第五十二話 玲子とカタリスト
――白坂本邸の歪な温もりを振り払い、玲子は夜の静寂を一人歩いていた。
月光を反射して青白く浮かび上がる、窓一つない白亜の建造物――ブラックウェルの心臓部であり、玲子のすべてが詰まったデータセンターが、彼女を迎え入れる。
入り口の前に立ち、玲子は一度だけその巨大なモノリスを見上げた。
雅の呪縛も、玲香の底知れぬ執着も、この厚い壁の中までは届かない。
「……せっかく作り上げた、私の居場所だもの。お姉様に好きにさせるわけにはいかないわ」
誰に聞かせるでもない独り言は、夜風に溶けて消えた。
けれど、その瞳にはシステムを構築する時のような、揺るぎない、そして確固たる決意が宿っている。
認証ゲートにカードをかざすと、電子の脈動が彼女を主と認め、音もなく扉が開いた。
玲子は吸い込まれるように、冷ややかな空調の効いた「彼女だけの世界」へと消えていく。
(今夜は、メリーとマリーの育てたハーブを枕元に置いて眠ろう)
――翌朝。データセンター内の寝室は、天井に仕込まれた照明が再現する「寸分違わぬ朝の光」に満たされていた。
玲子は枕元に置かれたハーブの香りでゆっくりと意識を浮上させる。昨夜の白坂本邸での緊迫感に満ちた空気は、その香りによって、綺麗に濾過されていた。
普段着に着替え、指令室へと向かう。メインモニターが点灯し、モニター内の二体のフランス人形アイコンがぱっと顔を輝かせた。
「玲子ちゃん、お早う!」
「玲子様、お早うございます。昨夜のバイタルデータ、非常に安定しておりました」
「二人とも、お早う。よく眠れたわ」
いつもの挨拶を交わし、ダイニングの扉を開ける。
そこには、既にエプロン姿で朝食を準備していたカタリストがいた。彼女は玲子の姿を認めると、弾けるような笑顔で声を上げた。
「お姉さま、お早うございます!」
「お早う、カタリスト」
玲子は椅子に座ると、湯気を立てるコーヒーの香りを楽しみながら、極めて淡々と、けれど重大な事実を告げた。
「ところでカタリスト。貴女にボーナスとして、一億円出すわ」
「え……っ?」
カタリストの手が止まった。それどころか、呼吸さえ止まったかのように、手に持っていたお玉を宙に浮かしたまま、石像のように固まってしまった。
「……あ、あの、お姉さま? いま、なんとおっしゃいましたか? 私の耳が故障したのでしょうか」
「故障じゃないわ。あなたが手伝ってくれた温室のシステム、そのライセンス料として、お父様が三億円出してくれることになったの。これはあなたへの正当な取り分よ」
玲子は微笑み、驚きで白目を剥きかけているパートナーの肩を優しく叩いた。
三億円という巨額の富も、玲子にとっては「居場所」を維持するための単なる数値に過ぎない。けれど、それを分かち合う相手がいるという事実に、玲子は昨夜の晩餐では決して見せなかった、心からの安らぎを感じていた。
「……受け取り拒否は認めないわよ」
玲子は優雅にコーヒーを啜りながら、けれど拒絶を許さない圧をふわりと漂わせた。
「あなただって、いずれは好きな人と結婚したりするでしょう? お金はいくらあっても困ることはないわ」
「け、けけけ結婚……!? そ、そんなのまだ早いですし、そもそも相手もいませんから!」
顔を真っ赤にして、カタリストは両手をパタパタ振る。けれど、すぐに腕を降ろすと少しだけ肩を落とし、寂しげに俯いた。
「そうなの? あなた、とても美人さんなのに……もったいないわ。もしあなたさえ良ければ、私がお父様のコネクションを使って紹介してもいいわよ? 4Sグループが誇る『最優良物件』の若手エリートたちを」
その言葉を聞いた瞬間、カタリストの脳裏には、玲子の心を初めて読み取ろうとした時の、ほろ苦い思いが溢れ出した。自分だけがお姉様を置いて幸せになるなんて……。
「……分かりました。では、お姉様が先に結婚なさった後に、ぜひ紹介してください!」
精一杯の「逃げ道」を作ったつもりのカタリストに、玲子はいたずらっぽく笑いかけた。
「私が結婚? ……ないない。あ、でも、そうね。もし私よりも優れたスキルを持っている人が現れたら、考えるかもしれないわ」
(……それは、もしやこの地球上には存在しない生き物なのでは?)
カタリストは喉まで出かかった言葉を飲み込み、無理やりポジティブな響きに変えて返した。
「は、はい! きっと見つかりますよ! それに、『しすてむ』のスキルだけじゃなくて、もっと別の……こう、心を癒やすような優れたスキルを持った素敵な男性だって、世の中にはたくさんいますから!」
「あら。当然、私が言っているのはエンジニアリングスキルの話よ? そうじゃないと、お父様が絶対にお認めにならないでしょうし」
そう事も無げに言って、トーストに手を伸ばした。
玲子を「超えるスキル」と、最強の支配者である白坂正人が認める「格」。
その二つの高すぎる壁を越える存在など、この時のカタリストは空想の産物でしかないと信じて疑っていなかった。




