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【離婚を告げられるまで】

 一人、仏頂面でバゲットをむしり続けている少女がいた。


 無数の蝋燭が林立するシャンデリア。その明かりが降り注ぐ、真っ白な大理石の床。その上を、赤、青、黄、紫、などの艶やかなドレスや礼服を身に纏った三百の男女が、高名な楽団の演奏を伴いながら優雅に踊っている。地味という言葉が意識的に排除され、華麗という言葉が徹底的に押し出されたこの広間は、ゴルドナク地方の大国、ラフス王国の王宮の一室であった。


 同じ時代に産まれた女性であれば、誰しもが一度は憧れ、そのほとんどはかつて見た夢と諦めるこの空間の片隅に、なぜ、十八歳のこの少女は仏頂面でいるのか。


 なぜなら、彼女は知っていたからである。この華やかな舞台が、三千万人に及ぶ民衆の骨と肉で築かれているということを。自分も着ている優美な衣装が、血と汗と涙によって染められているということを。この僅か三百の人間の遊戯に、数千人の飢えた者が救える費用がかけられていることを。そのため、他の者と楽しく踊る気にもなれず、会場の隅に一人陣取って、ただひたすらに閉会を待ち続けているのだ。


 開会の挨拶が終わって以降、彼女がしたことといえば、気だるげに俯き、美味しいバゲットをむしっては口に放り込む作業か、意識的に醸し出している険呑な雰囲気をものともしない勇者の誘いを、にべもなく断るぐらいであった。本来であれば、彼女の夫が主催者であるため、夫婦一緒に参加客からの挨拶や世辞などを受けなければいけないのだが、体調の不良という建前をもって、その責務は放棄していた。


 彼女の名前はロージエラ・ハンフリッドという。結婚式にも着ていけそうな純白のドレスに身を包み、薔薇の花びらのように赤いストレートの長髪と、瑞々しい茎のような翡翠色の瞳を持ったこの少女は、ラフス王国を構成する三十八地方の内の一つ、アルロザス地方を領有しているハンフリッド家の一人娘であり、昨年に父親が亡くなってからは当主となっていた。

 

 そんな無愛想な壁の花に、若い貴族の男が、愛想のいい笑顔を向けてダンスの誘いにやってきた。


「私と踊っていただけませんか?王妃殿下」


 話しかけられて無視するわけにもいかないため、ロージエラは(おもて)を、まるで重労働かのようにゆっくりと上げた。白い肌、通った鼻筋、形の整った唇、気の強さを感じさせるやや太い眉に、切れ長の目、と彼女はまだ少女と呼べる年齢ながらも、既に大人的な美人の条件を幾つもクリアしていた。一つ、惜しまれる点として挙げるなら、薄いそばかすがついていることだろう。だが、それは、成長過程によって自然発生したものではない。幼き日から繰り返してきたマスケット銃の射撃訓練によってついた火傷の跡である。周囲の制止を聞かずに続けていたため、強いて言うならばつけたという表現も出来た。


 翡翠の目を向けられた若い貴族は、僅かにたじろいだ。なぜなら、彼女のただでさえ棘を感じさせる切れ長の目が、不機嫌さによって更に鋭さを増していたからである。すぐさま回れ右をしないだけ、彼の胆力は水準以上にあると言っても良かった。同じような対応を受けてそうした者は、そうしなかった者よりも多くいたのだから……。


「ごめんなさい。今日は気分がすぐれないの。また今度誘ってくださる?」


 ロージエラは最低限に備えている、貴族社会では不足気味の社交性をもって、笑顔を作り、断った。見え透いた社交辞令も添えて。どうせ人脈か体目的なのだ、こちらがそのどちらも求めていない以上、相手からどう思われようとどうということも無い。


 上げた目線を下方へと戻していく途中、ロージエラの視界に、無邪気に踊っている貴族たちが映った。憂いなく楽しそうに踊る彼らを見ていると、彼女の頭に一つの疑問が浮かんだ。彼らの中に、この国の実情を少しでも知っている者はどれほどいるのだろう、という。


 ラフス王国は、広く、その土地の殆どは地味が豊かである。気候も冷涼と温暖の間を季節によって行ったり来たりし、人としては勿論、植物としても快適であった。その恵まれた地理条件を活かした農業は、三千万の人口を養ってなお国外に輸出できる生産力がある。その農業を主軸にしつつ、最近では各地に次々と工場が建てられており、数十年前に興り始めた工業化の波にもしっかりと乗り、ますます富んでいっている。産業の面は盤石と言えた。戦争の絶えないゴルドナク地方では絶対に無視できない軍事の面でも、それは言えるだろう。他国よりも飛びぬけて多い人口によって、十五万人と、これまた飛びぬけて多い兵力を常時有することを許されているからである。これは、十数か国が集まってできている東隣りの大敵『同信教連合』の兵数を単独で上回っていた。


 これらは国の公式文書にも記されている事実ではある。だが、実情というにはあまりにも物事を遠くから見すぎていた。なぜなら、増え続ける富の大半は人口の僅か一パーセントにも満たない貴族が独占しているという状態で経済は不健全な発展を続け、十五万の軍隊は、度重なる給与の不払いや縁故人事によって、殆ど機能不全に陥っているからである。さらに、高貴なる者に言わせれば『愚かで無垢な』民衆は大量に刷られるようになった書籍によって、啓蒙と貴族に対する憎しみを高めきっており、その心境のほどは各地で相次いでいる暴動によって視覚でも認識できるようになっていた。暴動が大規模な反乱に発展するのは、可能性の問題ではなく、時間の問題と言えるところまできていた。


 これらの実情を知っていれば、呑気に踊っていられるわけもないか。とロージエラは一度、自分で疑問に答えを出した。だが、こじつけでもいいから、知っている上でなおダンスに興じられる理由を探した方が面白そうだと意地の悪いことを思いつき、暇つぶしの思考を続けた。


 人というのは、思考に脳のリソースを割いていると、無意識に普段の行いが出てしまう。ロージエラもそうであった。口の寂しさを紛らわせるバゲットが、手から無くなっていることに気づくと、視線を動かすことなく、左手を伸ばし、手探りで無くなったバゲットの補給を始めた。薬指に純金の結婚指輪がはめられた左手は、一定の速度で前進を続けると、触覚を通じ、壁にぶつかったことを行儀の悪い指令者に伝えた。


 こんなところに壁なんてあるわけが無い。そう思いながら二、三まさぐってロージエラはようやく我に返った。そもそも、自分の今いるところは自室ではなく、いつものように左手を伸ばした位置にサイドテーブルがあるわけではない、と。そう気づくと、また新たな疑問が産まれた。こんなところに壁などあったか、という。


 ロージエラは疑問を解消するため、左手方向を見た。するとそこに、迷惑そうに彼女を見下ろす老貴族がいた。


「あ、ごめんなさい」


 伸びた手は腰の辺りにあった。それが股間であったかどうかは確認できていない。なぜなら、彼女は弁解をすぐに求められたからである。老貴族ではなく、現場を目撃していた夫に。


「ローゼ!お前、何をしている!?」


 ロージエラを愛称で呼ぶその男は、彼女の夫であり、ラフスの頂点に君臨する国王レーク十六世であった。高く、細身の体。透けるような白に近い金髪。薄い水色の瞳に血走った白目。貴族女性の間では評判の色白の中性的な顔は、怒りで真っ赤になっている。


 ロージエラはレークの剣幕に気圧されることなく、ゆっくりと椅子から立ち上がった。立ち上がると、ヒールを履いているとはいえ頭の高さが男性の平均を超す。


「何と申されましても……。ただの誤解です、陛下」


 ただならぬ様子を感じ、楽団は演奏を止めたのか、会場は静まり返っている。そのせいで周囲の者たちが耳打ちし合っているのがよくわかった。三百を倍にした視線の集中砲火を浴びながら、ロージエラは誤解を解こうと冷静に弁明を始めた。だが、怒鳴り声に委縮するでもなく、悪びれるでもない、平然としたその姿は、怒りに燃えた者にとって腹ただしく思えた。


「誤解だと!?私は見たぞ!娼婦が客を誘うように男のまたぐらをさするお前の姿を!」


 それを言うなら自分は一回、しかも事故によってであるが、そちらは似たような行為を故意に、しかもこの舞踏会に限っても何度も行っていたではないか。と言いたいのをこらえてロージエラは粛々と弁明を続けようとした。


「ですから……無意識の内に――」


「――無意識だと!?」


 レークは大きく鼻で笑った。その後、歪んだ笑顔を浮かべたまま、自虐とも皮肉とも取れるような情けないことを、大勢の前で話し始めた。


「お前が無意識にこのようなことをするほど淫らだとは知らなかったぞ!なんせ、初夜以外寝床を共にすることが無かったからな!だいたい――」


 人前でこのようなことをさらけ出してしまえば、三日で王都中に、一週間で国中に広まる。それが分からないほどレークは愚かではない。逆に言えば、それほど取り乱していると言えた。もっとも、それは仕方のないことであろう。彼からしてみれば、殆ど交わりの無い妻が、自分のいる目の前で不貞行為の誘いを仕掛けているように見え、しかも、その相手がオスとしての機能が二十年前に消え去っている老人なのだ。無関係の人間からしてみれば滑稽味を感じる光景だが、旦那からしてみれば、自身への当てこすりと充分にとれた。地位と同じぐらい気位も高いレークにとって、それは絶対に我慢のならないことであった。


 ロージエラは、冷静さのひとかけらまでも怒りの炎にくべてしまった夫に対して、どのようにすれば話を聞いてもらえるのか迷った。自分も同じ様に同じように燃え上がれば対話になるのだろうか。或いは、泣き出せば相手も落ち着くかもしれない。人前でなければ簡単に黙らせることができるのに……。


「――どうした!?さっきから黙りこんで!何か言ったらどうなんだ!」


 さっきから自分ばかりが一方的に怒鳴っていることに気づいたレークは、発言を促した。無論、先刻に自分で彼女の言葉を妨げたことには気づいていない。


 ロージエラはこの『何か』が弁明ではなく、謝罪であることを察した。たしかに、謝罪すればこの場は収まるだろう。だが、それをしてしまえば自分が売女であることを認めることになってしまう。自分の名誉のためにも、父から受け継いだハンフリッドの家名を汚さないためにもそれは絶対できなかった。


「事故です、陛下。手を伸ばした先にあの方が偶然おられただけです……」


 そう言ってロージエラは左手方向を見た。触られた本人に証人になってもらおうと。しかし、そこには既に誰もいなかった。唯一の証人はこの騒動に巻き込まれまいと、大勢の野次馬の中に紛れ込んでしまったようだった。


 しおらしい謝罪どころか、証拠の無い自己弁護を再開したロージエラに対してレークの怒りは最高潮に達した。


「もうよい!見え透いた嘘をつくな!もっと早くこうすればよかったのだ……!」


 そう言うなり、左手の薬指に嵌められた指輪を抜き取ると、床に叩きつけた。二、三回甲高い音を立てて、永遠の愛を意味する純金の真円は、どこかへと転がり去ってしまった。もう二度と持ち主の元に帰ることは無いだろう。


「さっさと実家に帰れ!ハンフリッド伯爵夫人!」


 愛称でなく、爵位と家名をもって告げられたそれは、事実上の離婚宣告であった。


 ロージエラは一際大きくなったざわめきの中を、無言で進んだ。その方向は出口とは反対方向であった。何をするのかという好奇心と不審が混ぜ込まれた視線の中、バゲットを一つ手に取ると、折り返して、出口へと向かった。


 大きな扉の前に立つと、一言忠告なり皮肉なりを言ってやろうかという思いが湧きおこってきたため、息を大きく吸ったが、どうせ意味のないことだと思いとどまり、そのまま吐いた。


 扉が開かれた。三歩歩く。背後から聞こえてきた扉の閉まる音によって、ようやくロージエラは自分が独身に戻ったのだと実感した。


 独身に戻った彼女の胸中は九割九分が解放感で満たされていた。残りの一分の後ろめたい気持ちは、


「……お父様に申し訳ないわ」


 といったものだった。


 もとより、父が苦労して実現させた政略的な結婚である。その父の苦労を思えばこそ、離婚したことに対して申し訳なさはあるが、わがままで、短気で、狭量な元夫に対しては何ら謝意も愛情も未練もない。その申し訳なさも、謝罪したことと、自分のすることを何でも肯定してくれた生前の父の姿を思いだしたことによってなくなり、ロージエラの胸中は完全に解放感で満たされた。


 ロージエラは高揚した気分のままにバゲットをそのままかじると、軽快で規則正しい歩調をもって自室に戻っていった。王妃から伯爵夫人へとなった彼女がこれからやるべきことは、多い。まず、王宮内にある自室から退去をしなければならなかった。


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