銀世界より
美しい青年が、泥だらけで倒れていた。
私は目を疑った。この地は冬の山であり、訪れる人など商人ぐらいのものだからだ。
知らぬ土地の冬の山に入るのは命知らずと言う他ないが、青年の汚れた質素な服を見れば望んでこの森に訪れた訳ではないと理解できる。麓の道を通った時に必死の思いで逃げてきたのだろう、裸足の裏から血が滲んでいた。
辛うじて息はしているようだが、体があまりにも冷たい。素人目から見ても危険な状態だと分かるし、早く村のお医者様に診せなければ。
青年を持ち上げる。彼の体はあまりに軽く、まともに食事を取っていないと分かる。私は大急ぎで村へと戻ったのだった。
***
「これで大丈夫かしら。後は目が覚めるのを待つだけね」
自宅。決して大きくはない部屋の壁際にあるベッドで、名も知らぬ青年は穏やかに寝息をたてている。幾分かましになった顔色を見ながら、私は椅子に腰掛けた。
村に着いてすぐ、彼を診療所に連れて行った。しかし診療所で会ったお医者様からは疲れた様子で、青年を入院させることができないと謝られた。
「王様の使いの騎士さんたちの、怪我の治療が大変でね。病室で経過観察するのに手が回りそうにないんだ」
そう。最近この村に訪れた騎士たちが、村唯一の診療所を占領しているのだ。
彼らは王の命を受けて来た王国騎士団の人間なのだが、森に入る度怪我をして帰ってきて、毎度医師の世話になっている。そんなに怪我をするだなんて森で何をしているのだと聞いても、彼らは密命だと何も教えてくれない。そんな態度なものだから、村全体で彼らに対する不満が溜まっているのだった。
お医者様は短い時間ながら青年の様子を見てくださり、酷い疲労と空腹、そして凍えているようだと診断してくれた。「ベットに寝かせてよく温め、目が覚めたらこの薬草を使ったスープを飲ませれば、少ずつ良くなっていくよ」と言い、薬草とメモを渡された。
だから私はこうして今、自分の家のベットに青年を寝かせているのだった。自分のベットに他の人を寝かせることに抵抗がないと言えば嘘になるが、今回ばかりはそんなことは言ってられない。
青年のことを観察してみる。
やはり青年はとても美しい容姿だった。鼻筋は通っているし、まつ毛が長くて色白だ。今は隈がひどく頬が若干こけているが、十分に休息を取れば本来の美しさを取り戻すだろう。
そんなふうに観察をして数十分後。
深い眠りから覚めた彼はパチリと目を開け、私の顔をぼんやりと見上げた。
「あれ、ここは……」
「ここは私の家よ。体におかしなところはない?」
寝ぼけ眼の青年に、私は森で倒れている所を見つけ、村の医者に診せた後に私の家で休ませていた事を伝えた。
青年は段々と状況が分かってきたようで、「迷惑をかけて申し訳ない、助けてくれてありがとう」と何度も口にした。そんな様子の彼にスープを持ってきて、私は話を続ける。
「私はウーリントアっていうの。あなたは?」
「えっと、カーン。カーンだよ」
カーンと名乗った青年は、私と言葉を交わしつつも手を止めることなくスープを掻き込んでいる。この食いつきっぷりでは、一体どれほどまともな食事をしていなかったのだろう。
カーンの身に何があったのか。私にはそれがひどく気になり、尋ねてみることにした。
「あなた、どうしてあんな所で倒れてたの? 麓の道から逃げてきたんでしょ。何があったの?」
「それは……」
彼はスープを食べる手を止め、口を固く結んで俯いてしまった。……どうやら、あまり踏み込まれたくない話題だったらしい。
「ごめんなさい、答えづらいことを聞いてしまったわね。……実は私も、この村の外から来た人間なの。だから貴方のことが心配で、境遇が気になってしまったの」
「へえ、そうだったんだ。この村での生活は楽しいの?」
「ええ、とても良い人たちばかりよ。あなたもこの村が気に入ると思うわ」
カーンはスープを食べながら、嬉しそうに頷いた。
*****
「ウーリントア、君は僕を助けてくれた恩人だ。何か恩返しをさせてもらえないかな?」
スープを食べ満足そうに腹を撫で下ろした彼は、私にそう申し出る。しかし恩返しといっても、大層なものを要求するのは……あ。
「じゃあ、私の仕事の手伝いをしてもらおうかしら。荷物持ち……はまだ難しそうだけど」
「元気になったら何でも持つよ。なんでもするからね!」
まだあまり優れない顔色で、彼は威勢よく宣言したのだった。
*****
カーンがこの村に来て三週間が経った。
最近は彼なりに村を楽しんでいるようで、今日も朝早くから子供たちの遊びに付き合うために広場に行った。
村の人々の優しさと彼自身の人の良さもあって、カーンは村人達とうまく交流できたようだ。今ではすっかり遊んでくれる人として子供たちの間で人気だし、預けられる場所ができたと大人たちからも好評だ。
そして私も彼のお陰で、自身の生業である染物屋の仕事が楽になっていた。
染物をするには染料の原材料の採集が必要なのだが、岩場の多い山を歩き回って採集するのは大変なことだ。それが今はカーンが負担の半分を担ってくれているので、私はその分新たな染め方の模索や色作りをする時間が確保できるようになった。彼が来てから、間違いなく事が良い様に回り始めている。
現在、時刻は午後1時。森が一番暖かい時間なので採集に行くにはベストタイミングだ。特に今年の冬はいつもよりずっと寒いので、採集は日が出ているうちに終わらせてしまいたい。
カーンはまだ家に帰ってきていないが、多分子供たちにまだ遊びたいと駄々をこねられているだけだろう。
私は採集に必要な籠を持ち、彼が居る広場に向かった。
***
案の定、広場では数名の子供がカーンにまだ遊びたいとせがんでいた。彼も困っている様子だが、可愛い子供たちの手前強く突き放せないようだ。
「ふふ、すっかり村の人気者ね」
「あ、ウーリントア! みんな、僕にお迎えが来たみたいだ! みんなもそろそろお家に……」
彼は私を見つけ、口実を見つけたとばかりに子供たちの輪から抜け出す。しかし素早い子供が一人彼の足を掴み、キラキラとした瞳で彼を見上げた。
「それでね! 水の精霊様の祠は、今も川の上の方にあるんだって!」
『水の精霊様』。それはこの村に住む人間であれば誰もが知る名であり、その存在のことを語る少年の瞳は純真無垢に輝いていた。
「あら、カーンに精霊様のおとぎ話を話してたの?」
「あ、ウーリントアちゃん! 駄目だよ、カーンくんはもうこの村に住んでるんだから、精霊様の話教えてあげなきゃ!」
森と川を作ってくれた神様なんだからね! とまくしたてると、少年は満足した様子で家へと帰って行った。
私はカーンにお疲れ様と声をかけ、採集のために森へと歩みを進めた。
***
「で、水の精霊様? ってやつ、そんなに凄いの? 皆知ってるみたいだけど」
ゴツゴツとした岩肌を下っていた時、カーンの言葉に私は応じる。
「まあ、村では有名なおとぎ話だからね。『精霊様がこの地に現れたおかげで、乾いた大地だったこの山に水が湧き出て、そこに集まった動植物によって、豊かで独特な生態系が形成されました』って話よ。つまりその話でいえば、私はこの『恵みの大地』によって生み出された植物たちのおかげで、染物屋として生計を立てられてるのよ」
そう。水の精霊様というのは、この恵まれた自然を山に齎したとされるこの地の神様だ。
昔、渇いた大地だったこの山に住む孤独な老人が旅人を迎え入れたところ、その旅人の正体は水を司る精霊で、老人の厚意への礼として水を湧かせたのだという。
精霊様はその後もこの地に留まり、その力が籠った水と恵みの雨が大地を潤した。そのお陰で、この地には豊かで独特な生態系が生まれたそうだ。
「でも、結局姿を消しちゃったんでしょ? だったら、そんな語り継ぐほど感謝しなくたって良いんじゃない?」
そう。水の精霊は物語の中で、山の豊かさを聞きつけた人々が移り住み始めた始めた頃、姿を消してしまったのだ。
それを悲しんだ老人は晩年、精霊様が身に着けていたネックレスを村の人々に見せながら「この山に自然を、奇跡を齎した存在がいる。彼に感謝を、幸福を」と説いたという。
村の若者たちはその話を聞き川の湧き水近くに祠を建て、ネックレスと共に祀ったそうだ。
「うーん。感謝っていうよりは、伝統ある物語として語り継いでるだけだと思うわ。川の水が湧き出ている場所の近くに祠なんてないし、こんな辺鄙な所に精霊が来るとも思えないしね。その認識も含めて『おとぎ話』なのよ。本当に皆が信じてたら、村をあげて信仰してるはずでしょ?」
「まあ、それもそうだね」
そんな言葉を交わしながら、私たちはゴツゴツとした山道を登っていく。カーンと話しながら進む山道は、彼が居なかった頃よりずっと喉が渇きやすかった。
***
「す、すごい! こんなに花が咲いてるだなんて!」
感嘆の声をあげるカーン。その姿を見て、私は自分の宝物の共有ができたことが嬉しく、ついニマニマと口角を上げた。
ここは、川の上流にある花畑。一面に色とりどりのパステルカラーの花が咲いていて、今の季節は冬だというのに太陽に向かって華やかに蕾を開いていた。
「すごく綺麗で良い場所だね。良い香りもする」
「でしょ。私もこの場所が大好きなの。それで、今日集めたいのは黄色い花ね。あなたも摘んで、籠に入れておいてくれる?」
「分かったよ、任せておいて」
カーンは二コリと微笑み、花を摘み始める。
あの日よりも随分元気になった姿を見て、私は花でとある物を作り始めた。
この数日、カーンはこの村で本当に頑張っている。
初めて会った日。彼はあれほど痛ましい姿になってしまうような苦しい経験をしていたというのに、腐らずにこの村で精一杯生きる彼を私は尊敬している。そんな彼にあげるご褒美の準備として、私は作業を黙々と進めた。
*****
「カーン、ちょっと良い?」
「ん、どうしたの?」
数分後。
私は花を摘んでいたカーンを呼び、振り向いた彼にとあるものを差し出した。
「じゃーん、花冠です! 可愛いでしょ」
「花冠? うん、確かに可愛いね。でも、どうして急に?」
要領を得ない様子のカーンに花冠を被せ、姿を眺める。空色の髪に、パステルカラーの花々がよく映えていた。
「うんうん、良いじゃない。この花の色、カーンに似合うと思ってたのよ。これなら貴方の新しい服の生地はこの色で決まりね」
「服!? そんな、僕はウーリントアに居候させてもらってる立場なのに」
「あなたは新しい土地でよく頑張ってるの。これはそのねぎらいよ!」
カーンの手をギュッと握り、顔を近づけ決意を込めた眼差しを送る。
彼はしばらく驚いた様子で固まっていたが、やがて少し頬を染めて目を逸らした。
「わ、分かったよ。服、ありがたく受け取らせてもらうね」
「うんうん、それで良いのよ! 動きやすくてあったかい服を作ってもらうから楽しみにしてて!」
私はカーンの手を握ったまま、ぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「じゃ、服の仕立て代を稼ぐためにも採集を頑張るわよ!」
今日の採集はいつにも増して捗った。
帰り道にカーンから「手握ったりするの、他の人にもやるの? やめた方が良いよ」と注意されたが、私はずっと機嫌が良かった。
*****
「おぉー! よく似合ってるじゃない」
淡い色合いのコートを着たカーンを見て、私は感嘆の声をあげた。
あの日から二週間が経った。
採集から村に帰った後、私たちはすぐに仕立屋に行った。店の主人にカーンに服を仕立ててほしいとお願いすれば「カーン君にはうちの子が広場でお世話になってるからね、超特急で作らせてもらうよ!」と快く引き受けてくれた。
そしてパステルカラーに染めた布を仕立屋に渡し、今日の朝、無事に納品されたのだった。
「似合ってる? 嬉しいな。これで寒さも平気だね」
「動きやすい設計の防寒具だし、子供たちとも遊びやすいと思うわよ」
これを着てあの場所に行きたい、他の服と合わせてみても楽しいかも。
そんな言葉を交わしながら、カーンと楽しいひと時を過ごしていたとき。
玄関のドアがノックされた。
何だろう、とカーンと目を見合わせること数秒。彼は動き、どうしましたかとドアを開ける。
そこには、診療所を占領していた騎士たちがいた。
「村の皆さんに広場に集まって頂いています。お二人もすぐに来てください」
何だか嫌な予感がする。私とカーンは顔を見合わせ、二人で広場へと向かった。
***
「単刀直入に申し上げます。人に重大な危害を加える魔獣が、森の中に住み着いてしまったようです。ですので住民の皆様は、森には絶対に立ち入らないでください」
広場の真ん中。鬼気迫る表情で、騎士は告げた。その言葉を受けた村人たちにはどよめきが走る。雨が降りしきる広場で、騎士は説明を続けた。
「皆様を不安にさせぬよう秘密裏に魔獣の駆除に当たっていましたが、それは我々の実力不足ゆえに難航しています。そのため、皆様の安全を考慮し森を立ち入り禁止にするために、魔獣の存在を公表させて頂きました」
皆様の生活に、森の存在が不可欠であるということは大変理解しております。少しでも早く駆除できるよう尽力いたしますので、どうかしばらくは村から出ないでください。
そう頭を下げる騎士たちは、とてもやつれた顔をしていた。
***
「採集に行けないのは大変だけど、危険を犯してまで行きたくはないわ」
頬杖をつきながら、私はハーブティーを飲む。
騎士たちの疲れっぷりを見て、もう診療所の占領に不満を湧かせることはなかった。けれど、せっかく数週間ぶりに恵みの雨が降った日だというのに、とんだ知らせが来たものである。
国が騎士たちを派遣したのは、この村の商品を度々利用することがある国王が、山に危険が迫っていることを嗅ぎつけたかららしい。私としても、この騒動が一日でも早く解決するのを願うばかりだ。
「カーン、あなたもハーブティーを飲んで。何もせず椅子に座っているというのも寂しいでしょう」
「あー、うん。そうだね」
カーンは生返事を返すだけで、ハーブティーに口をつけてはくれない。
家に帰ってきてから、カーンの様子がおかしい。いや、騎士たちから魔獣の存在を聞いた頃から表情が曇っている。今朝の機嫌の良さはどこへやら、暗い面持ちで窓の外の森を眺めていた。
会話も無い、数分の静寂。やがてカーンは重たい口を開き、前触れなく話し出す。
「ねえ、ウーリントア。僕が森で倒れたのは、その魔獣が原因なんだ」
「!? 原因って、もしかして襲われたの!?」
「うん。まあ、怪我はしなかったけど。あれは膨大な冷気を纏って動く怪物だから、その冷気にあてられちゃったみたいでさ。……魔獣ごときに弱らされるなんて、屈辱だよ」
カーンの表情は、今まで見たことがないほど苦しげなものだった。最後の方のは声が弱々しくうまく聞き取れなかったが、それほど恐ろしい存在だったのだろう。
「そんな苦しい記憶のある森に、何度も連れて行ってしまってごめんなさい」
私が謝れば、彼はぶんぶんと手を横に振った。
「そんな、良いんだよ。この森はとても素敵だし、君のおかげでもっと好きになれたからさ。苦しい記憶なんて、君がいたから思い出さなかったよ」
カーンは私の手を握り、優しく微笑んだ。
「でも、酷い目に遭わせてきた奴のことは、一刻も早く討伐されることを願ってるよ。あの魔獣について、騎士たちに聞いてきても良いかな?」
「もちろん。気を付けてね」
私がそう釘を差せば、カーンは軽く笑って家から出て行った。
部屋に、静けさが灯る。
カーンが初めて、出会う前のことを話してくれた。彼は今まで、恐ろしい存在に襲われたことを健気にもひた隠しにしていたのだ。きっと心配させないようにしてくれていたのだろう。
物思いにふけりながら、私は部屋の中を眺める。
思えば、この家も随分狭く感じるようになった。
カーンの体調がある程度良くなった時点でベットは私が寝るようになり、彼はソファの上で眠るようになった。そんな彼が過ごすソファの周辺には、カーンの私物がごった返していた。
「これ、どんぐり? 子供たちからもらったのかしら。これは、透明な石? これもきっと子供たちと遊んだものね。……なんだか子供の宝箱みたい」
あまりにも整理されていない私物の山は、この村での彼の生活が楽しいものであることを言葉無くして語っていた。
そんな私物の中に一つ、一際輝く何かを見つける。
一体何を拾ってきたのだろう。そう思い拾い上げたものは、私の精神を揺るがすのに十分なものだった。
「……っ! これは、何?」
私の頭は冴えわたる。カーンが来る前と後での山の気候や、彼の発言。そしてこの私物。一つ一つの情報が、出来事が線で結ばれていく。
気付いた時には、私は家を飛び出していた。
床に転がっていた『それ』を見て、このまま家で待っていたら、もうカーンには会えないだろうと悟ってしまったのだった。
*****
土砂降りの雨の中、冬の山中を歩いている。
雨に濡れた大地はぬかるんでいて、注意しなければすぐに足をとられてしまいそうだ。
パステルカラーのコートはとても丈夫な作りで、雨水が染み出てくることは無かった。歩くたびにぬかるみから泥が撥ねるので、コートの裾に付かないように注意しながら進む。
あの日、かつて生活を共にした老人を中心にできた集落が今も残っていなければ、誰にも助けられずに草木の中で朽ち果てていただろう。僕は幸運だった。集落の人々のためにも、僕は役目を全うしなければならない。
数十分もの間山道を歩いていると、やがて開けた場所に出る。ウーリントアに連れてこられた花畑。コートと同じ色の花々が咲くこの地は、雨の中でも息を飲むほどに美しかった。
この場所も、百数年のうちに随分と変わったものだ。
僕が知っているのは、黄色と桃色、空色の花がそれぞれ一本ずつしか咲いていないとても寂しい場所だった。それが、籠いっぱいに摘んでも有り余るほどの花畑になっていたのだから、あの日は思わず驚いて「こんなに咲いているだなんて」と感嘆の言葉を口走ってしまった。
花畑を進む。広大な土地に広がる花々は、川から離れるごとに数を減らしていく。川が見えなくなったころには、視界に入る花の本数は指を折って数えることができるほど減少していた。
鬱蒼とした森の木々に直面したとき、一か所だけ、不自然に葉が密集している場所を見つける。それは、そこにある『もの』を避け生えたからだと僕は知っている。
草をかき分け開いたところに、それは鎮座していた。
祠。
僕の眠る場所。
精霊は弱って精気を失うと、実体を持ってしまう。今回は不躾な魔獣が現れたことで、精気が凍えて実体を持ってしまった。魔獣ごときに情けないが、膨大な冷気を纏っている氷の化身と水の精霊とでは、正直分が悪かったのである。
ウーリントアのおかげで精気を取り戻した体は、もう実体を失う直前だ。数百年前の時は気が付かず老人の家で姿を消してしまったが、今回は前触れに気が付いて良かった。それに前触れは人間が見るにはあまりにショッキングなものだから、屋外に出た際に起きてとても幸運だった。
別れの言葉の一つぐらい、言えば良かっただろうか。いや、そんなことをすれば問い詰められるだけだ。そんなことをされたら、彼女から離れる決意が鈍ってしまう。これで良いんだ。
魔獣のことは、きっとあの騎士たちがなんとかするだろう。僕は安心して祠で眠りにつけるはずだ。
実体をもつ際の依り代となる、青いトパーズのネックレスと共に。
懐をまさぐる。
無い。
ネックレスがない。
冷たい汗が首筋をつたう。
どこで落とした? 来るときは足元ばかり見ていたから、落とせば気が付くはずだ。でも、気が付かなかった。それでは、一体どこに。
「——カーン。ネックレスを探してるの? それなら、家に忘れていったわよ」
「!」
あまりにも聞きなじみのある声。驚きのままに振り向くと、そこにはウーリントアがいた。
ぬかるみの中を走ってきたのだろう。可愛らしい顔や服に泥が付着し、その汚れを冷たい雨水が滲ませていた。
「ウーリントア、どうして……」
「全部、分かったから。あなたの発言にはたまに違和感があったけど、昔からこの土地にいる水の精霊様だっていうなら全部納得がいくわ。……突飛な話だけどね」
彼女はネックレスを持った手を突き出してくる。
「村に来る前のこと、聞かせてよ。正体は精霊様だって分かったんだし、隠すこともないでしょ? ほら、帰りましょう」
ウーリントアは僕の腕をがっしりと掴み、村に向かって歩きだす。僕はあまりの衝撃にされるがままで、抵抗することもできずに山道から引きずり下ろされてしまいそうになる。もう、祠に帰らなければならないのに。
その時。
ウーリントアが掴んでいた僕の右腕が、実体を失った。
彼女は自らの手からものを掴む感覚が無くなり、ひどく驚いた様子で右腕が透明になった僕の体を見つめていた。
「……え? そんな、どうして?」
「君のおかげ。元気になったから、本来の姿に戻りつつあるんだよ。精霊は本来実体を持たない存在だからね」
「じゃ、じゃあ、これからどんどん体が消えていっちゃうの?」
呆然とするウーリントアに、もう村に僕を連れ戻すほどの力は無いようだった。
彼女の手からネックレスを奪い取り、祠へと向かう。
……もし、僕が人間だったら、どれほど良かっただろうか。
僕の手を握る君。笑いかけてくれる君。ベッドで眠る、少しあどけない寝顔の君。
ずっと、隣で見ていたかったよ。
ガサッ
それは、一瞬の出来事だった。
ウーリントアの立っていた場所の近くの茂みから、純白の体毛を生やした獣が顔を出す。——そう。あの魔獣だ。
魔獣は地響きに似た唸り声をあげながら、ウーリントアに向かって鋭い鉤爪を振り下ろす。このまま放っておけば、彼女は無事では済まないだろう。
あと数秒先の未来に、悪夢のような現実が訪れる。
まるで人間のような愚かな感情が、僕の体を突き動かした。
「——ウーリントア!」
彼女の前で手を広げ立ちはだかった僕の胸を、魔獣の鉤爪は貫いた。傷口からコートに血が滲み、突き刺さった鉤爪から冷たいものが体の中に広がっていく。
「カーン!? 何してるの!?」
ウーリントアの悲劇的な叫びが、鼓膜に鮮明に焼き付いた。
鉤爪を振るった後、獣は目に見えて弱りだす。騎士たちの説明では、彼らの爪は一つの山を覆ってしまうほどに膨大な冷気を纏い、それを一生で一度の鉤爪での攻撃で対象一つに込めた後、この魔獣は絶命してしまうらしい。あまりにも愚かしい生命体だ。しかしその愚かさのおかげで、もうこの魔獣は動けない。……相打ちだ。
あまりの痛みと凍るような体の内部の冷たさに倒れる僕の体を、ウーリントアが受け止める。
「カーン! なんで!」
「申し訳ない。君がくれた大事なコートに、酷い傷をつけてしまった」
「そんなものどうだって良いわよ! あなたを、あなたを助けないと……」
「大丈夫、僕は死なない。肉体を失って、あるべき姿に戻るだけだ」
彼女は徐々に冷たくなる僕の体を温めようと、懸命に抱きしめてくる。そんな優しい彼女に、僕は笑いかけた。
「この鉤爪には、襲ったものを凍らせるほどの力があるらしい。水は凍ったら氷になる、だから僕の水の精霊としての力はこれから変質してしまうだろう。恵みの雨は雪になり、川は凍り、動植物たちは眠りにつく。この豊かな生態系は、徐々に破壊されていく。君は村人を連れてここから出ていってくれ。ここは時期に、人間の住めない土地になる」
未だ動揺している彼女に、僕は語りかけた。
「君との生活は、とても楽しいものだった。己がこの地を守る精霊だと忘れて、人間だと錯覚してしまうほど充実した日々だった」
震える彼女の頬に触れ、雨水を拭う。
「最後に、精霊としての使命を全部捨てて、君を守れて良かったよ。愛する人を庇うだなんて、愚かな人間みたいだろ?」
「……嫌だ、最後だなんて言わないで! あなたとは、まだ」
言葉を紡ごうとする彼女の口を塞ぐように、僕は冷たい唇で口づけをした。
「ウーリントア、愛してるよ」
*****
「本当に、山を出なくて良いんだね?」
長老の言葉に、私は決意を込めて頷いた。
あの日から、二か月の時が経った。
あの日、カーンは私に一方的に愛を囁いた後、満足したように腕の中から消えた。……まるで、その全てが幻覚だったように。
彼が文字通り消えた瞬間、土砂降りの雨は吹雪へと一瞬で姿を変えた。吹き荒れる雪は、一日のうちに山を純白に染めあげてしまったのだ。
急な山の気候の変化に、村人たちは動揺していた。しかし、「もうこの山の気候は元に戻らないから、私たち人間は移住するべきだ」と伝えれば、私の只ならぬ様子とカーンの失踪に何か察するものがあったのか、皆何も言わずに賛同してくれた。
雪山の中の移動はとても大変だった。全員一気に大移動とはいかず、村人たちは一家ごとに山から出て行く。あの騎士たちが王に話を通してくれたようで、村人たちが新たに暮らす場所は王国からすぐに提供された。彼らは魔獣の猛威からこの村を守れなかったことを、強く悔やんで頭を下げて回っていた。
そして、何軒もの住宅が空き家になった後、最後に残ったのは長老と私だった。長老は先に若い者から新しい場所に行きなさいと順番を譲り、殿を勤めるつもりだったのだ。では、何故私は残っているのか、それはこの村から出たくないからだった。
長老には説得された。「悪いことは言わないから、私に付いてきなさい」と何度も何度も懇願してきた。私は彼の言葉に深い優しさや愛情を感じたが、私としても、この山から出たくない気持ちを歪める気はまったくない。私の強情っぷりに長老はついに折れ、数日振りの快晴である今日、彼はこの村から出発することになった。
「では……そろそろ行くよ」
「山道には凍ってる場所もあるでしょうから、どうか気を付けて」
「ああ。ウーリントアも、凍え死ぬ前にここを出るんだよ」
長老の言葉に曖昧な返事をする。彼は困ったような顔を浮かべたものの、咎めるようなことは言わず、小さな体で歩みながらゆっくりと山道を下りていった。
長老の背中が見えなくなるまで見送ってから、服の中に首からかけた、トパーズのネックレスを取り出す。
「捨てていくのは嫌だし、山の外に持っていくと雪国になってしまうものね。またいつかあなたが弱って現れた時のために、これは私が大切に持っておくわ」
ネックレスに微笑みかけ、私は家への帰路につく。
*********
恵の精霊が凍り、恵みの雨は吹雪へと姿を変えた。
降りしきる大雪は、この山に純白の光景を描き続けている。
ああ、なんと美しき銀世界。
——忌々しい。
本作をお読みいただき、ありがとうございました!
現在シリーズもので「ペルソナの悪女~元婚約者たちの仮面の裏は、とんでもなく悪辣でした~」という作品を連載しております。ファンタジー色強めの追放令嬢モノになっておりますので、是非そちらもご一読ください!




