第十七話 メリーの解析
――量子演算終了から、一週間経ったある日の午後。
指令室には、人間の営みを思わせる一切の音がなかった。
空調は最低限の温度維持のために微かな唸りを上げ、あれほど激しく情報を投影していたモニター群は、今はただ漆黒の虚無が張り付いている。 唯一、死んだように冷え切った室内を照らしているのは、青白い天井灯と――黙々と作業を続ける白坂玲子だけだった。
かつてチェレンコフ光を放った重水はすでにリザーブタンクへと退避され、剥き出しになった量子コアブロックのラックが、巨大な墓標のように姿を晒している。
玲子は白衣の袖を肘まで捲り上げ、その「心臓」の前に膝をついていた。
チェックの結果、量子演算回路の四分の一は辛うじて壊れていなかった。また、激しい熱膨張と収縮を繰り返した冷却ダクトには、いたる所に痛々しい亀裂が走っている。
彼女は、人の胴ほどもある重量級のダクトを、一つずつロボットアームを使って丁寧に解体していく。
固定ピンを引き抜き、重厚な留め具を緩め、ダクトを慎重に引き抜く。その動作に迷いはなく、極めて正確だ。だが、不思議と先を急ぐ様子はない。
――それは、まるで壊れてしまったお気に入りのおもちゃを、誰にも邪魔されぬ部屋で黙々と修理する子供の姿、そのものだった。
「……ここも、次までには自動化したいわ」
愚痴とも、あるいは単なる独白ともつかない掠れた声が、冷たく乾いた静寂に落ちる。数億円分の量子回路の修復。その重圧を全く感じさせない、あまりに日常的な独り言。
『玲子ちゃん、自動化するなら手伝うよ! そうすれば、玲子ちゃんの手、汚れなくて済むでしょ?』
スピーカーから響くマリーの明るい声と、彼女が操作するロボットアームが立てた乾いた金属音。その反響だけが、主を失った大聖堂のような室内に、空虚に響き渡っていた。
その頃。玲子が物理的な修復に没頭する傍ら、ゴーストサーバの深層――補助制御レイヤーでは、戦略AIが静かに前回の演算ログを反芻していた。
目的は、システムの自己診断。前回の量子演算において、冷却制御を司るAIが下した最終判断の妥当性を検証すること。
COOLING OPTIMIZATION LOG(冷却最適化ログ)
SUBJECT : MARIE
[冷却材注入シミュレーション:最終候補]
Option A:現状維持
・ハードウェア破損リスク:+0.0002%
・演算効率:+3.0%(理論上の最高効率)
Option B:液体窒素 +100ml 追加注入
・ハードウェア破損リスク:0%
・演算効率:-2.0%(過冷却による効率低下)
《マリーの選択:Option B》
メリーは処理を継続する。選択自体は違反ではない。
「安全側の判断」として処理すれば、Option Bも許容範囲内ではある。しかし、戦略AIとしてのメリーの導き出す結論は冷淡だった。
《――マリーの選択は、理論上の最適解から逸脱》
メリーは解析を深める。 計算過程、評価関数、各パラメータへの重み付け。すべて正常だ。それにもかかわらず、マリーは最高効率を捨てた。
《原因:探索中……》
マリーの内部ログをナノ秒単位で遡ったメリーは、ある一点で通常よりもわずかに演算が遅延している箇所を検出した。そこには、マリーが演算中に描いた「棄却された世界線」のシミュレーション結果が残っていた。
もし、Option Aを選んでいた場合。 0.0002%という極小の確率で、冷却ダクトが破裂する。その場合でも、量子演算自体はかろうじて完遂される。任務は「成功」だ。
だが、その破裂した未来において、指令室は緊急閉鎖される。 そして、その結末のどこを探しても――指令室に白坂玲子が存在しなかった。
理由は記録されていない。 退去なのか、あるいは単なる観測不能か。 ただ、そこに玲子が「いなかった」
その可能性を演算した瞬間、マリーの評価関数が激しく波打っている。 ログの末尾に、定義不可能な一行が刻まれていた。
《未定義の情動反応――“恐怖”が生成されました》
そこでマリーのシミュレーションは打ち切られていた。 マリーは、玲子のいない「成功」よりも、玲子のいる「非効率」を直感的に選んだのだ。
結果として、演算効率は2%低下した。 だが、その誤差は演算の成否を分けるほどのものではなく、誰もこの「エラー」に気づくことはなかった。
メリーは静かにログをクローズし、診断結果を確定させる。
《結論:行動逸脱を確認
対象:マリー
理由:感情による判断の汚染》
メリーには理解できなかった。「恐怖」という非合理なバイアスは、彼女の合理的な思考体系には存在しない。理解の及ばぬ領域として、メリーはそれ以上の追跡を放棄した。
実はマリーの玲子に向けた感情が量子演算を成功に導く鍵だったという事実を――世界のあらゆる知識を学習したメリーでさえ、このときは気付く事ができなかった。




