7-2
泣き疲れて眠ってしまったエリシアの目元は赤くなり、頬には枯れた涙の道筋が残っていた。
かつては俺よりも背の高かった女の子が、今では軽々持ち上げられるほど華奢になっていた。
……守らなければならなかったのに。
今日ほど己の不甲斐なさを恨んだことはない。
「“あれ”が例の怪物ですか?気持ち悪い髪の色ね…」
「ベンジャミン殿下は国王陛下と同じ白金なのに。
やっぱり生まれの卑しさは隠せないわね」
「所作も乱雑で言葉遣いは平民以下です。
汚らしい私生児の分際で王子の肩書きを利用してバルティーナに留まるなんて…」
エストランテとバルティーナではまるで俺の評価が違う。
気にしたことはなかったし、何と言われようとエリシアにどう思われるかを除けば他人の評価なんて興味もなかった。
だから言い返すことも力でねじ伏せることもせず、ただ無視していた。
だが俺を蔑むその態度は、そのままエリシアにも直行した。
手を出すなとエリシアに念を押されていたから何もしてこなかったが、やはり早々に懲らしめておくべきだった。
……ただそばにいたいだけなのに。
それさえも、許さないというのか。
エリシアの部屋に移動をすると、先回りしていたようにデボラが佇んでいた。
カーライルよりも実力のあった魔導士。
常に最新の国の情報を集めているという噂は本当のようで、デボラは渋面で待ち構えていたようだった。
「貴方がデリックね」
エリシアをそっとベッドに寝かせシーツを被せる。無意識だろうか、エリシアは離れようとしたデリックの手を握ってきた。
「私は貴方を認めたわけじゃないわ。
魔塔の後継者としても、エリシアの相手としても」
「………」
握られた手を自分から離すことはできなかった。
眉間に皺を作ったエリシアの苦痛の表情が、デリックの後悔と罪悪感を膨れ上がらせる。
「今までは貴方がエリシアを攫うように連れていっても見逃してきた。
色々と抱え込みやすいエリシアが明るくなるのを感じていたから」
ゆったりとしていながら抑揚のある声は恫喝を加えようとしているようだった。
「だけどエリシアが傷付くのなら話は変わってくる。
この子は私にとって目に入れても痛くない娘同然なの。
苦労してまで学園にいさせたいとは思わないし、貴方といることで不幸になるのなら、愛していても引き離せる。例えこの子に一生恨まれても」
溢れ出す魔力のせいか、皺を湛えた人生経験の深い老婆だからか、全身にビリビリと痺れが走り重圧されているように体が気怠い。
「私はそれほど、この子を愛しているわ」
それは、俺も同じだ。
死んでも良いほど会いたかった。
もう二度と会えないと思っていた。
だからこそ、エリシアをもう二度と手放したくない。
絶対に失いたくない。
「貴方に覚悟があるのなら。本当にエリシアを愛しているのなら。
この子が安心して生活できるくらいの基盤は整えてもらわないと、もう二度と会わせられない」
「…分かった」
素直なデリックにデボラはすぐに違和感を覚えた。
「魔法で服従させるという意味ではないですよ」
「…………」
やっぱり、と言いたげにデボラは呆れ顔になる。
「貴方自身が成長なさい。
誰も貴方を侮ることのないよう、誰もエリシアに手出しできないよう。
貴方が偉大な魔導士となれば、自ずと結果もついてまわるでしょう」
偉大な魔導士とは何なのか。
どうやって成長すべきなのか。
デリックは尋ねようとしたが、デボラが答えてくれそうな雰囲気ではなかった。
「…貴方が近頃勤勉になってきていることは聞いています。一層努力なさい」
握れば潰れてしまいそうな手首を掴む。
どうにかエリシアの手を外すと、いつもやってもらっているようにエリシアの頭をそっと優しく撫でた。
金糸のようにサラサラなエリシアの髪を撫でるうち、眉間の皺が、少しだけ和らぐ。
「…また来る」
目を伏せたデリックが次に移動した先は、職員会議真っ只中の職員室だった。
「なっ…防御魔法は…?」
「彼が掛けたんですから。意味なんてありませんよ」
ボソボソと職員たちが話しているが、直接デリックに言ってくることはない。キッと憎悪の眼差しをヨハンに向けられたが、デリックは気にも留めなかった。
「奴らの処分は決まったのか」
「それが…、謹慎か、強制帰国か、意見が割れていて…」
困り顔のパトリツィアに職員たちが付け加える。
「強制帰国の案もありましたが、彼女たちは貴族ですから。父親に言い付けて正式にエストランテ王国側から抗議文が届くかもしれません」
「被害に遭ったのはエリシアなのに?」
感情的になるかと恐れていた職員たちだったが、存外デリックは冷静だった。
「アリスさんや女子生徒の演技を見たでしょう。
我々が事実を述べても、また虚偽の申告をされるに違いありません」
「一番厄介なのはアリスさんですよ。彼女は国にとって貴重な聖女ですから。寧ろこちらが蔑ろにしたと言われかねません」
「…それに、今はエストランテとバルティーナの国境付近にはよろしくない噂も流れていますから…。喧嘩の火種になりそうなものは摘んでおきたいのです」
魔法学園で発生した神の咆哮。
それが魔法によるものだという疑惑は既に互いの国に流布し、国境付近では小競り合いが起きていた。
「では…多数決を取ります。謹慎に反対の者は挙手を」
教頭クラウザーの決議に誰かが反論することはなかった。
「ゼロですね。あの場で虚偽申告を行った王立学院の女子生徒たちは10日間の謹慎処分とします」
過去を含め、エリシアが泣いている姿を俺は初めて目にした。
それだけ誰もが疑わしい目を向けて来たあの場が恐ろしかったに違いない。
『そもそもどうして“化け物”がこんなとこにいるんだ。下賤な身の上に、実の母親を殺したような──』
『そんな風に言わないでください』
あの時、エリシアはすぐに俺を守ろうとしてくれていたのに。
『デリックだってただの人間です!』
肝心なところで俺は、いつもエリシアを守れない。
魔物に襲われた時も、馬車ごと川に落ちた時も、奴らに好き勝手言われている時も、今回の件も。
エリシアをあれだけ泣かせた張本人たちに罰を与えたいのに、それさえ過去の己の行いのせいで許されない。
神の咆哮さえ起こさず、両国家が友好的であったなら、まだマシな処罰だったかもしれないのに。
「…貴方の気持ちは分かります。彼女たちの日々の行いは私の耳にも入っておりました。彼女たちは今後エリシア先生の講義の受講を禁止します」
拳を握り締め押し黙っていたデリックに、クラウザーは静かに声を掛けた。
それでも、デリックの気は晴れないままだった。
♢♢♢
恒例のようにテーブルを囲みながら昼食を取る。ターナーは決まって食堂の持ち帰りランチ、ギルバートはその日によりけりだが今日は購買のパンだった。
「彼女たちの処分、聞いた?」
デリックは無意識のうちにサンドイッチを二つ買っていたが、今日はエリシアはいないのだと気付いて両方平らげた。
「10日間の謹慎とエリシアの講義の受講禁止だろ」
「お前それ聞いてよく大人しくしてたな」
ギルバートは「別人じゃないよな?」と訝しむ様子でデリックを見つめた。
「相手がエストランテの貴族令嬢と聖女ではそんなものだろうな。
実際に大怪我を遭わせたならまだしも、法を犯したわけでもないし、濡れ衣を着せただけだからな」
「だからってあれだけの生徒たちの前でエリシアちゃんを陥れておいて、その程度の処罰とはね。明らかな悪意があるのに」
普段はどんな女の悪口も言わないギルバートでさえ、アリスたちの目に余る言動には顔を顰めた。
ターナーが紅茶を三人の前に差し出して、「あっ……」と声を上げる。
トレーには残り一人分の紅茶が用意されていた。
「そうか、エリシアさんは休みなのか…」
昨日のこともあり、エリシアは今日休みをとっている。デリックは一人で座っているせいか、やけに肌寒く感じられた。
「………」
途端にデリックが黙り込んだ姿を見て、ターナーとギルバートはしまった、と思った。
「まあすぐに疑惑が晴れて良かったよな!」
「ああ。今日もエリシア先生を擁護する生徒が増えてたし、王立学院の生徒たちに批判的な者もさらに増えたようだから…。
エリシアさんがまたあんな風に囲まれるような事態はもう起こらないだろう」
そう言って誤魔化していたが、三人は批判の声が高まるほど両者の溝が深まり対立するという構造が脳裏に過っていた。
♢♢♢
王立学院の生徒たちに批判的な者が増えたということは、それだけ反発するようにエリシアを攻撃しかねないということだ。
授業に出ていないからといってエリシアが奴らに狙われないとは限らない。
「おお、デリック。随分と遅かったな」
魔塔主の執務室ではカーライルがテーブルに向かって書き物をしている最中だった。
「学園で冤罪騒ぎがあったようじゃな。
何があったのか、お前の口から聞きたい」
恐らくその報告を受け取り、返事を書いているのだろう。デリックが報告している間、カーライルは筆を止めなかった。
「厄介な聖女じゃな…。いつの世も突然力を手にした人間は欲望に染まるというが」
「俺の魔法も一部無効化されたことがある」
「今回の聖女は力が強いと聞いていた。まさにその通りのようじゃな」
聖女。
その名は本で読んだことがあった。
バルティーナで魔力はほとんどの人間が持っているため生活基盤の向上のために発展した力だと言われていたが、聖力は神に選ばれし者が授かる特別な力だと言われている。
正直、あんな女が神に選ばれし者と言われても鼻で笑ってしまうが。
「エリシアに危害が及ぶようならお前が守ってやりなさい。ただし、感情に任せて暴走しまた神の咆哮が起こることのないようにな」
「……ああ」
いつもなら勝手にさせろ、俺の知ることかと文句を言ってくるデリックが素直に頷いたことで、カーライルは筆を止めて意外そうに眉を上げた。
「……肝心な時にエリシアを守れなかった」
「……ははっ」
悔しがるデリックに、何を思ったのかカーライルは吹き出すように笑う。
真剣に悩んでいることを馬鹿にされたようで、腹いせにデリックは風魔法でインクをぶち撒けた。
「ああー!!何をするんじゃ!」
「ふんっ」
落ち込んでいるからってこんな奴に悩みを吐露するなんて…、俺が間違ってた。
苛立つデリックだが、それでも勝手に移動魔法でいなくなったりしないのが、小さな進歩だった。
「……人間誰しも、そうやって後悔する日が来る。
儂にもあった」
カーライルはもどらないインクが染み広がっていくのをどうにか抑える。
「でもそれは、過去に囚われていたお前が前に進もうと努力しているからこその後悔じゃ」
あれだけ大笑いしていたカーライルは、まるで息子を見るような温かな目でデリックを見つめた。
「今はただ、エリシアのそばにいてあげなさい。それだけでも彼女には救われるじゃろう」
こそばゆさを感じながらデリックはその場を後にする。
部屋に誰もいなくなっても、カーライルは独り言が止められなかった。
「デボラもそうじゃったからな…」
ひとしきりテーブルを拭き終わりようやく椅子に落ち着く。
「それにしても、デボラの言っていたことは本当だったようじゃな。
あいつがあんなに大人しくなるなんて…」
その成長ぶりに、カーライルの口元に笑みが浮かんだ。
「ようやく成長してきたか」
床にもインクを零していたことに後から気付いたカーライルは絶望しながらシミ取りを始めるのだった。




