第二話 おままごとの相手
玲子は重厚なオーク材の扉を勢いよく開けた。三か月前と変わらぬ木材の芳香が、鼻腔をくすぐる。 デスクの奥でPCを操作していた正人は、娘の姿を認めるなり、相好を崩して顔を上げた。
「玲子、よく来たね。お前が心待ちにしていた『人形』と『家』の準備がようやく整ったよ。後でじっくり見に行くといい」
その言葉を聞いた瞬間、玲子の顔に少女のような純真な輝きが宿った。
「本当? お父様、大好き!」
彼女は弾かれたように駆け寄り、正人の胸に飛び込んだ。先ほどまでの冷静な顔はどこへやら、今の彼女はただ、欲しかった玩具を買い与えられた子供そのものだ。
(これでようやく退屈な会社員生活ともおさらばできるわ)
「これこれ、落ち着きなさい……人前だぞ」
正人は困ったように笑いながらも、その細い肩を優しく抱きとめ、たしなめるように言った。 その言葉に、玲子は我に返ったように視線を巡らせる。 広い会長室の隅、逆光の中に溶け込んでいた「影」が二つ、音もなく動き出した。
一人は、隙のないダークスーツを纏った初老の男だ。白髪を完璧に整え、背筋を定規で引いたように伸ばしている。その左目に嵌まったモノクルが、室内の光を冷たく反射していた。
もう一人は、対照的に野性味の塊のような男だった。ミリタリーテイストの服に包まれた、一九〇センチを優越する巨躯。岩のように盛り上がった筋肉と、鋭く刈り込まれた短髪が、隠しきれない威圧感を放っている。
玲子はきょとんとした表情で、その二人を凝視した。
「クロサワと、イカロス……? 来てたのね」
執事のような優雅さで一歩前に出たクロサワが、音もなく完璧な角度で一礼する。
「ご無沙汰しております、お嬢様。旦那様よりお呼び出しをいただきました」
一方、巨漢の男――イカロスは、軽く頭を下げたものの、その声音には隠しきれない不愛想さが混じっていた。
「お嬢。会社でコードネームを呼ぶのは勘弁してくれ」
不機嫌そうに鼻を鳴らしながらも、イカロスは懐かしむように目を細め、玲子を上から下まで眺める。
「……最後に会ったときから随分経つが、驚いたな。ずいぶん大きくなった」
その会話を断ち切るように、正人がぱんと短く手を叩いた。室内の空気が一瞬で切り替わる。
「再会を懐かしむのはそこまでにしておけ。二人には悪いが、現在抱えている案件はすべて他へ引き継いでもらう。これからは、玲子の『おままごと』に付き合ってやってくれ」
クロサワとイカロスは一瞬だけ視線を交差させた。〈4S〉の精鋭である彼らを私的な遊びに回すという宣言。常人なら耳を疑うような命令だが、二人は即座に主の方へ向き直る。
「待遇は現在の最高評価のまま維持する。今日からお前たちの主は玲子だ……よろしく頼む」
正人の静かな、だが拒絶を許さない声が響く。 二人は何も言わず、ただ深く、承諾の会釈を返した。彼らの無言の肯定は、二十億の予算と最先端の「人形」を動かすための、もっとも強力な「パーツ」が揃ったことを意味していた。
――地下駐車場の重苦しい静寂を切り裂き、黒塗りの高級セダンが滑らかな曲線を描いて現れた。 運転席にはクロサワ。寸分の狂いもない優雅なハンドル捌きで車を出口へと導く。
後部座席の深いレザーシートには玲子が、その対角線上、助手席には巨躯を窮屈そうに折り畳んだイカロスが座っていた。 都心の喧騒を抜け、遮音性の高い車内に沈黙が満ちる。高級車特有の、密閉された静寂。
その静寂を破ったのは、天井に頭をこすりつけんばかりのイカロスだった。彼は顔を背けたまま、低く唸るような声で口を開く。
「……おままごと、という話だが」
まるで告白を躊躇う少年のように逡巡してから、彼は続けた。
「……父親役なら出来る」
玲子は意外そうに目を瞬かせた。最強の警備総長として名を馳せる男の口から出た言葉を、脳内で反芻する。
「……娘とよくおままごとで遊んでいた」
見れば、イカロスの耳たぶが林檎のように赤く染まっている。彼は耐えきれなくなったように視線を前方へと投げ出した。 次の瞬間、玲子の喉から鈴を転がすような笑い声が弾けた。
「ふふっ……あはは! 意外ね、本当に」
からかうような、けれどどこか慈しむような響き。
「じゃあ、私は妻役でいいかしら。お家に帰ったら、みんなに手料理を振る舞ってあげる」
イカロスは石像のように固まり、数瞬後に激しく咳き込んだ。
「お嬢……それは勘弁してくれ。本物の妻に殺されちまう」
玲子の笑みはさらに深まった。今度はその瞳に、主としての確かな色が混じる。
「冗談よ……じゃあ、あなたは『ファミリー』の敵を叩き潰す盾。それがあなたの役目」
「現役の警備総長には、最も相応しい役回りですな」
運転席から、クロサワの抑制の効いた声が割り込む。
「では、私は姑役あたりが妥当でしょうか。小言には自信がございます」
老紳士の茶目っ気たっぷりな提案に、今度は後部座席と助手席の声が綺麗に重なった。
「「違う、執事役」」
クロサワはバックミラー越しに玲子の視線を受け止めると、満足げに口元を綻ばせた。
「はぁ……現実の役割と何ら変わりませんな」
「ええ」
「それが妥当だろ」
車内にゆったりとした穏やかな空気が流れた。
――やがて車は高速を下り、郊外の広い道へと進んでいった。住宅街の外れ、広大な庭に囲まれた白坂家の本邸――その隣に、場違いなほど無機質な、純白の四角い建屋が見えてくる。
(さて、私の『人形たち』は、ちゃんと息をしているかしら)
人形の住処が、西日を跳ね返し、白く発光するように聳え立っていた。




