2-1
「酷い空模様ね。今夜は嵐かしら…」
ベッドから不安げに空を見上げるその人の視線の先を見上げて、エリシアは刺繍の手を止めた。
外に干してあった洗濯物がふわふわと部屋に漂ってきて、湿っていた服が一瞬にして乾くと丁寧に畳まれていく。
見慣れたエリシアはその光景を横目に、窓の外から押し込んでくる風に身が冷やりとするのを感じた。鼠色の雲からは雷が光り、今にもこちらに迫ってくる勢いだった。
あっちは、エストランテ王国の方角……。
ポツリ、ポツリと雨が窓にノックする。
雲行きの怪しい空を見上げながら、エリシアは心が騒めくのを感じていた。
半年前のあの日、急流に呑まれて森を流れたエリシアは、隣国バルティーナ共和国に流れ着いた。
首都の端っこにある小さな町の河口で、エリシアは住民らに発見により一命を取り留めた。
身分を明かしてエストランテ王国に送還されることを危惧し、記憶喪失を装ったエリシアに手を差し伸べてくれたのは、腰の曲がった老父だった。
足の不自由な妻の話し相手をしてほしい。
老父はそれだけを言い残し、この家に住むことを許したのだった。
正直、ここに来たばかりの頃は毎晩のように枕を濡らした。
私が大切に思った人はいつも失ってしまうから。
お父さんも、お母さんも、デリック王子も。
失うかもしれない誰かと心を通わせて、期待して、また失って。
その度に心をぐしゃぐしゃに引っ掻き回されたような思いをすることに、酷く疲れてしまった。
会いたいと思っていてももう会えないのなら、いっそ全て忘れてしまいたい。
思いも記憶も全部封じ込めてしまいたい。
失いたくない存在など、作ってしまいたくない。
それなのに、未だにデリックの事を思い出す。
ぶっきらぼうな優しさも、助けてくれた腕の強さも、最後に見せた小さな微笑みも。
あの全てが、半年経った今も私の心を苦しめていた。
ちゃんと眠れているのか。
まともなご飯を食べているのか。
だだっ広い森に一人で寂しくないか。
心配事ばかり募っても会えるわけでもないし、余計に心が乱されるだけなのに…。
目頭が熱くなるのを感じて、エリシアは目をギュッと瞑った。
……早く、忘れなきゃ…。
デリックはゲームの攻略対象者。
将来王立学院に入学し、ヒロインに恋に落ちる運命にある。
きっと私のことなんて忘れている。
もう二度と会うこともない。
サーッとカーテンが閉ざされていき、過去を思い起こしていたエリシアはハッと気がつく。
「なんだか悪い予感がするわ」
「…デボラ夫人は魔力があるから、“そういうの”、お分かりなんでしたっけ?」
魔力を持つ者には、他人の魔法の気配や痕跡も見破れるのだという。
ここバルティーナには魔塔があるため長年他国から魔力を持つ者が移り住み、エリシアも出先で見かけることが度々あった。
デボラ夫人もその一人で、足が不自由ではあったがこれまでも魔法で身の回りのことは全て一人でこなしてきたという。
けれど街に出る用事があったり、高齢のため体調の優れない日もあり、そういった時のお手伝いをエリシアがしていた。
話し相手の名目で住む家だけでなく食事や衣類まで提供してもらったことが申し訳なく、エリシアから提案したことだった。
「ええ。とても強大な魔力のよう」
強大な魔力……。
…………まさか、ね。
「それは何?」
「あ……。湖です」
仕上がりの不十分な刺繍にも、デボラは顔の皺を深めて「まあ、綺麗な湖の夕日ね」とエリシアを褒め称えた。
「どこかで見た景色なの?」
「…あ……」
そうです、と言いかけて、エリシアは口を閉ざした。
記憶喪失という設定を、時々忘れそうになる。
両親を亡くしてからというものの、ヘンドリー子爵家に居場所はなく、最期には国王に利用され政略の犠牲となった。
あそこに戻ったところで結局また子爵家や王家の傀儡になることは目に見えているし、歓迎されていないあの場所に戻りたいなどという意思もない。
唯一気掛かりがあるとすれば、一人残してしまったデリックのことだけど、いずれはヒロインとの出会いが待っている。
だから私は、彼との短く濃厚な思い出に蓋をして、行き場のないこの気持ちにいずれ区切りを付けなければならない。
例えどんなに会いたくても。
──辛くなるのは、私なんだから。
「…見たような気がするのですが、どこだったか…」
「早く思い出せるといいわねえ。
あ、でも、思い出したとしても、何年でもここにいてくれていいからね。
もちろん、こんな老婆の世話が嫌でなければだけど」
品があって気配りを欠かさないデボラ夫人にはユニークな一面もあり、エリシアはそんなデボラ夫人を母親のように慕うようになっていた。
「もし可能であれば、おそばにいさせてください」
もう貴族や王政のしがらみに関わるのは懲り懲りだ。
今はただこのまま、この地でひっそりと暮らしていきたい。
それから数日後のことだった。
その日、エリシアは自分が流れ着いた町の中心部に出て市場で夕飯の食材を選別していた。
この辺りの人たちはいつも集まって話し込んでいるが、今日は何故かみんな、いつも以上に騒がしい。
「何かあったんですか?」
「知らないのかい?」
行きつけの商店でお金を払うついでに聞くと、「ああ、あんたの家は町外れだっけ」と忘れていたように言われる。
「魔塔が後継者を選んだらしい」
「…魔塔が…?」
正直、魔塔についてはよく知らない。
ゲームの説明でも、隣国バルティーナにある魔導士たちの集まり、のような簡易的な説明のみで、ゲームの物語に関わりはなかった。
「魔力持ちは魔法学園を卒業すると魔導士の称号を貰える。優秀な魔導士はその後、魔塔に所属するのさ。
魔塔はバルティーナ共和国とは切り離された、国や神殿も介入できない、いわば魔力持ちの国のようなものだね」
「そうなんですね…。その後継者がどうかしたんですか?」
「今まで魔塔を支配する魔塔主、まあ魔塔の国王のような存在だね。
その魔塔主は、後継者選びを渋っていたんだが、ある日突然連れてきた子どもを後継者にするっていうもんだから、みんな大騒ぎさ」
「子どもですか……」
「まあ実質関係はないから、ビッグニュースに騒いでるだけなんだけどね」
ふうん、と思いながら、デボラのビタミン剤を受け取り、帰路に着いた。
♢♢♢
そんな日々が続き、17歳の誕生日を迎える少し前の頃だった。
「ただいま戻りましたー」
エリシアが帰宅すると、部屋の奥から笑い声が聞こえてきた。
「ちょうど帰ってきたわね。
エリシア、ちょっと良いかしら?」
来客自体は珍しいこともない。
荷物を置いて部屋を覗くと亜麻色の髪の女性が気が付いて、長い睫毛の奥で同じ色の瞳をエリシアに向ける。年はエリシアより少し上だろうか。
雪のように白い肌と意志の強そうな眉が特徴的な、目鼻立ちのくっきりした溌剌とした美人だった。
その気品のある佇まいから、エリシアは高貴な令嬢だと一目で分かった。
「お呼びでしょうか」
「紹介するわ。彼女がエリシアよ。
エリシア、こちらはティンダル公女よ」
公女様…?
エリシアは身に付いた習慣から丁寧にドレスを持って挨拶した。
「初めまして。エリシアと申します」
するとエリシアに驚いたように目を見張った女性が、「まあ、育ちが良いのね」と顔を綻ばせた。
「パトリツィア・ティンダルよ。
魔法学園で教師をしているの」
「先生だったのですね」
「まだ新任だけどね」
言われてみると、ドレス自体は高価そうなものではあったが、形はパニエのような膨らみを持たない、ストンとしたデザインのスレンダーラインで、色味も落ち着いたダークな色合いだった。
「私は魔力も学問もないので、そのような素敵な所で働かれているなんて憧れます」
誇らしげな顔をしたパトリツィアが手のひらを天井に向ける。
「氷魔法!」
その瞬間、氷が弾けるように飛んだと思うと小さな雪の結晶が舞い降りてきた。
「わあ…!」
キラキラと輝いて手のひらに落ちた結晶が、まるで本物の雪のように溶けて消えていく。
一瞬で儚くも美しい光景に、エリシアは無邪気に笑っていた。
「すごい!雪ですね!」
「エリシアったら。魔法なんて何度も見てるじゃない」
「魔法の雪を見るのは初めてです。それに何度見ても美しいですよ!」
デボラは呆れたように言いながらも年相応な笑顔を見せるエリシアにホッと安堵してつられたように微笑んでいた。
「私は魔力がないので、本当羨ましいです」
こんな綺麗な景色を、デリックと一緒に見たかった。
なんて、今更だけど。
「デボラ様、私彼女が気に入りましたわ」
「私は構わないけど…エリシアの気持ちを聞かないわけにはいかないわ」
置いてけぼりのエリシアがキョトンとしていると、パトリツィアは深刻そうな表情で説明した。
「実は、補助教員を探してるの。
通例だと魔導士が着くのだけれど、三年前に魔塔に後継者が現れてから魔導士たちは未だに忙しくて、こっちにまで人員を回せないのよ」
「エリシアが良ければ、公女の助けになってくれないかしら?」
いつまでもここでお世話になるわけにはいかないと思っていたエリシアにとって、働く機会が与えられたのは願ってもないことだった。
「…でも私、魔力ないですし…先生なんて、とてもではないですが…」
「記憶喪失なのよね?でも字の読み書きはできるし、要領も良いと聞いたわ。事情は分かっているから安心して。
補助教員だから基本的に生徒の前に立つことはなくて、裏方なの。資料をまとめたり、必要なら作成したり、その程度だから」
そのくらいなら…、私にも、できるかな?
いずれは自立して私一人の力で生きていかなければならないと思っていた。
もしかしたらこれは、その第一歩になるかもしれない。
「お願い。首都の中心部にある学園までは遠いけど行き帰りの馬車はこちらで用意するし、空き時間は校舎や首都の見学をしても良いから」
ここまで頼み込まれて断るのも申し訳なく思えて来る。ちらりとデボラに目を向けると、後押しするように大きく頷いていた。
「私で、よろしければ…」
「良かった〜。本当にありがとう!」
ホッと胸を撫で下ろしたパトリツィアが片手を差し出す。
「これからよろしくね、エリシア」
バルティーナに来て初めての同年代の友人だった。
エリシアはドキドキとしながらその手を握り返した。
「よ、よろしくお願いします。ティンダル公女様」
「パトリツィアで良いわ」
「では…パトリツィアさん」
にこりと微笑まれると、エリシアもまた嬉しくなって口角が上がっていた。
時々人物紹介をしていこうと思ってます。
まずは主役です。
◆エリシア・ヘンドリー
ヘンドリー子爵家の養女。
現在17歳。→次ページからまた変わります
【肩書き】子爵令嬢
【人物】元はヘンドリー子爵家の親戚だったが、両親が他界したことでヘンドリー子爵に引き取られる。子爵家で厳しい教育を受けていた。現在はデボラと二人暮らし。しかしデボラに頼りきりなことに引け目を感じ、自立しようと奮闘している。
過去に魔物の襲撃に遭い両親を殺されたことから、魔物に対する恐怖心が人一倍強い。優しい両親の元で育ったためエリシア自身も心優しいが、それ故に両親とデリックを失ったショックで未だに心を痛めており、大切な人を作ることへの恐怖から人と一線を引く臆病な一面もある。
【好き】魔法、