【帰るまで】
多量の本と、少量の衣類と、少数の調度品を満載した荷馬車が石畳をゆっくりと進んで行く。その道は王都『ラルフロー』から南方に伸びる道であり、目的地である『アルロザス』にも繋がっていた。荷馬車の前方には、隊列を組むように貴人用の小さな馬車も進んでいる。その馬車に乗る二名の乗客は、
今日、夫から離婚を言い渡された少女と、その侍女であった。
「思っていたよりも遅いわね……。これなら自分で歩いたほうが早いわ」
舞踏会場で頂戴したバゲットを、無くなるのを惜しむようにちびちびと食べながら、ロージエラは言った。馬車の後方に座ったため、進行方向が見通せる。そのせいか馬車の進みが非常に遅く感じられるのだ。
つまらなそうに呟く主人を、侍女は諫めた。
「絶対におやめください。最近何かと物騒ですし……」
予想していた通りの答えに聞く耳を持つ気にもなれず、ロージエラは何かないかと前方に目をやった。すると、クレアが『物騒』と言った原因の一端が進行方向にあるのが見えた。
「……そのようね」
そこには市民集会を開く民衆と、それを解散させようとする衛兵たちが押し問答を繰り広げていた。何を言い合っているかは聞こえないが、その熱の高まり様は、どちらかが暴力に訴え出そうなほどだった。噂によれば、大事にはなっていないが実際にそうなった例も多いらしい。今見ているこれも、そのうち例の一つに含まれることになるだろう、とロージエラは思った。
「迂回した方がよさそうよ」
前方の騒ぎは道を塞いでいるわけではない。だが、強い反貴族感情を持っている民衆に貴族が乗った馬車が近づけば、それだけで面倒事が起きる可能性もある。
主人の視線に気づき、クレアも振り返って前方を見た。そして状況を把握すると御者に指示した。昨今では日常風景と化した、民衆と衛兵が小競り合いをしている光景は、馬車が右折したことによって街角に上書きされていった。
主要道から一本外れた裏通りは、一区画を挟んだだけであるのに全く雰囲気が違っていた。日の光はあまり入ってこず、暗い。それに、ロージエラたちにとって厄介なことに道の状態が悪く、凸凹の路面の上を車輪が通るたび馬車がひどく揺れた。
「随分と様子が変わりしましたね……。王都にもこのような場所があるとは」
やや体を縮こませ、周囲に気忙しく目を配りながらクレアは言った。道路状況が悪いということはそれだけ行政の目が行き届きにくくなっているということである。行政の目が行き届いていないということは、それだけ悪事を働く者が潜み、活動しやすくなっているということでもあった。
「そんなに怯えなくても大丈夫よ、きっと。叫び声の一つでも上げたらすぐに衛兵が来てくれるわ。……それに、こいつがある」
ロージエラはかたわらに置いてある短銃を手に取った。銃身を切り詰めているため、マスケット銃よりも命中率はかなり低いが、護身用としては心強い味方である。
「でも……お嬢様は今まで一度も的に命中させたことが……」
痛いところを突かれてロージエラは目をそらした。寂れた街並みが良く目に入る。あまり人が住んでいないのか、割れた窓ガラスの代わりに板を粗雑に打ち付けただけの家が目立った。
「……次がその一度目になるかもしれないでしょ――停めて!」
ロージエラの指示は、クレアを経由する必要なく御者に伝わった。
「お嬢様!?」
驚きとも、制止ともとれる呼びかけを無視して、ロージエラは路地へと向かった。そこに倒れた少年がいるのだ。たとえそれが罠であっても、後で説教が待ち受けているとしても無視できるものではない。
ロージエラは少年に歩み寄ると声をかけた。うつぶせで倒れているため顔は分からないが、頭髪の色はわかる。獅子の鬣を思わせる金褐色であった。生気の薄そうな白に近い金色よりも、こちらの方が彼女は好きであった。
「意識はあるかしら?」
幸いにも意識はあったようで、少年は血の気の無い顔を上げて応えた。ロージエラよりも年若いようであどけなさを色濃く残していたが、その顔立ちは、将来交際相手に苦労することが無いのを太鼓判を押して保証できるほど整ったものだった。何より、覇気を感じさせる力強い紺碧の瞳は、薄い水色の瞳と違ってロージエラすら惹きつける魅力があった。
「怪我をしているのかしら?それとも病気?」
少年は答えた。といっても口は動かしていない。腹の虫が我先にと返事をしたのだ。
「お腹が空いているのね」
ロージエラは、主人の身を案じてそばに寄ってきていたクレアにバゲットを持ってくるよう命じた。自分の食べかけだが、飢えた者がそれを気にすることは無いだろう。
バゲットがくる間に、ロージエラは少年の体を起こした。少年の体は痛々しいほど軽く、簡単に抱き起こせた。彼と同じ境遇の子供が、今何人この国にいるのか。そう思うと、ロージエラの表情に裏通りよりも濃い影がさした。
壁にもたれかけさせ、持ってこさせたバゲットを渡す。少年はそれを受け取り、かじろうとしたが、体力の消耗によって力が出ないのか文字通り歯が立っていなかった。
ロージエラはその様子を見て、僅かに逡巡した後、バゲットをひったくり、かじった。今更人生最後の王宮料理が惜しくなったわけではない。与えられた食料を奪われたことに抗議すらしない少年の無気力な顔を眺めながら咀嚼を続け、一瞬躊躇した後、液状に近くなったバゲットを少年の口に押し込んだ。
鳥が雛に餌を与えるがごとき動作は、手元の餌が完全になくなるまで続けられた。その間に女性の制止する声が人気の無い路地に響き続けたのは言うまでもない。
血の気を取り戻し、驚きの表情を浮かべ、少年は微かな声量で礼を言った。
「あ……ありが……とう」
「どういたしまして」
頬を上気させ、顔を背け、少女はぶっきらぼうに礼を受け取った。
与える物はもう何もない。これ以上長居は無用――というよりもしたくない。そう思ってロージエラは去ろうとした。しかし、立ち上がる時に膝に手をついたことによって、まだ与えられる物があったことに気づいた。
ロージエラは左手の薬指から指輪を抜き取り、少年に手渡した。もう彼女にとって無価値なものであるが、市場での価値は高い。売りに出せば当座の生活費と人生を再建する資金にはなるだろう。
「あの……名前は」
「ロージエラ」
それだけを言い残して、薔薇のような赤毛の少女は馬車へと戻って行った。
乗客を乗せた馬車は再び進み始めた。車内の雰囲気は、けん引する馬が悲鳴を上げるのではないかと思えるほど重苦しかった。手を伸ばせば触れあえるほど狭いその空間に、逃げ場はない。
その鉛のような空気を穿つように口を開いた者がいた。その者も、なぜか顔が赤かった。
「……お嬢様。お嬢様は私よりも聡明でいらっしゃいますから、理解されていることを承知の上で申し上げますけど、ああいった行為……行き倒れた者に通りがかったというだけで手厚い施しを与えるのはおやめください」
『ああいった行為』を直接的に表現することを避けて、クレアは忠告した。しかし、意識が肉体より遠く離れてしまっている当の本人には、それは届いていない。
「……ええ、自分でもどうにかしていたわ」
そう返事をしたロージエラだったが、うわの空で、先刻に自分がした『ああいった行為』のシーンを反芻し続けている。これは忠告が説教に変わっても終えることができなかった。
「今回の件は緊急を要するものだったのでやむをえません。困っている人を見かけたら助けずにはいられないというのは、人として御立派です。ですが、もし、領内でも同じようなことを行おうと思っているのであればおやめください。お嬢様の立場はアルロザス地方の統治者に在らせられます。つまり、個人としての行動よりも、公人としての施策によって、公的な社会保障制度を作り上げ、それを健全に運用していくことが――」
上唇に手を軽く添えながら、その説教に適当な相槌を打つ。だが、内心では全く別のことを思っていた。
「ええ、その通りね」
名前ぐらい聞いておくべきだったかしら。
「――統治者としての責務であり、これをおろそかにすれば、いくらお嬢様がお一人で精力的に支援活動をされようとも、その結果は自己満足にしか過ぎなくなります。そうならないためにも、民の窮状に対して、あえて一線を引き、冷静に物事を俯瞰することが統治者には求められます。それに――」
馬車が再び道を曲がり、主要道へと戻っていく。寂れた裏通りが、街角に上書きされていった。
「ええ、肝に銘じておくわ……。あら?」
ロージエラの揺蕩っていた意識が、肉体の中に引き戻された。長々とされる説教の中に感銘を受けた一節があったわけでもなく、市民と衛兵の諍いが繰り広げられているのが見えたわけでも無い。前方に淡紅色が広がっていたからだった。馬車が進み、その向きを変えると、今度はそれに両側を挟まれる。真っ直ぐに通された道に空を覆うような物はかかっておらず、上空一面に広がる青色と、大通り一杯に花開く淡紅色が組み合わさるのを邪魔するものはなかった。この二色の組み合わせは、人類の本能に強く訴える何かがあるのではないか、そう思いながら見とれていると、嘆息が聞こえてきた。クレアが自分の話が聞かれていないことにようやく気付いたのだ。
「……お嬢様はお花がお好きですものね」
だから話を聞いてなくても仕方がない。と自分に言い聞かせるような言い方であったあった。
「ええ、いつ見ても綺麗だし、それに心が和むわ。特に桜はいいわね。……そういえば、温室の花たちは大丈夫かしら?」
「バシオール様がきっと大切に育ててくれていますよ」
桜並木が立ち並ぶ大通り。日の光が良く差し込み、その光線を縫うように桜の花びらがひらひらと落ちていく。人通りも多く、裏通りのことなど、まるで別世界の話であった。
「いつもよりも早い開花……というわけでもないか……」
「昨年は確か……そうですね、去年は三月六日、一日前に満開を迎えています」
日誌のページを素早く開いていき、クレアは主人の言葉の裏付けをした。
「アルロザスは着く頃には見ごろかしら?」
「おそらくは。王都よりおおよそ三日遅れで花開くと聞いております」
アルロザスはラルフローよりも標高が高いため、気温はやや低い。その分、桜の開花も遅かった。そこに辿り着くには、今のペースだと五日はかかるだろう。
「うーん。このままだと少し遅れそうね……」
「絶対に、徒歩で向かうのはおやめください」
心中を見透かされたロージエラは肩をすくめ、今年の花見を諦めた。彼女はまだ十八歳であり事故や病気、或いは戦死さえしなければまだ数十回ほど機会がある。その余裕があればこそ諦められたのだ。それに、残り少なくなった桜を眺めるのも風情があって乙ではないか。そんな楽しみ方ができる人間でもあったからだった。
今日、降誕暦一八〇二年三月七日は、ロージエラが別れた日ではなく出会った日である。それに彼女自身が気づくまでに、十度、桜が花開いた。