そんなこと、勝手に出来るわけが……」
『簡単ですよ。見返りに早期履修の単位の付与、あるいは実験協力費……そんな甘い言葉を並べれば、学生たちは喜んでその檻へ飛び込む。そうでしょう?』
沈黙を守る教授の呼吸は、次第に浅く、速くなっていく。それを見透かすかのように受話器の向こうの主は、抗えない楔を打ち込んだ。
『対価は、一昨日から先生がご執心の「あの子」だ。これ以上の見返りはないはずだ』
「……娘は、美咲は無事なんだろうな!? 今すぐ声を聴かせろ!」
感情を剥き出しにした教授の叫びに対し、男の声は一段階低くなった。
『先生、口の利き方に気を付けなさい。壁に耳あり、ネットワークに傍受あり……それが永遠の別れのトリガーになることだってあるよ』
「わかった……」
『物分かりが良くて助かる。ターゲットたちが低温実験室に入り次第、彼女を解放してあげよう……ああ、せいぜい自然な演技を心がけることだ』
通話が切れた後も、教授は震える手でスマホを耳に当てたまま、音の消えた暗い画面を凝視し続けていた。
――午後の光が斜めに差し込む講義室。
最後の講義が終わった。カタリストが教科書を鞄にしまったその時、滑り込むようにして一人の男性が入ってきた。
仕立ての良いジャケットに、知性的な眼鏡。彼は学生たちの視線を集めると、懐から提示したIDカードを見せた。
「ああ、君たち。少し時間をいいかな? 私はこういう者だ」
そこにははっきりと『助手』の二文字が刻まれている。
穏やかな、聞き取りやすい声だった。
「実は研究室の教授の指示で『心理実験』の協力者を探していてね。一年生の内は教養ばかりで退屈だろう? 実際に現場で得た知見は、この先の専門課程で必ず君たちの武器になるはずだ」
彼はさらに、懐から封筒を5枚、取り出してみせた。
「もちろん、君たちの貴重な時間を拘束するわけだから、相応の謝礼も用意している。前金で二万円、終了後に二万円。合計四万円を支払おう」
ざわつく教室内で、カタリストの心が「心理実験」という言葉に反応した。お姉様を救うために学んでいる分野の実践。その興味が、彼女の警戒心をわずかに上回る。
「あの……具体的には、どのようなことを行うのでしょうか?」
カタリストの問いに、助手は屈託のない笑みを浮かべて答えた。
「何、簡単なことだよ。極低温下という特殊な環境下で簡単な作業をしてもらい、被験者の心理的ストレスや認知能力の変化をデータ化したいんだ。前金の二万円は、各自で十分な防寒着を揃えるための準備金だと思ってくれて構わない」
カタリストは、語る彼の表情を注視し、さりげなくその本心を読み取った。
(……嘘はない。この人は、本当にこの実験が学生のためになると信じている)
悪意も、淀みもない。純粋な善意による勧誘。
「参加者は明日の十八時、地下の実験室に併設されている低温室に集合だ。枠は五人。早い者勝ちだよ」




