2-2
温かいと思っていた風が、蒸れた熱気を帯びるようになったのはいつからだっただろうか。
汗ばんだ肌にまとわりつくその感触は好きではないが、この時期になると毎年“彼”を思い出してソワソワしてしまう。
草原の中に寝転んで、温かな日差しを浴びながら深い眠りに落ちていたあの日々は、時にエリシアの胸を締め付け、時に心を穏やかにさせた。
未だに忘れはしないけれど、泣き出したいような衝動に駆られることもなくなった。
大丈夫。
こうして時間が過ぎていけば、いずれきっと全部、“かつての思い出”に変わるはず。
駆け抜ける風がエリシアの長髪を攫っていく。
「エリシア、いるー?」
一つに括った髪を揺らし慌てたようにやって来たパトリツィアの目がエリシアを捉える。
「術式反転理論の資料なんだけど──」
エリシアは手元の書籍から顔を上げると、隣に用意していた資料を差し出した。
「こちらですよね」
「ありがと」
パトリツィアは乱れた髪を気にしながら資料をパラパラと読んでいく。
新学期に向けて夏休みに入ったというのに、優秀な魔導士でもあるパトリツィアは魔塔に呼ばれたり学会に呼ばれたりと多忙な日々を送っているようだった。
「さすがエリシアね。早い上に論点も分かりやすいわ。
こんな優秀な助手が夏休み明けにはいなくなると思うと、頭が痛いわね〜」
「でも弟さんが代わるんですよね?
すごく優秀な生徒だと噂を聞きましたよ」
「う〜ん、優秀といえばそうなのかもしれないけれど…」
パトリツィアが次の言葉に悩んでいるうちに予鈴が鳴り、再び慌ただしく扉に向かう。
「じゃあ、今日は私遅くなるから時間になったら帰って良いからね!」
「分かりました」
エリシアの返事を待たないうちにパトリツィアはいなくなった。
帰る準備をしようと床やテーブルの上を片付ける。パトリツィアのデスク上には無造作に書物や書類が置かれていて、それをまとめていると書物の隙間から栞が落ちてきた。
…これ、パトリツィアさんの…。
「……」
一輪の押し花の栞を、エリシアはそっとテーブルの端に置いた。
平日は魔法学園で補助教員を務め、週末はデボラとゆったりしたり外行きの用事を済ませる。
そんな生活が続き、十四歳だったエリシアは二十一歳になっていた。
パトリツィアに教師の本試験を勧められたことをきっかけに、エリシアは教員試験を受験した。
筆記試験だけでなく教養やマナー、更には他の教員からの点数なども反映されるのだが、教養やマナーは元の知識に加えてデボラに教わっていたし、長く補助教員を務めていた経験や図書館で着実に知識を身に付ける姿勢は他の教員たちに好感を持たれていたようで、今年見事一発合格した。
蒸し暑い夏が終われば学期が変わり、エリシアはいよいよ本当に魔法学園の教師となる。
といっても、魔法は使えないため社交界マナーや礼儀作法などの一般教養を教えるのだが、魔法分野とは異なり一般教養は受講科目の中でも選択制で、魔法を学びに学園に通う生徒たちのほとんどが受講しないらしい。
それでも。
ようやく、独り立ちへのステップがまた一歩、進んだ気がする。
片付けを終えたエリシアは読んでいた本を持って席を立つ。
返却期限が今日までだったはずだから、早めに返さないと…。
本鈴が鳴った後の図書館は人がまだらで、本の返却もスムーズだった。廊下に出ると、芝生でのんびりしていた生徒たちが空を見上げている。
「あら、降ってきそうね」
「酷い雲だわ。雷雨かしら」
「本当。急がなきゃ」
エリシアもまた雲行きの怪しい空を見上げた。
この天気は、まるで…………。
「……エストランテで起きた“神の咆哮”のようだな」
すぐ向こうは快晴なのに、学園の付近だけが暗い色の雲に覆われている。
今にも雨が降り出しそう…。
芝生に一歩踏み出そうとすると、ザーッと強い雨が地面に打ち付けた。雷までゴロゴロと鳴り始め、更には強風が吹き荒れ、エリシアは目も開けられなかった。
「何この雨…」
嵐のように吹き荒れる雨風。それに加えて、雷は時折どこかに落ちているようで、ドーンッと痺れるような地鳴りが聞こえた。
天気に気を取られていたエリシアは、移動魔法による光り輝く気配に気付かなかった。
「おお、こんなところに居たのか」
誰もいなかったはずの隣に、突然人が現れる。
「カーライル様!?」
ここ魔法学園の学園長であり、デボラの夫でもある人物。
街にいたエリシアを引き取ってくれた老父、カーライルだった。
「お久しぶりです。酷い雨ですね」
「ああ、緊急事態なんじゃ」
カーライルは力強くエリシアの腕を掴む。
「一緒に来てくれ!」
「えっ!?」
何かを言う間も無く、一瞬にして景色が変わる。
「っえ…!?きゃっ…」
突風が吹き荒れ、エリシアはきつく目を閉じた。
まるで、そこから風が吹いてきてるよう。
「学園長!」
「えっ、そのレディは!?」
誰かが聞こえるように声を張り上げている。
しかしそちらを向く余裕なんてなかった。
七年前に起こった神の咆哮。
もしかしてこれは、それと同じなのではないかとどこかで思っていた。
自然災害だと言われていたそれは、今、私の目の前でひとりの人間を中心に渦巻いている。
暗雲が立ち込め、打ち付ける雨が視界を遮断していたが、時折起こる落雷の明かりでそれが人なのだと気付いた。
「あの子を、救ってくれ」
しかしその言葉だけは、全くもって理解ができなかった。
「いきなりどういうことですか!無理ですよ。私は魔力もないし…」
「君ならできる。いや、君にしかできぬのじゃ」
いやいや、何を馬鹿な。
カーライルとエリシアにバリアが張られると、二人は簡単にその人に近付くことができた。
目を凝らしてよく見ると、魔法学園の制服を着ていた。顔が小さいのに背が高くすらりとしていて、けれどまだ若い青年のようだった。
「頼んだぞ」
カーライルに微笑まれ、エリシアは何をと言いかけた。
しかしカーライルに引かれたエリシアの手が青年の肩に乗ると、まるでエリシアは青年に吸い込まれたように、世界が闇に支配された。
温かな日差しも、涼しい風も、草木の香りも、人の声や鳥の声さえ聞こえない。
そこにあるのはただの無だった。
「エリシア…」
闇の中、人形のように座る幼い頃のエリシアを、あの頃のままのデリックがきつく抱きしめていた。
どうして、デリック王子がここに……?
「エリシア…、どうして俺を置いて行ったんだ…」
時折啜り泣くデリックは、腕に力を込めエリシアを離さない。
「行かないでくれ…。
エリシアのいない世界なんて、生きてたってしょうがない…」
私がいなくなってから一人になったであろうデリック。
散々森の中に一人で放置されていたデリックが人と関わりを持ったことは、一時の幸せに過ぎなかった。
持ち上げておいて落とすような残酷な形で、そんな日々に終止符が打たれた。
私は、彼の長い苦しみを終わらせてあげられなかった。
「もう、疲れた……」
涙を枯らしたように真っ赤な目をして、疲弊しきった顔でデリックは空を仰ぐ。
「エリシアがいないのなら、こんな世界に未練などない」
魔法のようにその手に剣が現れた。
「俺も、そっちに連れてってくれ…」
悲しみに満ちた目を瞼の裏に隠し、デリックは一切の迷いもなく首に押し当てる。
やめて。死なないで。
死んじゃ嫌だ。
「エリシア……、今そっちに───」
「っデリック!!」
エリシアがその名を呼ぶと、デリックはぴたりと動きを止めた。
まさか、と言いたげな黄金の瞳がエリシアを捕らえると、その目は大きく見開かれた。
「…………………エリシア?」
エリシアはたまらず駆け寄って小さなデリックを抱きしめた。
彼はあの時十歳だった。
まだそんな子どもが、初めて仲良くなった友人と急に別れることになったのだ。
耐えられるわけがない。
苦しかったはず。
それなのに私は、デリックはヒロインと出会うから大丈夫などと安直な考えを持っていた。
私だけが辛いのだと思い込んで。
でも…。
「死ぬなんて言わないで………。
きっともうすぐ、幸せがやって来るから……」
デリックの手は無様にもガタガタと震えていた。
夢かもしれない。
偽物かもしれない。
しかし、それでも良いとデリックは思った。
エリシアが抱きしめてくれるなら、何だって良いと。
やがてその目から一筋の涙が零れると、デリックは大人の姿に変わる。
暗闇だったそこは、最後に見た夕焼けの湖に変わっていた。
「エリシア…。エリシア…っ……」
エリシアをかき抱く力は成人した男性のように強く、その声は声変わりしたように低く掠れていた。
縋り付くようにかき抱く姿はエリシアの胸を締め付けた。
「…ずっと、そばにいてくれ。
エリシアがいない世界には、もう、耐えられない…」
エリシアにとってもまた、これは夢のようだった。
私のように歳を重ねたデリックもまた、このくらい大きく成長しているはず。
「うん。そばにいる。
だからもう、死を選んだりしないで…」
ハラハラしながら二人を外から見守っていたカーライルたちは、次第に弱まっていく雨風を感じていた。
「空が……」
二人から光の柱が立ち昇ると、そこから光が広がり、渦巻いていた雲がかき消されていく。
完全に晴れ空になると、二人はぷつりと糸が切れたように倒れ落ちた。
「っデリック…!」
カーライルは二人を両腕で支える。駆け寄った青年たちはすやすやと眠る青年に「まじか…」と意外そうに目を見張った。
「デリックを部屋へ運びなさい」
「っ学園長!そのお嬢さんは……一体……」
青年たちの言葉にカーライルは首を振った。
「今見たものは全て、他言無用だ」
♢♢♢
エリシアが目覚めると、真っ先に見慣れた天井が目に入った。
「エリシア、起きたか。具合はどうじゃ?」
早々にカーライルに尋ねられ、頭を押さえながら先ほどのことを思い出す。
はっきりとは見えなかったが、あの青年はブルーヴァイオレットの髪をしていた。
「……彼は……」
「…………デリック王子殿下じゃ。君がエストランテにいた頃、親しくしておった…」
「………ご存じだったのですね…」
一体、どこまで知られていたのか。
知っていて尚、私をここに置いていたのか。
「…どうして、デリック王子がバルティーナに?」
「魔塔の後継者じゃよ。噂くらい聞いていたじゃろ?」
そういえば、随分前に噂になっていた。
あれが、デリックの事だったなんて……。
「……君のことは大方全て知っているつもりじゃ。
今更エストランテに帰れとは言わんし、ここで好きに暮らすと良い」
私は、もしかして保険なんだろうか。
デリックがさっきのようになった時の…。
エリシアがそんなことを考えてもやもやしていると、カーライルが重い腰を上げた。
「…どちらに行かれるんですか」
「あの子のところだ。今頃君を出せと躍起になっているだろうと思ってな」
「…………」
デリックは、本当にそんなことを言うのだろうか。
夢の中ではあんな風に私を求めている様子だったけど、現実では違うかもしれない。
意志がなかったとはいえ私は、彼を殺そうとしたのだから………。
「………今回は非常事態じゃったから仕方なかったが、君を無理にあの子に会わせようとは思ってない。
それに君を拾ったのは偶然じゃ。あの子と出会う前だったからな」
不安視するエリシアの心を読んだように、カーライルはエリシアの頭をくしゃくしゃと撫でる。
にかっと歯を見せて笑う姿はまるで父親のようで、エリシアはいらぬ誤解をしてしまったと思った。
「また来る」
「はい」
カーライルが移動魔法でいなくなると、扉の向こうから「エリシア〜?」と呼ぶ声がした。
部屋を出ていくと、デボラはとても驚いたように口元を押さえた。
「デボラ夫人?」
「エリシア。服は綺麗にしてもらったようだけど… 髪が…………。それに……」
あんな暴風かつ土砂降りの中に放り込まれたのだ。
さぞかし酷いのだろうと鏡を見ると、服だけは魔法で綺麗になっていたが、髪は…。
「え!?何この色!」
ボサボサなのはもちろんなこと、ハニーブロンドの髪はブルーバイオレットに変色していた。
「何でこの色に!?」
「……明日になれば元に戻るわ。とりあえず、先に湯浴みをして来なさい」
「はい…」
沐浴して上がるとデボラ夫人にベッドサイドの椅子へ促される。
「せっかく買っていただいたドレスを汚してしまって…すみません」
「いいのよそれくらい」
ついでにそばにあった水を入れて差し出すと、礼を告げたデボラが切り出した。
「会ったのね、魔塔の後継者に」
体が固まったように動かない。
「……カーライル様に聞いたのですか」
「魔力で分かるわ。その髪は強い魔力に当てられたせいよ」
…デリックか…。
こんな裏設定ゲームでは教えてくれなかった………。
「………デボラ夫人も、私のこと、ご存じだったんですか?」
「…主人から聞いたてはいたわ。でも、誤解しないでほしいの。
魔法学園の補助教員に勧めた時は、貴女たちの関係について知らなかったのよ」
エリシアは首を傾げた。
「……補助教員と王子殿下が、どう関係しているのですか…?」
「あら。後継者はあそこの生徒よ」
今度はエリシアが驚愕した。
そういえば、魔法学園の制服を着ていた。
それに、学園にいたということはそういうことだ。
でもどうして…?
ゲームのシナリオ通りなら今頃、デリック王子はエストランテの王立学院に通っているはず…。
「貴女には本当に感謝しているし、娘のように思ってる。だから、こんなところで老人の世話なんてせずに、首都の中心で華やかな生活をしたり、貴女のやりたいことがあるのならそれを優先して欲しかったのよ」
「分かってほしいわ」とエリシアの手を取るデボラの切な目を見ていると、それが嘘とは思えなかった。
「夫人を疑ったことは一度もありませんよ」
それは、本心だった。
エリシアが場を和ませようと笑うと、デボラはほっと胸を撫で下ろした。
「…だから、……貴女が後継者に会いたいなら、会っても良いと思う」
「…………私は……」
会えた時は、正直嬉しかった。
懐かしさが込み上げて、あれほど私を望んでいるのかと、胸が苦しくて。
惚れ惚れするほどの顔立ちに、声変わりした低く甘い声、それに背も伸びていた。
あの成長した姿をあまり見れなかったのは残念だし、また会って話したい気持ちもある。
でも…。
「…会いたく、ありません」
その答えが意外だったように、デボラはエリシアを静かに見つめた。
「……そう」
何故デリックがバルティーナの魔法学園に通っているのかは分からない。
それに、ゲームの最終イベントである“神の咆哮”が、デリックを中心に巻き起こっていたことも。
もしかしたら名もなき令嬢Aだった私が何かしらゲームの予想外の行動をして、歯車が狂ってしまったのかもしれない。
けれど、ひとつ正しいことがあるとすれば、私は彼を殺す目的のために森に通い、親しくなったのだ。
あの様子だとデリックはそのことを知らないのかもしれないけれど、後ろめたい気持ちが残っている今は、会ったところで罪悪感に苛まれるだけ。
…いや、本当はそんなの、言い訳に過ぎないのかもしれない。
ようやくデリックとの事も風化して思い出として処理できるようになり、仕事も正式な教員となった。
それなのにまた大切な存在ができて、今度こそ失ってしまった時、もう一人で立ち上がる自信がないから。
またふと思い出して、悲しくなって、忘れなきゃと気を振り絞る。
そうやって何度も思い出す度に、涙を枯らして心をすり減らしていく。
いつまでもそれを繰り返すことに、もう疲れてしまったからだ。
ついに再会!
エリシアは乗り気じゃないけど、作者はノリノリです!