第四話 人形とキッチン
「名前は、あるのか」
イカロスの、地を這うような低い声が響く。玲子は首を小さく傾け、慈しむような声で答えた。
「マリー、と、メリー……まだ、魂は吹き込んでいないけれど」
彼女はデスクへ向かい、そっと端末を叩いた。沈黙していた壁際のモニター群が、一斉に猛々しい光を放ち始める。
「外の世界に繋がるのは、こっち」
画面上を、光の奔流となってログが駆け抜ける。監視、制御、侵入、遮断――。
「シャドウエージェント。お人形の『影』。世界中のネットワークに潜み、私のために働く手足よ」
さらに、指先を滑らせる。 モニターには情報のマトリクスが幾層にも重なり、立体的な曼荼羅のように浮かび上がった。
「ゴーストサーバー。お人形の『頭脳』。誰にも見つからず、誰にも壊せない、私のための演算領域」
「……二重構造、いえ、多層化されたステルス・システムですか」
クロサワが、戦慄を押し殺した声で呟く。 玲子は満足げに振り返り、二人を射抜くような視線で見据えた。
「この指令室に立ち入ることを許されているのは、私とお父様だけ」
彼女の声から温度が消える。
「ここで見たこと、聞いたこと。すべては墓場まで持っていって。いいわね?」
逃げ場のない沈黙の中、二人は、言葉よりも重い頷きを返した。玲子の「おままごと」が、もはや一個人の遊びではなく、世界を揺るがす火種であることを、彼らはその肌で理解していた。
玲子は満足げに頷くと、一言だけ付け加えた。
「指令室以外なら、どのエリアへの立ち入りも許可するわ」
彼女は鮮やかに踵を返し、指令室を後にする。その後、すぐ隣にある自動扉を指差した。
「とりあえず、キッチンへ行きましょう……ダイニングも併設してあるわ。二人ともお腹が空いているでしょう? 私がご馳走してあげる」
百戦錬磨の執事であるクロサワが、この日初めて、困惑を隠しきれずに目を瞬かせた。
「……あの『人形の部屋』の真隣に、キッチンを設営されたのですか?」
「ええ。遊びはね、腰を据えてやらないと」
玲子は当然の理を説くように言い切った。
無駄に広い。
対面キッチン形式の三口の業務用コンロと一枚板の作業台。
壁には静かに光る温度計とタイマー。
その隣で、銀色の幅広の冷蔵庫が存在感を放っている。
どれも新品だが、ショールームのそれではなく、使われることを前提にした配置だった。
玲子は何も言わず、しなやかな動作で袖をまくると、研ぎ澄まされた包丁を手にした。その動きに、一切の迷いはない。
「……本当に、お嬢様自ら料理をなさるのですか?」
ダイニングの椅子に腰かけたクロサワの控えめな問いにも、玲子の手は止まらなかった。声だけが届く。
「頭を極限まで使う場所の隣には、お腹をちゃんと満たす場所が必要でしょう? どちらかが欠けたら、美しい仕事はできないわ」
大きなボウルに米が投入される。 水を注ぎ、研ぐ。 その手つきは、速く、軽やかで、恐ろしいほど無駄がない。玲子の細い指先が空気を切り裂くたび、残像が白く尾を引き、手の輪郭が曖昧に溶けていく。
彼女は巨大な炊飯器に米を移し、目盛りをミリ単位で合わせるように正確に水量を測った。タイマーがセットされ、調理場の「時間」が玲子の制御下に置かれる。
「お米はね、季節に合わせた『寝かせ』が何より重要なの。吸水のプロセスをちゃんとやらないなんて、論理的じゃないわ」
まな板の上で、玉ねぎが刻まれていく。 トトトトト、という一定の、心地よい打撃音。 寸分違わぬ厚さでスライスされていく野菜の山を、イカロスは壁際に立ち、息を呑んで見つめていた。
「お嬢……どこかでレストランでも経営しているのか?」
「してない。ただの趣味よ」
玲子の即答が、包丁の音に重なる。
「温度と、時間と、手順。この三つは決して私を裏切らないから、好きなの」
彼女の瞳は、冷徹で澄んだ光を宿していた。
フライパンが熱を帯び、低く唸り始める。 黄金色のバターが滑るように溶け、そこへ投じられた香辛料から食欲をそそる香ばしい匂いが漂う。
玲子の動きには、一秒の停滞も、一ミリの迷いもない。調味料を投入するタイミングは、まるで精密にプログラミングされたシーケンスを見ているかのようだった。
その徹底した「作業」を凝視していたイカロスが、たまらず問いを投げかける。
「……味については、どう考えている」
「どうでもいいと思っているわ」
玲子は火力を絞り、炎の揺らぎを冷徹に見つめたまま続けた。
「私に必要なのは、設計図通りに正確な作業を完遂することだけ。結果として得られる味なんて、正しいプロセスの後に残る『副産物』に過ぎないもの」
クロサワはその言葉を聞き、背筋に微かな戦慄を覚えた。彼女が語っているのは、もはや料理の話ではない。これから彼女が構築しようとする「組織」や「世界」そのものの在り方なのだ。
玲子は大鍋をコンロに据えると、下準備を終えた材料を次々と放り込んでいく。大胆な投入だが、その分量はあらかじめ計量されたかのように寸分違わない。
――調理開始から、二時間半。
排気音だけが響く人工的な冷気の中で、場違いなほど家庭的なカレーの匂いが、逃げ場のない地下空間を隅々まで満たしていた。
イカロスの胃袋が真っ先に「降伏」の音を鳴らしていた。




