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非合法組織を立ち上げて、スローライフを楽しみたい  作者:


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第十三話 量子演算開始

 ――データセンター地下ダイニング。

 キーボードを構えるクロサワの指先が、微かに、だが止まることなく震えていた。

 机に置かれたフランス人形のマリーがクロサワに話しかける。

 「じいや、緊張している?」


 クロサワはにこやかに返す。

 「マリー嬢、ただの武者震いですぞ……まあ多少は、緊張していますがな」


 ――冷却機構が発する冷ややかな空気で満たされた指令室。

 玲子は防寒白衣に袖を通すと、そのままコックピットチェアに深く沈み込んだ。


 視線を指令室の奥へと向ける。その先には、重水を湛えた巨大な防護ガラスの水槽が鎮座していた。

 その底に、無数の電源コードが収束する台座と、黒い宝珠のような磁気球殻が、強化スピネル(透明セラミックス)製のラックに収められ、静かに沈んでいた。

 満たされた重水の屈折により、その輪郭がさざ波のように歪む。


 その真上。天井から垂れ下がる冷却系や排気系のダクト群が、複雑に交差しながら水槽の蓋、ラック、磁気球殻を貫き、まるで心臓を繋ぐ血管のように絡みついていた。


 玲子が指令室に入ってから5分後、イカロスからの通信が指令室のスピーカーを震わせる。

 『お嬢、クロサワの旦那。こっちは配置についた……準備万端、いつでもオーケーだ。派手にやってくれ』


 「了解」

 玲子は短く応じ、コックピットチェアの上で、背筋を研ぎ澄まされた刃のように伸ばした。 そっと瞼を閉じ、一度、深く呼吸を整える。肺に満ちた冷気が、彼女の意識を極限まで研ぎ澄ました。


 ――一拍。


 目を開いたその瞳は、もはや麗しい女性のそれではない。無数の可能性の中から、たった一つの世界線だけを生み出さんとする創造主の眼差しに変わっていた。


 「液体窒素注入、冷却開始。3秒後に超電導シーケンス起動用意」

 それは、神を目覚めさせ、物理学の壁を突き破り、因果律を書き換えるためのカウントダウン。


 玲子の号令に、天井からマリーの幼い弾んだ声が響き渡る。

 『玲子ちゃん、了解だよ! 冷却、開始するね!』


 次の瞬間。 天井部のバルブが一斉に解放され、物理的な限界まで圧縮された液体窒素が、滝のようにダクト内を駆け巡り、極低温の濁流が磁気球殻内部にあるプラズマ制御室の直上――量子演算コアへと流れ落ちた。


 天井から量子演算コアへと繋がる冷却ダクトが、まるで膨大な血流を送り出す大動脈のように、大きく、激しく脈動を始める。


 「……来ますな」

 クロサワが、キーボードに手を置いたまま低く呟いた。


 ダクトの内部で、液体窒素が爆発的に沸騰する。 高圧の気泡がダクトの内壁を叩きつけ、重く、鈍い衝撃音が走る――。


 それは、地下深くで目覚めようとする「神」の心音。


 指令室を満たす重低音が、玲子の肌を、そしてこれから滅びゆくパンドラの運命を、静かに震わせ始めていた。


 メリーの落ち着いた声が、かすかに空気を震わす。

 『臨界温度を通過。超電導状態への相転移、およびマイスナー効果を確認。量子演算コアへの磁界干渉は完全排除(パージ)されます――併せて、コアが浮遊を開始しました』


 磁気球殻の厚い隔壁の奥、時の流れが凍りついた闇の中で、物理法則をあざ笑うかのように量子演算コアが宙へと固定されていく。「ピン留め効果」によって空間に刻みつけられたその姿は、この世に現れた異界の神格そのものだった。


 マリーは、ただひたすらに冷やし続けた。 メリーが選び取ろうとする、残酷で完璧な「世界線」を具現化するために。

 その働きに呼応するかのように、メリーはただ一言だけ告げた。

 『超電導シーケンス、すべてのプロトコルを完了』


 玲子は小さく、だが力強く頷く。

 「演算用意。エネルギー・バスライン、全接続」


 『バスライン接続、完了しました。量子演算制御、スタンバイ……玲子様、いつでもどうぞ』


 玲子は静かに、その引き金を引いた。

 「――全出力解放。演算、開始」


 『演算を開始します。補助電源、全系統リンク。送電開始』

 『磁場制御、最大出力でいくよ!』


 刹那、ゴーストサーバーのラック一面に、深紅の赤色灯が爆発的に灯った。 壁一面を埋め尽くした巨大バッテリー群の緑色のランプが、毒々しい彩りを添える。 それは――眠っていた数千の獣が、一斉に獲物を見据えて目を見開いたかのようだった。


 100メガワット。地方都市を丸ごと一つ維持できるほどの電力がマイクロ波の濁流となり、一瞬で量子演算コアへと流れ込む。 空気そのものが「キィィィィン」と鼓膜をつんざく高周波のうなりを上げ、その衝撃で空間が陽炎(かげろう)のように歪んだ。


 量子演算コア直下にあるプラズマ制御室内部で、マリーが展開した制御磁場が嵐のように荒れ狂っていた。破壊的な電力が生む狂気的なプラズマと、それを冷徹に抑え込む磁場のせめぎ合い。そのあまりのエネルギー密度に、現実と虚数の境界線が形を失っていく。


 暗黒星のような磁気球殻は一転、無秩序な熱運動が発する極限の制動放射を媒介に、超新星爆発のごとく熾烈(しれつ)な閃光を放ちはじめた。

 磁気球殻の発光に伴い、熱膨張した重水の圧力が臨界を突破する。「シュゥゥゥッ!」という鋭い排気音と共に、水槽の安全弁から重水の蒸気が指令室へと噴き出す。


 ――プラズマの暴力的な熱が、万物を原子レベルで崩壊させようと牙を剥く。だが、その狂気をマリーがねじ伏せた。一秒間に十億回という、人知を超えた速度で送出される制御信号が、刻一刻と迫る「破綻という未来」を片端から圧殺していく。


 破裂する配管、焦げ落ちる演算回路、そして制御不能に陥る現実。マリーは、それら全ての致命的なエラーを「最初から存在しなかったこと」に置き換え続ける。

 『あちちのプラズマ、捕まえたよ! ちゃんと檻の中に閉じ込めたからね!』


 マリーの弾けるような興奮した声が響いた、その直後。 世界から、一切の音が消失した。猛り狂っていたプラズマは、マリーの完璧な磁気制御によって真空の檻へと封じ込められ、もはや振動の一つさえ許されない。


 メリーの落ち着いた声が静寂を支配する。

 『……磁気球殻内、なぎの状態に入りました。量子演算コア、完全固定を確認。振動、ゼロ――併せてコアが吸熱を開始しました』


 網膜を焼くような暴力的な白光はその輝きを失い、水槽の中で(つい)え去った。玲子は目の前を闇で塗り潰されたような錯覚に陥り、視界が沈む。

 同時に、量子演算コアが物理法則を無視して貪り食う「吸熱」の奔流により、室内を埋め尽くしていた熱い霧が、逃げ場を失ったように一瞬で結晶化した。


 ――その刹那。


 沈んだはずの視界を、別の「光」が塗りつぶす。水槽を満たす重水が、溢れ出した高エネルギー粒子と激突し、静かな湖の底を覗き込んだような、鋭く透き通った青白い光を放ち始めたのだ。


 「チェレンコフ光……死の宣告をするのに、これほど相応しいものはないわね」


 極寒の空気によって降り注いだダイヤモンドダストが、その青白い光を乱反射させ、玲子の横顔を妖しく、そして神々しく照らし出した。 

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