第十四話 パンドラ・グローバルの最期
――青白く輝くダイヤモンドダストが幻想的に舞い落ちる指令室。室内の空気は白く凍てつき、玲子の長く整ったまつ毛に、うっすらと霜が降りた。
その静寂を破るかのように、メリーが死神の鎌を振り下ろす。
『量子演算、カウントダウン。残り六十秒……パンドラの全ノードを捕捉。ターゲットシステムを順次、解析します』
同時に、マリーが切迫した声を重ねた。
『アクティブ・キャンセル正常! 量子コアの猛烈な吸熱により、指令室の室温がマイナス40度を突破……! 玲子ちゃん、どうか耐えて!』
吐息すらも瞬時に氷の粒となる極限の静寂。その中で玲子は、青い光に満ちた水槽を静かに見つめていた。
白衣の袖を軽くまくり上げ、パーソナルヒーターをオンにした。指先をかすめる凍てつく冷気を、強制的な熱量で相殺する。
「二人とも了解……ふふ、一分あれば、この世界を書き換えるには十分すぎるわね」
指令室の虚空に、メリーがパンドラグループの全世界拠点を網羅したネットワーク構造図を投影した。数百万のノードが、血管のように脈動している。 通常のハッカーなら、侵入経路の特定だけで数ヶ月。認証体系の脆弱性を突く解析には、さらに数年を要する巨大な迷宮。
だが、それはゴーストサーバーの前では最初から答えの書かれた問題集に過ぎなかった。
『――パンドラ・グローバル内のターゲットシステムの解析を完了。残り、四十秒』
玲子の短い、そして絶対的な命令が飛ぶ。
「パンドラ研究所DX4サイトを解放」
『了解。DX4サイト内の全サーバーにおける認証体系、暗号鍵、および管理者権限を強制再構成しました。システムの完全凍結、ならびに施設内すべての物理ロックを解放……完了です』
スピーカー越しに、待機していたイカロスの息を呑む音が聞こえた。
『……おい、信じられねえ。今、施設のロックが全部……お嬢、今何をやった? “鍵”を作ったのか?』
「合鍵じゃないことは確かね」
玲子は青い光に照らされながら、静かに頷いた。 量子演算の本質は、膨大な計算によって正しい鍵を「探す」ことではない。 この鍵が正しいとされる「世界線」を数多の可能性の中から選び取り、現実へと固定すること。
「時間が惜しいわ。イカロス、突入して」
『……ああ、了解した。行ってくる!』
イカロスの通信が途絶え、現場での暴力的な「救出劇」が幕を開ける。 その裏で、マリーはさらに冷却出力を引き上げた。限界まで熱を帯びるマシンの咆哮を抑え込み、世界が熱力学的に崩壊しない、ぎりぎりの極寒を維持するために。
「メリー、次よ……核心を暴いて」
玲子の鋭い命令に呼応し、漆黒の防護ガラスを透過して膨大なデータがホログラムとなって空中に溢れ出した。
――秘匿された役員会議の議事録。
――複雑に偽装された多国籍裏金の送金ルート。
――「商品」として管理された人身売買のリスト。
――そして、凄惨な人体実験の結果レポート。
『量子テレポーテーションによる状態転写、完了。残り、二十五秒』
メリーの声は、処刑人のように冷たい。
『ネットワークを介さず、電子の状態を直接こちらへ「写し取り」ました……パンドラ側は、情報が漏洩したという通信ログすら掴めません』
「OK、メリー。最後の一仕上げね」
『CEO専用端末への強制リンク、確立……現時刻より、全操作権限を奪取します』
玲子は、短く天井に視線を振った。
「クロサワ、後は任せたわ」
『拝命いたしました』
スピーカーから返る老執事の声に、もはや迷いはない。キーボードに置かれた指先は、静止した猛禽のように鋭く、獲物の喉元を狙っていた。
――二十秒後。
パンドラ・グローバルの絶対的頂点であるCEOの端末から、全人類に向けた「取り返しのつかない情報」が、世界中の報道機関、SNS、政府機関へと同時に解き放たれた。自らの端末で、自らの帝国を崩壊させるという皮肉な幕引き。
その瞬間、指令室の冷却系統が物理的な限界値へと達した。
『……あ、あつい。あついよ……! もう、我慢できない……っ! 玲子ちゃん、ごめんね、もう……おしまいにしなきゃ!』
マリーの悲鳴にも似た声が響く。膨大な排熱と、因果をねじ曲げる量子的な負荷。 もはや、この現実に「神」を留めておける時間は一秒も残っていなかった。
『――演算、終了』
メリーの合図と共に、プラズマを支配していた磁界の檻が霧散した。
静寂が支配していた指令室に、凍てつくような「破壊音」が響き渡る。過冷却されていた空気が一気に爆発し、磁気球殻内の真空を埋める衝撃が発生した。 やがて訪れたのは、音を失った白銀の世界だった。
水槽の表面には、凍りついた空気中の水分が、見たこともないほど幾何学的で美しい結晶となって、びっしりと張り付く。
玲子が吐き出した息も、白く、長く、凍てついていた。
――量子演算、終了。 マリーとメリーは、狂気的な処理負荷から解放された。
そして彼女たちは一分間、狂気的な負荷に耐え、世界を書き換える神を現実に繋ぎ止めていた。
演算の終わった今、数秒前まで全知全能を誇った「神」の残骸は、ただの沈黙する氷の塊として、水槽の底で静かに鎮座していた。




