【再会するまで】
降誕暦一八一二年三月十一日。アルロザスの桜はほぼ例年通りに見頃を迎えた。
アルロザスで最大の桜の名所といえば、ハンフリッド邸の近くにある裏山である。十数種類の桜が植えられており、一年に一度の晴れ舞台に合わせて今年も健気にめかしこんでいた。
小春日和を感じさせる温かなそよ風に合わせて、白色や桃色などの淡い色相に色づいた花びらが揺れ、混じり合い、散っていく。その花びらの舞い落ちた先には、乙女連隊や近隣の領民など大勢の観客がひしめいていた。しかし、その大半は既にこの場の主役に対する興味を失っていた。彼らの興味の対象は、自分たちで持ち寄った料理や酒に完全に移行しつつあった。まだ開会されてから十分もたっていない。
宴の喧騒からやや離れた位置に、ロージエラの姿はあった。地面に敷いたござではなく野外用の椅子に座っている。
「今年も綺麗ね……」
うっとりしたように桜を眺めている彼女は、この場では少数派であった。正統派ではあるのだが。
「そうでございますね」
傍らにいるクレアが同意した。しかし、その同意に含まれた感情の色は、主人と同じではあるが濃さが全く違っていた。それは、彼女の花を愛でる気持ちが、主人よりも一般的なものであったのと、蒸留酒の水割りを作っていたからだった。
「どうぞ」
ロージエラはコップを受け取ると、そのまま口をつけた。この間、桜からは片時も目を離してはいない。中身を一口含むと、高いアルコール度数が口を刺激し、それが喉を通り過ぎると、じんわりとした暖かさに変わる。
「……少し濃いわ、これ」
「申し訳ございません。次はもう少し薄く作ります」
そういうクレアの手元には、なみなみとつがれたコップがあった。水などは加えられていないらしく、ロージエラのよりも強い芳香をそれは放っていた。彼女の顔がうっすら赤く上気していることから、おそらく、酔っているために分量を間違えてしまったのだろう。
「……まあ、今日ぐらいは別にいいか」
そう小さく呟くと、また一口含みながら、今度は樹上ではなく地上を眺めた。そこには、十年前であれば決して考えられない光景が広がっていた。元とはいえ貴族の令嬢たちが平民たちと仲良く話し、笑い、踊っているのだ。ロージエラは、この光景がみられるアルロザスこそが『万民の平等』を掲げるラフス共和国よりも、よほど万民が平等に暮らせているのではないかと思った。階級や性別の違いなく、誰しもが対等に話し合え、対等に笑い合え、対等に渡り合える……。
「……はぁ。何やっているのかしら……」
ロージエラは椅子から立ち上がると、代わりにコップを座らせた。喧嘩を行っているのは領民の男と連隊員である。双方とも大人であるとはいえ、酒が入っているため万が一があるかもしれない。
両成敗を終えて席に戻ると、自分のもとに別の連隊員がやってきているのに気づいた。軍服を着て完全装備を整えているところを見ると、どうやら、この特別な日に見張りの役目という貧乏くじを、文字通り引いてしまった者のようだった。
「たしか……えっと、そう、本国との境に配置した兵ね。多分」
アルコールの影響下にある自分の頭を、ロージエラはいまいち信じ切れなかった。
近づいてきた黒髪のポニーテールの連隊員は、指揮官の前で敬礼すると、要件を述べた。
「ツリフ峠にて警備に当たっている『カーラ』といいます。連隊長にお目通りを願う者を護送してまいりました」
ツリフ峠はラフス共和国との境にある峠である。記憶が正確だったことにより、ロージエラは、酒の入った自分をもう少し信用を持ってもいいか、という気になった。
「来訪者の名前は?」
「はい。『レオン』と申しておりました」
「……あの」
ラフス近辺にいて、その名を知らない者はいなかった。その名に対してどのような感情を抱いているかは別であったが……。
レオンは十年前に革命軍に自ら身を投じ、一兵卒としても、下士官としても、下級士官としても功績と階級を上げ続けた。その結果、専門的な教育を受けていないのにもかかわらず、二十四歳で少佐に任官、異例の若さで第二十六歩兵連隊の副連隊長に就任した。ここまでは稀ではあるが、戦乱の世ではあるにはあることだった。だが、前例と違い、彼の才能は軍事的なものだけにとどまらなかった。
降誕暦一八〇八年八月八日。賄賂と横領によって理念を汚し続ける革命政府高官に対して、一市長に過ぎなかったロペスが市民政府を設立、反旗を翻した。その反乱者にいち早く味方したのが、レオンであった。彼は連隊長を除く二十六連隊の全てを引き連れてロペスの下にはせ参じたのだった。
その政治的判断の結果、彼は二十八歳という若さで少将に任官している。共和国軍で少将といえば、基本的に一個師団を指揮する身分である。その名声、人気、共に高く、市民政府からの信頼も厚い。将来の共和国軍最高司令官だという市井の評価を否定する人間は、軍内外問わずいないだろう。
天才。という以外の表現を、ロージエラは彼に対して持ち得ていなかった。それと同時に極力敵に回したくない、とも思っていた。
「……連れてきて頂戴」
カーラは新兵教育の見本にしたいほど丁寧な敬礼をして、その場を辞した。ロージエラは彼女の去っていった方向を振り向いたが、そこには桜の木が幾本か生えているだけで、人影は彼女一人分しかなかった。
「会うまでまだ時間がありそうね」
赤毛の女領主は、自身のコップに残った酒を侍女に飲み干させると、水の水割りを注がせた。非公式とはいえ、これからラフス共和国の重要人物と会わなければならない。なるべく粗相がないように、アルコールの影響を少しでも減らしておきたかった。
「どうぞ」
かなり顔の赤い侍女から、濃いも薄いもない液体を受け取り、一息に飲み干す。それだけで素面に少し近づいたような気がした。
レオンは何をしに会いに来たのか。ややクリアになった頭の中に、そんな疑問が浮かんできた。時期的に考えるならアルロザスの軍事通行権の交渉だろうか。或いは軍事力を背景にした共和国への編入を強制しにきたのか。
「いや、それは違うか。前者はそもそも、通行権の交渉は外交レベルの話だし、武官が交渉に来るなんておかしいわ。それに、後者の場合も同じ……もしそれを抜きにしても単身で来るなんてありえないし……」
ロージエラは頭の中で浮かんだ考えを、口に出して否定した。目は桜に釘付けになっているが、それを見ているというわけではない。
先に浮かんだ二つの解答を否定すると『では、なぜ』という言葉が頭の中を支配した。もしかしたら桜を見に来たのか。酔いの残る頭の中では、そんな冗談めいた考えさえ浮かんでくる。
ロージエラは更に酔いを醒ますため、水をもう一杯求めた。透明な液体がコップに満たされるとほぼ同時に、背後から男性の声が聞こえてきた。
「お久しぶりです!ハンフリッド伯爵夫人!」
その溌溂とした声に少し驚き、コップの中に波浪を作ってしまう。クレアに手渡された布巾で、濡れた右手を拭いながら、名を尋ねた。
共和国軍の白を基調とした軍服に身を包んだ青年は、なぜか乱れている呼吸を深呼吸一つで整えると、所属と名前と階級を一息に呼称した。
「ラフス共和国軍第二十二師団師団長レオン少将です」
これが。と視線を上げて、話題の少将の顔を注視する。獅子の鬣を思わせる金褐色の髪、大海を連想させる紺碧の瞳、それら二つの特徴を融和させた、なぜだか既視感のある顔立ち。一目見て、彼が才気あふれる人間だとロージエラは理解した。人を外見だけで判断する愚かさを戒める言葉は、古来よりいくつも生み出されているが、今回の場合はどれも当てはまりそうになかった。なぜなら、先の感想は見た目ではなく、目の前の青年の内側から迸るエネルギーを感じ取って生まれたものであったから……。
一瞬、呆けた後、慌てて自己紹介を返す。無礼があってはいけない。
「この地を治めている、ロージエラ・ハンフリッドと申します」
「はい。存じています」
「……」
やりにくさと馴れ馴れしさを同時に感じ、ロージエラの愛想笑いにやや苦みが加わる。それでも、少女の頃よりも成長した社交性をもって賓客を対応した。
領主として必要充分な社交性を兼ね備えたハンフリッド家の当主は、要件を問いただそうとして、ふと、あることに気づいた。
「……そういえば、案内の兵士がいたはずなのですが……」
連隊員たちが客を、それも将来的に敵となる可能性がある人物を一人にしておくはずが無い。まさか、とロージエラの脳裏に最悪の予感がよぎる。しかし、そんな警戒をよそに、疑いの目を向けられた青年は、あっけらかんとして答えた。
「はい。貴女に会えると思ったらつい走り出してしまって、置いて来てしまいました」
後少しで来ると思います。と付け加えたレオンのはるか後方に、息も絶え絶えにこちらに走ってくるカーラたちの姿が見えたことによって、ロージエラは安堵した。いくら非武装とはいえ、過酷な訓練を積んできた彼女たちを置き去りにした所からみるに、一兵卒の頃の活躍も相当なものであったのだろう。
気を取り直してロージエラは本題に入った。
「……今回はどういった御用件でしょうか?」
「求婚です」
聞き間違えかと思い、聞き直す。
「はい?」
「愛しています!結婚してください!」
その告白は当事者だけでなく、そばに控えていた侍女と、直前に到着した数名の連隊員を驚愕させた。