【結婚が確定するまで】
「い、いきなり何を!?」
永久に続くかと思われた沈黙を最初に破ったのは、カーラであった。カーラは予期していなかったロマンスの衝撃から立ち直ると、真っ先に身を挺して上官の前に立ち、不審者に変貌を遂げた来訪者との防壁になった。他の連隊員たちもその勇気と忠義心溢れる行動に慌てて倣う。
防壁の完成から約二十秒が経過し、ようやく告白した者に返事が送られた。
「…………ごめんなさい」
ロージエラは断った。断る理由としては様々なものがあった。政治的な理由で言えば、この婚姻がアルロザスのラフス編入を実質的に意味しているのが主な理由であり、個人的な理由で言えば、この知り合ってから数分も経っていない男性に――いくら魅力的とはいえ――なんら愛情を持てていないからであった。更に個人的な理由を付け加えるなら、彼女は年下の男性が好みだからでもあった。時間をかけた割に返事がありきたりなものだったのは、我に返るのと、政治的な理由を鑑みるのに時間を費やしたからであった。
ロージエラを真っすぐに見つめる紺碧の瞳は、断られたことに絶望して光を失ったり、悲しみによって潤んだり、怒りによって縮んでもいなかった。ただ、覇気と生気に満ちている。まるで、一度拒絶された告白を、必ず成功にまで持って行くとでも思っているようだった。それを見つめていると、ふと、ロージエラは十年前の日のことを思い出した。その日は今のように桜が咲いた日で、彼のような瞳を持った少年に手厚い施しを与えた――
「――つかぬことをお伺いしますが、最初に『お久しぶりです』と言われていましたよね?」
まさか、そんな偶然がある筈もない。そう思いつつも確認せざるを得なかった。
「はい。長い間ご無沙汰して申し訳ありません」
まさかが、もしやに変わる。
「自分は十年前、裏通りの路地で倒れていたあの時の子供です。……あの頃から、ずっと、貴女のことを想っていました」
ロージエラはまた驚愕した。成長期の十年というものが、ここまで人を変えることに。二度と会うことが無いと思っていた人物が、十年後に目の前にいることに。そして何より、あの野垂れ死にしそうになっていた少年が、たった十年で閣下と呼ばれる身分にまで成り上がっていることに。当時一緒に居たクレアも衝撃を受けたようで、視界の端には両手で口を覆った姿が見えた。
「……あの時の……少年……!?」
そう言われてみれば、背格好はまるで違うが、髪や目の色はあの時の少年と同じであり、精悍な顔つきはあの時の面影を残している。
元少年は、自分の告白が断られた理由を尋ねた。それは、奇襲によって動揺した敵部隊に更なる攻撃を加え、一挙に畳みかけるようであった。
ロージエラはその問いに何とか対応した。口頭で結婚できない理由を、政治的な範囲にのみ限って過不足なく伝える。事前に考えていればこそ、何とか応じられた。それから、一呼吸を置いて、反攻を開始する。
「あくまでお断りしたのは、政治的な理由にあるところが大きいということを、どうかご理解ください。……個人的に言えば、閣下は、私から見ても非常に魅力的な方です。その麗しい髪も、力強い目も、外見だけでなく、若いうちから万の兵を率いる器量も。きっと、私以上に良き人と巡り合えることでしょう」
これは、彼女の成長した社交性が、相手を傷つけさせないようにフォローを入れさせたのもあったが、逆恨みによってこの地方に災難が降りかからないようにするケアでもあった。しかし、自分が思っていた以上に手厚いものになったことに、ロージエラは内心驚いた。
「……」
自然と始まった無形の戦闘は、若き将軍の沈黙によって一時停戦となった。この膠着状態を打破しようと考えているのか、顎に手を当てて考えこんでいる。
今度はロージエラが返事を待つ立場になった。再び訪れた長い沈黙の間、侍女と部下は主と来訪者を不安そうに交互に見やり、主と来訪者は、互いの瞳を見続けている。
ロージエラが口を閉じてから十秒、停戦は破られた。
「つまり、互いの立場が障壁になっていると……?」
「残念ながら」
「ということは、夫人個人としては私の気持ちを受け入れてくれていると……?」
ロージエラは一瞬、返答に窮した。その原因は、上手な言い逃れ方が思いつかなかったのと、彼女の気持ちに曖昧な部分があったからだった。隙と呼ぶには僅かすぎる間であったが、レオンにとっては充分すぎる勝機であった。
「それならば、このアルロザスが戦禍に巻き込まれる危険性が無くなれば、結婚をしてくれると?」
ロージエラは不利な態勢で連撃を受けて、押し切られそうになりつつも、相手の意図を冷静に察した。この若き将軍は、アルロザスと国境を接しているブルグトとザンゲスの二国をラフスに組み入れ、この地を戦場になる可能性の低い後背地にしようとしているのだと。
「……えーっと。……そうです。……はい」
この間延びした返事の間に、ロージエラは彼の作戦が成功するかどうかを計算した。その結果、不可能だろうという判断を下し、了承した。
その計算の概要はこうである。
まず、ブルグトもザンゲスも同信教連合には加入していないが、二国ともそれに接している。その地理的要因によって、戦線を広げたくない共和国としては積極的な軍事行動を行わないだろうという点と、行ったとしても同信教連合の介入が考えられるという点、二つの問題点が考えられる。もし、レオンが熱心な政治的工作を仕掛けてこの侵攻計画を実現させたとしても、現在行われている連合との戦争によって、そのような戦略的ほとんど価値のない作戦に振り分けられる余裕はない。せいぜい、一個師団を送れる程度であろう。ブルグトもザンゲスも、小国とはいえ二個師団ずつ保有している。防戦ならまだしも、攻勢、しかも敵地へ踏み込むことが前提のこの作戦が成功する可能性は極めて低かった。
以上のことを計算したうえで、曖昧に了承したのだった。真っ直ぐに好意を伝えてきた相手を半ば騙しているような気がして、ロージエラの良心に小さなとげが刺さった。
「……! わかりました!なるべく早く式が挙げられるようにするので、それまで待っていてください!……あっ、そうだ!ぜひ婚約の証にこれを……」
言質を取ったことによって表情を輝かせたレオンは、軍服の内側からチェーンを取り出した。首にかけられてあったそれには、ややくすんだ純金の指輪が通されている。指輪をチェーンから外すと、跪いて、将来の花嫁の薬指に通した。勿論、左手である。
「この日のために、ずっと肌身離さず持っていました。どうか、しばらく預かっていてください」
その指輪は二人にとって印象深いものであった。片方にとっては出会いを意味し、もう片方にとっては別れを意味している。もっとも、そのもう片方にとっても、出会いを意味する品になりつつあったが……。
将来の花婿は、立ち上がり、片膝に着いた花びらをはたいて落すと、さよならを告げた。彼はもう、この訪問の目的を果たしている。後は一刻も早く、この婚約を履行させるための条件を満たさなければならない。
「それでは、お元気で」
踵を返し、颯爽という言葉が具現化したような軽快な足取りで去っていき、あっという間に舞い落ちる花びらよりも小さいものとなった。
持ち主の元に戻ってきた指輪を見つめながら、ロージエラは呟いた。
「……まあ、大丈夫でしょう」
それは、指輪に写った自分の鏡像に向けた、励ましの言葉であった。ブルグトとザンゲスのどちらかが落ちなければいいのだ。それまで、ささやかな舌戦の負けが確定したわけではなかった。
ロージエラは椅子に勢いよく腰を降ろした。椅子の悲鳴を無視して、クレアに水割りを作るように頼む。
「さっきより濃い目でお願いね」
それから一月も経たないうちに、アルロザスに二つのニュースが舞い込んできた。その二つのニュースは、それぞれ隣の小国がラフスに降伏したという一大事件であった。この時、ロージエラの敗北は確定した。