第三十八話 カタリストとアイス・エンジェル
イカロスのカップを置く音が、静寂に響いた。彼はゆっくりと顔を上げ、彩香の細い腕、そしてその奥に宿る決意の炎を値踏みするように見つめる。
「……嬢ちゃん。いきなりどうした、藪から棒に」
「私は、玲子様を守る剣になりたいんです。スカル・ラッツに脅され、攫われた時、私はただ震えて泣くことしかできなかった……でも、ウルフパックのみなさんの戦いを見て確信したんです。力があれば、私は私の意志で、玲子様を守り抜くことができると」
彩香の言葉には、もはや迷いも怯えもなかった。絶望の淵で玲子が見せてくれた「力」こそが、この理不尽な世界で愛する人を守る唯一の聖域だと信じて疑わない。
イカロスは楽しそうに傍観している玲子に水を向けた。
「お嬢……こう言ってるんだが、どうする?」
「イカロス、モテモテね。あなたが決めていいわよ」
玲子の許可を得て、イカロスはしばらく沈黙した。空になったティーカップの底をじっと睨みつけ、やがて鋭い視線で彩香を射抜く。
「……いいだろう。だが、一度始めたら『やめる』なんて言葉は受け付けねえ。明日から部隊に合流しろ。俺とメンバー全員で、徹底的に鍛えてやる」
「……! ありがとうございます! よろしくお願いします!」
彩香が弾かれたように一礼すると、イカロスは満足げに鼻を鳴らした。
「そうと決まったらコードネームを決めねえとな。ウルフパックのしきたりでな」
その言葉に、クロサワが「待った」をかけるように身を乗り出した。玲子の愛車を『シロ』と名付けた忌まわしき記憶が、脳裏をよぎったのだ。
「イカロス、お待ちなさい。命名に関しては、慎重に……」
「旦那、これはBlack Wellの事じゃない。俺の部隊の話だ。口出しは無用だぜ」
イカロスの低い拒絶に、クロサワは苦虫を噛み潰したような顔で黙り込むしかない。重苦しい沈黙の後、イカロスは重厚な口調で告げた。
「……カタリスト。彩香。お前は今日からカタリストだ」
玲子とクロサワは、意外な響きに同時に目を見開いた。
「……てっきりポチとかタマとか付けると思ってたわ……」
「左様ですな。そんなまともな命名ができるのでしたら、なぜお嬢様の車に『シロ』などという安直な名を付けたのですかな」
クロサワの痛烈な皮肉を、イカロスはフンと鼻で笑い飛ばした。
「……あいつは白かったからシロなんだよ。だが、この嬢ちゃんは違う……こいつは、俺たちの空気を変えちまう何かを持ってる。だから、カタリストだ」
――彼の心の奥にあったのは、彩香に対する期待だった。
図らずもイカロスの「高い評価」が露呈した瞬間に、彩香は頬を上気させ、拳を握りしめた。
場が一段落し、全員が新たな決意を胸に秘めたその時。
不意に、玲子が不公平に気づいた子供のように頬を膨らませ、不満げな視線を皆に向けた。
「……ずるい。私も、かっこいいコードネームが欲しい」
「……おいおい、お嬢。いくらあんたの頼みでも、ウルフパックにだけは入れられねえぞ。正人様と雅様に知られたら、俺たちは文字通り部隊ごと消されちまう」
イカロスが冷や汗を拭いながら必死に宥めるが、玲子はそれを無視して、どこか遠くを見つめるようにぽつりと呟いた。
「……白岡玲子」
彩香は思わず目を丸くして、素っ頓狂な声を上げた。
「えっ……? 玲子様、それがコードネーム、ですか?」
「お嬢様、偽名にしても正体を隠しきれておりませんぞ」
クロサワが呆れたように紅茶を注ぎ足すと、玲子は少し拗ねたように「じゃあ……」と言葉を継いだ。
「――アイス・エンジェル。これならどうかしら?」
その瞬間、ダイニングに奇妙な沈黙が流れた。
あまりに直球で、かつ玲子の本質を突いたその「可愛らしすぎる名前」に、三人は顔を見合わせる。
「……お嬢。ああ、それがいい。それがいいと思うぜ」
イカロスは、それ以上追求して地雷を踏むのを恐れるように、深く頷いた。
「玲子様……なんてお似合いなのでしょう! 氷柱のように荘厳で、天使のように美しい……まさに玲子様そのものです!」
彩香だけは、文字通り瞳を輝かせて感動に震えている。
「はい、お嬢様。そのお名前にいたしましょう。世界で最も美しいコードネームでございます」
クロサワもまた、慈しむような眼差しで玲子に傅いた。
こうして、玲子待望のコードネームが決まった。
……もっとも。
「お嬢様、そろそろ午後の予定が……」
「お嬢、新入りの装備品をチェックしてくれ」
「玲子様、農園から写真が届きましたよ!」
――その後、Black Wellのメンバーが彼女を「アイス・エンジェル」と呼ぶことは、ただの一度もなかった。
彼女は彼らにとって、永遠に、名前という枠を超えた絶対的な「お嬢様」であり「玲子様」だったからである。




