第三十五話 帰国
――プライベートジェット専用ターミナル。
赤く燃える朝日が、東の空を染めていく。
洗練された静寂が支配するラウンジで、玲子、クロサワ、彩香の三人は、温かいお茶を飲みながら、その時を待っていた。
滑走路の彼方から、一機の機体が陽炎を揺らしながらこちらへと滑り込んでくる。
「来たようですな」
クロサワの静かな声に、玲子が頷く。
「ええ……いきましょうか。彩香、準備はいいかしら?」
「はい。玲子様、問題ありません……その……母を助けていただき、本当にありがとうございました。」
彩香は震える手を落ち着かせ、すっと立ち上がると、玲子に向かって深い礼をした。
ゲートの前で三人が待ち受ける中、自動扉がゆっくりと開いた。
先頭を切って現れたのは、任務を完遂し、どこか晴れやかな顔をしたイカロス。そして、その背後から、ウルフパックの女性メンバーに支えられるようにして、一人の痩身の女性が姿を現した。
「お母さん……!!」
彩香の叫びは、喉を千切らんばかりだった。
呆然と立ち尽くしていた綾乃が、その声に弾かれたように顔を上げる。
「彩香……! 彩香なのね!?」
二人は吸い寄せられるように駆け出し、互いの体温を確かめるように激しく抱き合った。
十年。あまりに長く、あまりに過酷だった空白。
二人は周囲の視線も、自分たちの立場もすべて忘れ、ただ声を上げて泣きじゃくった。その嗚咽は、凍りついていた時間が溶け出す音のようだった。
ウルフパックの屈強なメンバーたちが、思わず目元を拭い、もらい泣きを隠そうと空を仰ぐ。
そんな喧騒の中で、玲子だけが、感情のない瞳でその光景をじっと見つめていた。まるで、自分には決して手に入らない眩しすぎる光を、網膜に焼き付けているかのように。
そんな玲子を見たイカロスは、やるせない表情のまま、音もなく彼女の側へ近づいていった。
「……ほらよ、お嬢。約束の土産だ。最高級のブランデーだぜ」
隣に立ったイカロスが、琥珀色の液体が揺れる瓶を無造作に差し出す。
玲子は視線を瓶へと移すと、一瞬だけ、儚げな、それでいて少女のような柔らかな微笑を浮かべた。
「ありがとう……これで、ブランデーケーキでも作りましょうか。ねえ、クロサワ」
クロサワは、どこかほっとしたような表情で、慈愛の笑みを玲子に向けた。
「はい、お嬢様。腕によりをかけましょう」
玲子は一度だけ深く息を吐くと、いつもの凛とした表情に戻り、指示を出した。
「クロサワ。二人が落ち着いたら、彩香の家まで送ってあげて。それから、綾乃さんは明日から4Sグループの総合病院で精密検査を受けてもらうわ。最高の環境を用意して」
「承知いたしました。すべて、万全に整えておきます」
「ありがとう、後は任せたわ……イカロス、行くわよ。協力してくれたウルフパックの皆には、後で最高級の礼をさせてもらうわ……もちろん、あなたにも」
すらりとまっすぐに背を伸ばした玲子はイカロスを見上げ、微笑んだ。
「ああ、そいつは楽しみだ」
玲子は、まだ泣き続けている彩香たちの邪魔をしないよう、音もなく背を向けた。
そして立ち去り際、整列したウルフパックのメンバーに向けて、一度だけ丁寧にお辞儀をした。
「皆、お疲れ様……いい仕事だったわ」
玲子の労いに、彼らは誇らしげに胸を張る。
その後は一度も振り返ることなく、コツコツとヒールの音を響かせて、朝焼けの差し込む空港を後にした。
――シロの車内。
後部座席のリクライニングを深く倒し、玲子は黒いアイマスクを当ててシートに沈んでいた。 運転席のイカロスは、バックミラー越しに主の様子を一度だけ確認すると、何も言わず、ただ静かに玲子の住むマンションへと続く道を滑らせていく。
玲子のまぶたの裏に焼き付いて離れないのは、先ほどの光景だ。
互いの体温をぶつけ合い、なりふり構わず泣き叫んでいたあの綾乃と彩香。玲子には決して手の届かない、灼熱のような生の感情。
玲子の意識は、深く、静かに遥か昔の記憶の淵へと沈んでいった。




