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醜い男  作者: 小林マコト
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 やはり大した怪我ではなかった。痕は残るだろうが、この十年でもっとひどい怪我も経験してきたし、死ぬほどのものではないならどうでもいい。数週間の自宅療養を命じられたが、リビラがよく使う闇医者は腕がいいから、それほど完治に時間はかからないだろう。


 意外な人物がやってきたのは、細い雨が降る日のことだった。刺されて二週間は経った頃だ。秋が去り、冬になろうとしていた。


「起きていたのね、よかった」


 玄関を開けたヴォッゴを見て、トッタは心底安心したような声を出した。


「家、どうして」

「リーゼヴィットが教えてくれたわ。わざわざ劇場に来たのよ」


 ヴォッゴの家は大してごくありふれた古いアパートメントの一室である。そんなところにあのトッタ・クレイを通すのか、と躊躇ったが、トッタは気にせず入ってきた。安静にしてなさいとヴォッゴをベッドに寝かせて、その枕元に椅子を持ってきて座った。今日も着込んでいたが、首には何も巻かれていなかった。


「聞いたわ」トッタの声はとても穏やかだった。「呪いのこと。あなたの仕事のことも」


 御前上演の下見だという建前でルゥイド座を訪ねてきたリーゼヴィットに、稽古中だというのに連れ出されて教えられたのは、つい昨日のことだという。


「リビラ、なんて。そんなものがあるなんて知らなかったわ」

「知られたら困ることだから。僕らも、リーゼヴィットも、証拠隠滅に必死なんだよ」

「そうみたいね。……あのひとなんにも言ってくれなかった。言ってくれてたら、こんなに悩むこともなかったわ」

「……それは無理だよ」

「ええ、わかってる。でも酷い話よね。一緒に暮らしてたのに、わたしを巻き込んではくれなかった。わたし、そんなに頼りないかしら。これでも結構、なんでもできるのよ」

 寂しげに笑ったトッタは、ヴォッゴから目をそらし、その奥の窓の外を見つめた。「わたしの最初のパトロンだったの、リーゼヴィットは」


 わたしにとっては親みたいなものだったわ、とほとんど息でしかない声でトッタは語る。

 娼婦から生まれて、貧乏な幼少期を過ごした。生きるために路地で歌っていたところを、リーゼヴィットに見つけられた。


「誰も足を止めてくれなかった。硬貨のひとつやふたつ投げつけられたら、それで上々だったわ。だけど、あのひとがわたしを見つけてくれた。十か、十一か、それくらいの頃よ」


 リーゼヴィットはトッタの歌を評価した。半ば強引ではあったが、トッタを親類の子と偽り引き取って、音楽芸術学校に入学させた。そこでトッタは、歌と芝居、バレエまで習得した。リーゼヴィットはあらゆる芸能、芸術に触れさせてくれた。


「わたしがひとりで立てるように、あのひとは自分がパトロンだとは絶対に言わなかったけれど。……あのひとには恩がある。わたしはあのひとに、逆らえないわ」

「……僕もだよ。僕もあのひとには逆らえない」


 振り回されてきたが、思い返せばリーゼヴィットに助けられている。トッタのような切実さはないかもしれない。むしろ、その恐ろしさもよく知っている。それでもヴォッゴにとってリーゼヴィットは恩人だ。およそ役に立つとは思えないものも、実用的なものも、あらゆる知識を与えてくれた。ヴォッゴをリビラに縛り付けたのはリーゼヴィットだが――それはあの頃のヴォッゴ自身が望んだことでもある。


 トッタは細く長く息をした。そして立ち上がりながら「タバコ、吸ってくるわ」と言う。


「ここで」

「怪我人の前じゃよくないわ」

「これくらいよくある怪我だよ」

「バカみたい」

「まだいてほしいんだ」

「……お言葉に甘えさせてもらうわ。灰皿はあるかしら」

「そこの棚に」


 灰皿を持ってきたトッタは、ゆっくりとタバコを喫いはじめた。窓を開けられない部屋に、トッタのにおいが満ちていく。


「リビラは、女を募集してたりしないかしら」

「やめた方がいいよ、こんな仕事」

「わたし思うのよ。わたしほど有名な女なら、かえって目立たないんじゃないかって」

「リーゼヴィットは許さないと思う」

「……そうよね。今の今まで本当のことを話してくれなかった、それがすべてだわ」


 淡々とした声だった。しばらく無音が続き、彼女は二本目に火をつける。

 やがて、トッタは鼻歌を歌いはじめた。それに聴き入っていると、トッタはそっと、しかし強い意志を込めた声で、誓った。


「わたし、あなたのために演じるわ」


 どこまでも澄んだ清い言葉だ。ヴォッゴの左手を取り、両手で握りしめて、自らの額に触れさせた。祈るような誓いだった。


「あなたのためだけに、演じるわ」


 額を離したトッタの顔は、それまでとはまったく違った顔になっていた。紛れもなく彼女であるはずなのに、その表情は、慈愛に満ちた聖女のようだった。


 トッタが帰った後、入れかわるようにリーゼヴィットがやってきて、枕元で色嫌味ばかり言われた。余韻に浸らせてもくれないのかとうんざりしていると、リーゼヴィットはヴォッゴの部屋の掃除をし、食事を作った。食欲はまだないと言うと、必ず食べるように言いつけるだけで、強制はしなかった。


「どうして、トッタのパトロンだったことを教えてくれなかったんですか」


 延々と続く嫌味を遮ってそう訊ねると、リーゼヴィットは当然のように答えた。


「結末がわかっているからよ」

「未来も読めるんですか、あなたは」

「いいえ。そんなもの誰にもわからないわよ。けれど、あの子のことも、あなたのことも私はよく知っている。あなたの呪いを見抜いたのも、あの子を見出したのも私だもの。好きな子たちには幸せになってもらいたいものでしょう」

「……あなたがその気になれば、もっと早く、トッタと出会えたんじゃないんですか」

「ええ、そうね」

「この悪魔」


「ごめんなさいね」リーゼヴィットはまったく悪びれず謝罪した。「大人げなかったとは思うわ。間違っているつもりはないけれど」


 返事をしないヴォッゴの底を見抜いたらしく、ため息の後に呆れた声が放たれる。


「治ってからならいくらでも聞いてあげるわ。――来週の御前上演、這ってでも必ず来なさい。女王の護衛に人手が足りないの」





 まだ激しくは動けないが、多少無視できる痛みになっていたため、ヴォッゴは命じられた通り御前上演のその日、ルゥイド座にいた。


 きちんとした服装をするのは久々で、なんとなく落ち着かない。撫でつけた前髪が気になって必要もないのに何度もかき上げてしまう。


 ボックス席で待機していると、女王とリーゼヴィットがやってきた。こうして女王と顔を合わせるのは、女王の戴冠式の夜、リビラ総出で挨拶に伺ったとき以来だった。


「お怪我をなさったそうですね」まだ三十五の統治者としては若い女王は、ヴォッゴの目をしっかりと見つめた。「ここにいらっしゃるということは、もうよろしいのですか」


「陛下」


 ヴォッゴの呼びかけに、女王が頷く。それを確認して、ヴォッゴは話した。もちろん頭を下げたまま。


「未だ少し痛みはございますが、問題ありません」

「そうですか。――相変わらず整った顔をなさっていますね。おいくつになられましたか」

「ありがたくも三十に」

「良い歳の重ね方をしているようですね。今後もよろしく頼みますよ」


 ヴォッゴから目を離し、女王が着席する。ボックス席の扉を施錠し、並んで座った女王とリーゼヴィットを後ろから眺めた。


 客席内の灯りが係の手によって消されていく。薄暗くなった劇場内はしんと静まり、舞台にロウソク一本の燭台を手にした女が現れる。『黄金の月夜』の、最初の場だ。


 女が別の人物に「アガヴェルナ」と呼び掛けられるのを見て、トッタから主演を奪った女なのだと知った。確かに演技は悪くない。だが、アガヴェルナの台詞からして、これほど儚げな雰囲気を持っている女は相応しくない、と素人目にも思う。トッタの意見を聞いてしまったからというのもあるだろう。


 芝居は続き、真っ白な衣装を着たトッタが舞台上に現れると、客席にざわめきが広がる。


 ――トッタは、まるで少女のような無垢な顔をしていた。

 女王やリーゼヴィットまでもが声を上げたくらいだ。これまでトッタが演じてきた役では想像できない姿だったのだろう。初めて彼女の芝居を観るヴォッゴですら、トッタが登場した瞬間に、舞台が華やいだのを感じたくらいだ。


「――〝ああ、あなたがお母さまの言っていた方ね〟」


 台詞を言う声が、あまりにも明るく、劇場に響き渡る。

 そこにトッタ・クレイという人間は存在しなかった。シャルティエルという王女が、現実に立っている。ヴォッゴはその人生で初めて、仕事も痛みも忘れ、芝居というものに見入ってしまった。


 本物だ、と思う。芝居の知識もないヴォッゴだが、確信した。トッタ・クレイという女優は、演劇の神に愛されている。本物の女優なのだと。


 シャルティエルは朗らかに笑う。主人公のアガヴェルナに比べて当然ながら少ない登場だが、彼女が登場すると観客の誰もが目を奪われた。それでいて主人公を完全に食ってしまうことはない。


 三幕構成の『黄金の月夜』は、幕間に十五分ずつ休憩が入る。不穏ながらまだ事件の起こらない一幕が終わり、一回目の休憩時、観客たちが口にするのはもっぱらトッタの名前だった。


 女王もまたそのうちの一人だ。「トッタ・クレイは、やはり恐ろしい女優ですね」と、最上級の褒め言葉を口にした。


「わたくしは彼女のアガヴェルナを観るつもりで上演を要請しました。しかし彼女のシャルティエルも素晴らしい。最高の公演になるでしょうね、リーゼヴィット」

「あの子なら当然よ。――ヴォッゴ、あなたはあの子を観て、どう思ったかしら」


 話を振られ、答えられないでいると、再開の時間になった。あとで聞かせなさいと釘を刺され、それどころではないと思った。


 二幕。アガヴェルナとシャルティエルが隣国の王子に恋をする。シャルティエルは姉と同じ男に恋したことを嘆くも、健気に王子と姉の仲を応援する。

 シャルティエルは母である女王に、姉と王子の結婚を許可するよう直談判する。しかし、アガヴェルナを認められない母は、頑なにそれを拒む。


「――〝お姉さまの愛は本物よ、そしてわたくしの愛も。お母さまが忘れてしまったものを、わたくしもお姉さまも、ようやく手に入れたのよ。どうかお願い、わたくしはあの方の幸せだけを祈っているの。それがわたくしの愛なのよ〟」

「――〝……わかりました、彼を幸せにしてあげましょう。皆、証人となりなさい。女王は娘の婿として、かの国の王子をこの国に正式に迎えます。伝令を出しなさい〟」

「――〝お母さまなんてことを。ごめんなさい、ごめんなさいどうか許して〟」


 王子と妹の婚約を知ったアガヴェルナは嘆き、王子を詰る。王子にとっても勝手に決められた婚約であり、せめて共に死のうとアガヴェルナに提案する。しかし、不幸にも心中は失敗し、王子だけが死んでしまう。


 そして、シャルティエルが狂気に陥っていく。王子の血で濡れた放心する姉の目の前で絶叫したところで、二幕が終わる。


「感想は」


 迫真の演技だった。リーゼヴィットの質問に答えられないくらいに、ヴォッゴはトッタの芝居に魅入られてしまった。

 これほどのものを見せられて、すぐに何か喋れる人間がいるとは思えない。トッタ・クレイがこの国一の女優だといわれるわけがわかった。彼女は、女優なのだ。芝居の中で生きる、芝居のためだけに生きている女なのだ。


「……無理だ」


 そんな女に、諦めさせることなどできない。ヴォッゴのために生きてくれとは言えない。そして、リビラを抜ける危険に、彼女を巻き込むわけにはいかない。


「僕は……傍に居ない方がいい」


 彼女は彼女自身が定めたように、女優としてより高みに行くべきだ。トッタ・クレイから芝居を奪うなど、神に許されるはずがない。


「わたくしは、彼女を国の宝として正式に認めるつもりですよ」女王はこちらを見ずに、静かに言った。「あなたの決断に感謝します」


 それは喜ぶべきことだった。女王が認めるのだから、トッタ・クレイはこれから名実ともに国一番になり、活躍の場を世界に広げられるだろう。

 そのためには――ヴォッゴは彼女の傍にいてはならない。女王がリビラを使って行う悪事を、誰かに悟られてはならない。


 三幕。王子の死により、アガヴェルナの存在を無視できなくなった母が、彼女の処刑を宣言する場に狂気のシャルティエルが割って入る場面から始まる。ぼろぼろ泣きわめく妹に、姉は懐から短剣を取り出して握らせた。


 それが狂気なのか、正気なのか、混ざりあってわからない目でシャルティエルは短剣を受け取り――姉ではなく母を刺した。

 すぐさま周囲の人間がシャルティエルを取り押さえる。彼女は姉に向かって叫んだ。


「――〝お姉さま結婚なさるんですってねえ、おめでとうございます、神さまの祝福を〟」


 母は死に、残されたアガヴェルナは即位を求められ、妹を処刑することになる。処刑の日、シャルティエルは憔悴しきっていた。

 最後の言葉を許されたシャルティエルは、姉の前で王子への愛を紡ぐ。それはささやきから、歌になり、悲しみに満ちた静けさから、激しい憎しみに変わり、また絶望に戻る。


「――〝もう、楽にして〟」


 その言葉に、アガヴェルナはシャルティエルの長い髪を剣で切り落とした。演技ではなく本当にトッタ・クレイの髪を切り落したのだ。シャルティエルはそれを見て、安心しきったように幸せそうな微笑みを浮かべ、絶命する。


 死者が脇に運ばれていっても芝居は続く。しかしリーゼヴィットは、振り向いてヴォッゴに声をかけた。


「舞台袖に入れるように手配してあるわ。――あの子に伝えてきなさい」

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