第二十一話 キャンプリーダー
挨拶を終えた三人が、雅に指示された調理エリアへ向かうと、そこには先ほど肩を震わせていた女性リーダーが立ち尽くしていた。
威圧感のあるイカロスや厳格そうなクロサワには目も向けない。ただ一点、自分へ近づいてくる玲子の姿を凝視している。その顔には、必死の作り笑顔が張り付いていた。
玲子は一点の曇りもない、にこやかな挨拶を投げかける。
「――おはようございます。初めまして、白坂玲子です。お手伝いに来たのよ。よかったら、貴方のお名前を教えてくださるかしら?」
彼女は足元を絡ませながら、後ずさりをした。玲子より高い位置にある視線は一点に定まらず、ひきつった笑顔のまま、掠れた声で答える。
「お、おはようございます……っ。わたしは、佐藤……彩香、っていいます。よ、よろしく……お願いします……」
その様子を観察していた玲子は、流れるような動作で彩香に寄り添った。傍目には親しげに耳打ちをしているようにしか見えない距離。彩香の鼓膜にだけ届く柔らかな音量で囁いた。
「……そんなに怖がらないで。けれど、どうして私を見て怯えていたのか――その理由は、後でじっくり聞かせてくれるかしら?」
「っ……!」
彩香の喉がヒュッと鳴り、表情が驚愕と絶望に染まる。周囲の子供たちの目には、親切な「お嬢様」がリーダーに段取りを確認している微笑ましい光景に映っていただろう。だが、彩香にとってその囁きは、刑の執行を告げる、処刑人の宣告のように聞こえた。
玲子は唇を端をわずかに上げると、何事もなかったかのように、しゃもじを手に取った。
「さあ、みんな。お腹を空かせているわ。準備を続けましょう?」
玲子の号令で、止まっていた時間が動き出す。背後では雅が、別の子供を慈しむように抱きしめていた。こちらをチラリとも見ていない。
その真上。色づき始めた木々の隙間から、ドローンのモノアイカメラが、音もなくこの歪な光景を記録していた。録画された4K映像の中で、震える彩香と、微笑む玲子、そして完璧な聖母――。
マリーが操作するドローンのレンズが、キャンプ場にいる「佐藤彩香」へ、静かに焦点を当てていた。
――昼食を終えた後。 雅と玲子は、喧騒から離れたバンガローの一室で、コーヒーカップを片手に向かい合っていた。
雅は、春の日だまりのような慈愛に満ちた微笑みを玲子に向ける。
「今日は来てくれて本当にありがとう。とても嬉しいわ……そういえば玲子、面白い『組織』を作ったんですってね? 正人さんから聞いたわよ」
玲子もまた、潤んだ瞳で雅を上目遣いに見つめ、いじらしい娘を演じてみせる。
「私も、お母様にお会いできて嬉しかった。はい……お父様のお仕事をお手伝いするために、立ち上げたの」
雅はうっとりするような仕草で人差し指を顎に当て、首をわずかに傾げた。その動作一つ一つが、見る者を魅了する計算され尽くした芸術だった。
「……今の表情、悪くなかったわ。けれど、相手を騙し抜こうとする時は、もっと確信を持って向き合いなさい……こういう場面なら、玲香の演技を参考にするといいわよ」
玲香――姉の名が出た瞬間、玲子の眉がわずかに動いた。彼女は少しだけ悔しそうな、だが健気な表情を作って雅を見つめる。
「ありがとうございます……まだ、お姉様ほど完璧にこなせないのは、自分でも自覚しているわ」
雅は満足げに頷くと、周囲に誰もいないことを一瞥で確認し、すっと表情を消した。先ほどまでの慈愛が嘘のように、そこには感情を排した「能面」のような女がいた。
「――表情を崩していいわよ。暇つぶしで始めたと正人さんから聞いたけれど、悪くないと思うわ。しっかりその組織で、『魅了』と『支配』の使い方を学ぶのよ。人を欺き、落とし、従属させなさい」
玲子もまた、虚無を湛えた瞳で雅を見つめる。
「はい、お母様。そのつもりです」
「よろしい。今回は『追試』はなし。あとは自由にしていいわよ……もし、手に負えない『ゴミ』が出たら、私に言いなさいな。片付けてあげるから」
その声は、もはや鈴の音ではなく、凍てついた刃のように鋭く響いた。
――雅と別れ、玲子はシロへと続く木漏れ日の道を歩いていた。過酷な任務を終えたかのような重い足取り。そして、弱りきった封印が解かれるかのように、胸の奥底の古い記憶が揺り戻される。
――それは、十数年前。祖母の葬儀の日のことだ。
小学生だった玲子は、立ち込める線香の香りと黒い祭壇の前で、しゃくり上げるように声を上げて泣いていた。大好きだった祖母との永遠の別れ。幼い胸を焼く喪失感に、理由も、作法も、加減も分からぬまま、ただ濁流のような涙が溢れ出していた。
その背後に、シワ一つない喪服に身を包んだ若き日の雅が立つ。周囲の弔問客に「おしとやかな美しき嫁」として完璧な横顔を見せながら、彼女はそっと玲子の肩を抱き寄せた。
そして、慈愛に満ちた仕草で、死神のように冷ややかな言葉を耳元へ落とす。
「玲子――大声で、感情をむき出しにして泣くのはお止めなさい」
続く囁きが、玲子の心拍を止めるほどの混乱を与えた。
「……相手の同情を誘い、あなたに心を許すように誘導しなさい。常に頭で計算しながら泣くのよ」
鼓膜が震えていることすら忘れてしまったその瞬間。玲子の心に溢れていた熱い悲しみは、急速に拡散し「虚無」へと変わった。記憶の中の泣き声は、録音テープを断ち切るように、唐突に途絶えた。
(……そうね、お母様。私はあの日から一度だって『理由のない涙』なんて流していないわ)
玲子は首を小さく振り、過去の残像を振り払う。 今、彼女の瞳に浮かんでいるのは、秋の陽光を反射する無機質な光だけだった。
玲子はただ、自分の居場所へと前を見据え、歩き続けた。




