目覚めた騎士と記憶のない少女
キーマ達が少女と騎士を連れ帰ってから三日が経っていた。
依頼主の代理人に指示された隠れ家は、引退した老医師が住む山小屋だった。その昔、とある狩猟好きの貴族が狩りを楽しむ為に建てたものらしく、外観は一見、野趣あふれる丸太作りの山小屋風に森に馴染むように建てられているが、その室内はこだわり抜かれた調度類で設えられ、居室も十分な数と広さがあった。
老医師は数年前から、退職金代わりに貰い受けたこの山小屋で、呑気な隠居生活を送っているようだ。老医師は今回の件も過去に恩がある高貴なお方から客人の面倒を見るように頼まれただけで、依頼主の代理人とは初対面だったとキーマとの会話で語った。
少女が休む部屋から出てきた老医者は、キーマに少女の意識が戻ったこと、領主の娘として過ごした十二年間の記憶が抜け落ちていたことを伝えた。
「おそらく心的ショックから身を守る防衛本能と、無呼吸状態で、記憶に何らかの異常をきたしたのではないかの。元に戻るかどうかは様子を見てみないと分からないな。しばらくは記憶障害や頭痛、吐き気を催すかもしれん」
老医師は沈痛剤や喉の炎症剤を用意し、処方の仕方をキーマに告げてもう一人の患者の元に向かった。
重傷を負った騎士は大量に出血をしており、小屋に到着した時にはその命が危ぶまれた。しかし、元々体力があったのと、早期に老医師の治療を受けられた事も大きく、何とか一命は取り留めた。今は傷からくる高熱で朦朧としている。右腕の傷は深く、治ったとしても今までと同じように動かないだろうというのが老医師の見解だ。騎士としては致命傷だが、あの出血で生きているだけで奇跡と言えた。
潜伏五日目、熱が少し下がり意識がはっきりしてきた騎士は、老医師から焼け落ちた城の話を聞き、状況を把握すると慟哭した。自身だけが生き残ってしまったことを悔恨し、その虚ろな眼差しは今にも生きることを止めてしまいそうに見えた。
老医師はそんな騎士の元にスープを持った少女を連れて来た。少女が現れるなり、騎士の死んだ魚のような目には一瞬にして光が蘇る。少女は騎士の傍までやってくると、手に持っていたスープを枕元のテーブルに置いた。
「食べられそうですか?」
労わるように微笑んだ少女を騎士は信じられないというような顔で見つめる。騎士は暫く少女の一挙手一投足を凝視し、少女の存在が本物だと分かると、騎士の視界は見るまに歪んだ。溢れた涙を拭うことなくそっと少女の手を取り、その小さな手を自身の額に掲げた。
「……よくぞご無事で……」
後は言葉にならず嗚咽になった。自分よりも遥かに年上の男性がぼろぼろと涙をこぼしている様子に吃驚して固まっていた少女は、気まずそうに口を開く。
「……貴方は私のことをご存知なのですね? ……思い出せなくて、申し訳ありません」
騎士は少女の言葉に涙が止まる。老医師はそんな二人の様子を静かに観察している。
「嬢ちゃんや、すまんがキーマを呼んできてもらえるかの」
「分かりました。あの……お大事に」
老医師は少女を見送り、騎士に向き合う。
「さて、傷の経過を見てみよう」
老医師はベット傍の椅子に腰掛け、騎士の包帯を取り替えながら、少女には記憶がないことを伝えた。
処置が終わった頃、キーマがやってくるのと入れ替わりに老医師は退室していった。
「キーマだ、しがない傭兵稼業をやっている」
「傭兵……そうか。貴公がエルドナ様と私を城から逃がして下さったのですね?」
「そうだ。今は出ているが他に仲間が四人いる、後で紹介しよう。領主のお姫様の名前はエルドナというのか。まぁ、今の状況じゃ名前が分かったところで大々的に呼ぶことも憚られるがな」
「……それではエルダー様と。幼少の頃エルドナ様に近しいものだけが知る愛称でした。それを知るものは恐らく、私以外には残っていないでしょうから」
騎士は辛そうに顔を歪める。
「エルダーか、そうしよう。ところで、あんたの名前を聞いても?」
「私の名前はガルニ・シダーウッド。どうぞガルと」
「わかった、ガル。しばらくはここに逗留することになりそうだ。起きているのはまだ辛いだろう、当面は治療に専念してくれ」
「お心遣い痛みいる」
キーマが部屋を退出すると、ガルは静かに目を瞑った。
(……全て失ったわけではなかった。神よ、感謝いたします……)
部屋に戻ったエルダーは数日間寝起きしているベッドに横になると自身の体を抱きしめて小さく丸まった。一緒に助け出されたという男と対面したが、彼が誰か分からなかった。きっと親しい間柄だっただろうことは、彼の様子から察せられた。何かを思い出そうとすると、ズキンッと鈍い痛みを感じて頭の中に靄がかかったようになっていく。
(先生は無理に思い出そうとせずに、自然に任せるのが良いと仰ったけれど……)
この場所で目を覚ましてからずっと不安な気持ちがなくならない。何を、誰を信じていいのか、記憶のないエルダーには判断がつかない。ごろりと寝返りを打つと、部屋の隅に置かれている鏡に目がいく。起き上がって、姿見の中の自身を見ると、そこにはシンプルな青いワンピースを纏った黒髪、青い瞳の少女が不安そうな顔をして鏡を覗き込んでいた。
(私は誰……)
何年も見てきたはずの鏡に映る自分の姿に違和感を覚える。焦燥感に苛まれるが、鈍い頭痛に考えるのを諦めて、またベットに横になった。
◇◇◇
それからしばらく、エルダーにとっては穏やかな日が続いた。エルダーは山小屋の裏にある畑で、小振りの籠を手に持ち、老医師に教えてもらったハーブを収穫している。今収穫しているのは、初日に飲んだハーブエキスの材料だ。自分が何を飲んでいるのか実際に見た方が安心できるだろうと、老医師はエルダーが服用する薬の制作時に側で作業を見せた。それ以来、エルダーは老医師の薬の作成を手伝うようになっていた。
そんなエルダーの様子をガルはベットから起きて部屋の窓から眺める。
(ああしていると、普通の少女のように見えるな)
ガルの怪我はまだ完治しておらず、相変わらず右手は不自由なものの、今は起きて動けるまでには回復していた。
(だが……こんな状態では、エルダー様をお守りするどころか、完全な足手まといだな)
力の入らない右手をゆっくり何度も握りしめる。焦ってもしようがないと分かってはいても、焦燥感ばかりが募った。
トントン、軽いノックの音がする。扉が開き、細身の青年がひょっこり顔を覗かせてガルを見た。
「ガルの旦那、入るぜ」
「あぁ。クミン殿、どうかされたか?」
「呼び捨てでいいよ。騎士様にそんな呼び方されると、むず痒くなっちまう」
部屋に入ってきたクミンは心底嫌そうな顔をする。
「これさ、あんたに返しておこうと思って。あんたの大事なもんなんだろ?」
クミンがガルに差し出したのは主人から下賜されたあの剣だった。ガルは、剣をその手に取ることなく凝視する。
「せっかく助けたのに、命を絶つのに使っちまいそうだったから。今のあんたなら大丈夫だってキーマが」
「そうか……」
ガルは震える右手を差し出しかけ、痛みが走り、左手で剣を受け取る。
「もう一度この剣を手にできるとは思わなかった。届けてくれてありがとう」
「渡せてよかった。それじゃ」
クミンが去った後、ガルは剣を鞘からゆっくり抜く、その刀身は曇り一つなく少しやつれたガルの顔を写しだした。
(すっかり体が鈍っている。感覚を取り戻さなければ)
その日から、ガルはリハビリと称して早速剣の訓練を始めた。元々利き手以外での訓練も行っていたが、左手で前のように剣を扱えるようになるにはかなりの時間を要するだろう。寝付いた期間の筋肉の衰えが思った以上に深刻だった。体格の近いターメリックがよく付き合って稽古相手を務めた。
エルダーは時折そんなガルの様子を見ては、断片的に何かを思い出すような気がしていた。けれどそれが何かをつかもうとすると、霧の向こうへかき消えてしまった。