第三十六話 回想
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――十五年前。老舗の人形店。
そこには、柔らかな日差しのような笑みを湛えた、八十を過ぎた祖母の姿があった。
「玲子や。好きなものを選びなさい」
小学生だった玲子は、宝石を見つけた子供のように目を輝かせ、棚の特等席に鎮座する一体のフランス人形を指差した。
「おばあ様! この子がいいわ。見て、とても可愛らしくて、とても素敵なお洋服を着ているの!」
祖母が優しく目を細めて会計を済ませると、玲子は受け取った人形を壊れ物を扱うように抱きしめた。その時の玲子の笑顔は、まさに春に咲く花そのものだった。
「ありがとう、おばあ様! 一生大事にするわ……この子の名前はマリー。私の一番のお友達よ!」
だが、その一ヶ月後、慈愛そのものだった祖母は遠い彼方へと旅立っていった。
そして祖母の葬儀が終わるのを待っていたかのように、雅による『演技指導』という名の監獄が、玲子を飲み込んだ。
――祖母の葬儀から、さらに一ヶ月後。玲子の部屋。
冷たい空気の中、雅は溜息をつき、感情を露わにする娘を冷淡な目で見下ろしていた。
「何度言えばわかるの? 自身の感情を流してどうするの。早くそんなものは捨てなさい」
玲子は喉の奥に詰まった感情をどう処理すればいいのか分からず、ただ立ち尽くしていた。
ノックの音が響く。
「お母さま、玲子、入るわね」
入ってきたのは玲香だった。見惚れるほどに整った可愛らしい顔立ちは、まるで精巧なフランス人形に魂が宿ったかのようだ。
ペコリと可愛らしいお辞儀をすると、雅に甘えるように抱き着く。
「お母さま! 次は私の演技指導でしょう。ほら、玲子も少し疲れているみたいだから、このまま続けても、きっと効率が悪いわ」
雅は腕を組みながら、人差し指を唇に当てた。
「……それもそうね。玲子。きちんと復習しておくのよ」
そういって雅と玲香は部屋を出て行った。玲香は部屋を出ていく際、玲子にだけ分かる様に、手を小さく振り、にっこり笑いながらウィンクをした。
一人残された室内。玲子は傍らで見守る『親友』に目を向けた。
フランス人形のマリーは、いつもと変わらず、整った顔立ちと優雅な微笑みを玲子に向けている。
「……ねえ。あなたはどうして、いつもそんなに幸せそうに微笑んでいられるの?」
それは、あまりに純粋な問いだった。
玲子は無機質な手つきでマリーを手に取り、その美しく飾られたドレスを剥ぎ、関節を一つずつ、音もなくバラバラに解体していった。
飛び散った綿。無造作に転がる陶器の四肢。ガラスでできた瞳。
その傍らで、玲子はバラバラになった人形を見つめながら、氷のような声で呟いた。
「なんだ。簡単なことだったのね」
中身が空っぽだから。作り物で、心なんて最初から持っていないから。だからこそ、この子はどこでも完璧に微笑んでいられるのだ。
「私、二度と間違えないわ」
この日、玲子は感情を捨てた。
――バラバラになったマリーの残骸を前に、玲子の瞳からは一切の光が消えていた。
空っぽになれば、微笑んでいられる。その真理に辿り着いた彼女は、次に、自分の手で「新しい形」を作り始めた。
それは、飛び切り上等だったマリーとは似ても似つかぬものだった。
どこかから拾ってきたボタンの目。余った毛糸の髪。継ぎ接ぎの布と、芯代わりの段ボール。幼い玲子が不器用な手付きで縫い合わせたその人形は、左右非対称で、ひどく歪な形をしていた。
玲子はその人形の胸元に、雅から手渡された「ある装置」を埋め込む。
それは、雅の演技指導が録音された再生機だった。
『相手を騙す時は、堂々と微笑みなさい』
『哀れみを誘う時は、計算して涙を流すのよ』
『誘惑するときは、相手の腕に絡みつきなさい。心は決して動かさずに』
ボタンを押すたびに溢れ出す、冷たく澄んだ母の声。
それは母の声をした「教典」だった。
玲子はその歪な人形を『メリー』と名付けた。
自作のメリーを抱きしめると、中の機械がゴツゴツと肋骨に当たる。捨てた感情が玲子の元へ戻ろうとした時、メリーの中のボタンを押した。
泣きたい時、「堂々と微笑みなさい」と命令が下る。
寂しい時、「心は決して動かさずに」と突き放される。
やがて玲子は、捨てた感情をどこに置いてきたのかさえ分からなくなった。
***
(マリー。あなたは、私が見せるべき、空っぽで美しい『偶像』だった)
(メリー。あなたは、私を完璧な人形に変えた母の『命令』だった)
アイマスクをつけたまま、玲子は自身の胸元に手をやった。
そこにはもう、祖母が買ってくれた陶器の感触も、不器用に縫い合わせた毛糸とボタンの感触もなかった。
(……マリー、メリー。今の私、ちゃんとできているかしら)
深い意識の淵で問いかけると、バラバラにしたマリーと、歪な姿のメリーが現れ、同時に、そして無機質に答えた。
『『はい。玲子様。さきほどは完璧な救世主を演じきりました』』
……玲子の細い手が、何かを掴もうと一瞬だけ宙を彷徨った。
……何も掴めずに、肩を落とす。
……失意の元で意識が朦朧とする中、そのまま深い眠りについた。
――。
「……お嬢、着いたぜ」
イカロスの落ち着いた声が、玲子の意識を現世へと引き戻す。
玲子はゆっくりとアイマスクを外した。そこにはもう、震えていた少女の面影はない。
「ありがとう、イカロス」
彼女は、いつもの、完璧にコントロールされた微笑みをイカロスに向けた。一分の隙もない、世界で最も美しい「仮面」。
車を降り、風に吹かれながらマンションを見上げる玲子の背中は、救われた親子とは対照的な、誰にも理解されることのない、絶対的な孤独を纏っていた。




