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事後処理のために事務所を訪ねると、リーゼヴィットが待ち構えていた。
「ちょっといいかしら」執務室に連れ込まれ、襟元をぐっと掴まれた。「あなた、リビラを辞めたいそうね」
どこでそれを、なんて言わせないくらいに、リーゼヴィットは怒っている。
「確かに、炊きつけたのは私だわ。それは認めましょう。けれど何度も言ったはずよ、仕事をおろそかにはしないように、と。それを何かしら、リビラを辞めたいだなんて。あなたそんなに愚かな男だったの」
「……願うことすらいけませんか」
「いいえ、許したわ。でもあなた、願ったら行動に移すでしょう」
「しませんよ」
「恋する男の言葉は信用しないことにしているの」
乱暴に手を離され、体勢を崩してしまった。それを見下ろすリーゼヴィットのヴェールの隙間からのぞく琥珀は、冷ややかに、ヴォッゴに向けられていた。
わかっている。リビラを抜けることなど許されない。国の暗部に寄り添い、悪事を働き続けた。今さら足を洗うなど死んでも不可能だ。
それでもトッタを手に入れたいと願ってしまうのだ。トッタは決して女優を辞めない。それを支えてやりたいと思ってしまった。
「甘ったれたことを言わないでちょうだい」
苛立ちを隠さず、リーゼヴィットはヴォッゴを床に叩きつける。衝撃に咳き込むと、腹に馬乗りになられ、喉を掴まれた。リーゼヴィットの指は死人のように体温がない。手袋をもってしてもわかるほどに冷えている。細い指からは考えられない力で、たった片手だけで、ヴォッゴの命を潰そうとしている。
「私、あなたを愛してあげたはずよね。生きる道を示してあげたわよね。私はあなたを庇護し、代わりにあなたは私に人生を捧げる。そういう契約だったこと、忘れたとは言わせないわ。あなたのその人生、その身体さえ、私のものよ。たとえば今ここで殺しても誰も何も文句言えないのよ、あなたにさえその権利はないの。そういう契約でしょう」
リーゼヴィットからは雨のにおいがした。体にまとわりつくにおいだ。呼吸の許されない中、これこそ死のにおいであると知る。
「たとえ神を殺してでも、私は私のものを絶対に手放さないわ。あなたは私のものよ。リビラから抜けられると思っているのかしら、愚かな男ね」
極限まで死に近づいたところで、指が離された。反動で肺が破裂しそうなくらいに酸素を取り入れようとする体に、生への執着が存在したことを実感する。ヴォッゴの命は、リーゼヴィットにとってあまりにも小さい。
それでも抵抗してしまう。これまでならきっと、こうまでされたら従っていたはずだ。それが出来ない。勝てるはずがないのに、逃れられるはずもないのに、もがいてしまう。
「トッタ・クレイの恋人たちは」あの資料を思い出しながら、ほとんど無音の言葉が口から零れ落ちていく。「舞台に上がり、彼女の相手をすることで、彼女の孤独に寄り添おうとしたんでしょう」
ヴォッゴに芝居のことはわからない。しかし、トッタのことなら少しはわかる。きっと舞台の上で、孤独なのだ。孤独に生きてしまうのだ。
「彼女もきっと呪われてる」
「こんなことは言いたくなかったのだけれど」
ヴォッゴの言葉を遮って、リーゼヴィットは強く口にする。目に見えない凶器を振りかざし、ヴォッゴの息の根を止めようとした。
「そもそもあなたのその恋は、本物なのかしら。トッタ・クレイはただ呪いを解くための鍵だった、それだけで、あなたはその事実と私の言葉に引きずられて、恋だと思い込んでいるだけ。そんなことはないかしら」
残酷なことだと思った。リーゼヴィットはヴォッゴを迷わせた。自分の言葉でヴォッゴの中に恋を定義したくせに、それを疑うように誘導した。
ヴォッゴは、呪いを解いたトッタに恋をする。リーゼヴィットがそう言ったから、トッタへのあらゆる感情を恋と名づけたのに。根底を覆された気分だ。トッタに会いたくなった。トッタの顔を見て、声を聴いて、それで判断したかった。
深夜、ルゥイド座の前でトッタを待った。トッタとは一週間会っていない。稽古に集中するために会わないことにしたのだ。ふたりでそう決めた。その約束を破ることになる。
星の綺麗な夜だ。無数の星々がぱちぱちと音が聞こえるほど瞬いている。
ふと、冷たい風が吹いて――誰かの足音が聞こえた。聞き慣れた足音だ。けれどいつもより軽やかさがない。
瞬時に足音の方向以外を見回して、アンドロの姿を探す。遠くでマッチか何かを擦った小さな火が見えた。アンドロだ。彼以外の姿がないことを確認し、一度地面に目を落とした。アンドロは手を出さないだろう。これはヴォッゴが処理しなければならない。トッタが出て来ないかだけが、心配だった。
「フィエ……」
吐息のような女の声。ヴォッゴは振り返る。
そこにはやはり、雛菊が立っていた。大変にやつれている。それもそうだろう、この女の父親は、一昨日、逮捕された。
「フィエ」繰り返す。か細く、しかし憎しみの籠った声だ。「こんなところにいたのね」
声とは裏腹に、雛菊は熱に浮かされたような目でヴォッゴをみつめている。どろりと溶けたその目は、情事の際と同じだった。
「わたし、あなたじゃなきゃ、だめなのに、どうして」
この先の展開は読めている。しかしヴォッゴは動かなかった。ジノの背負う異様な空気に気圧されたわけではない。雛菊の瞳が、ヴォッゴの罪を映しているからだ。
――雛菊は、『フィエ』に恋をしている。
それは燃えるような恋だ。身を焦がすものだ。この男以外には何も要らない、なりふり構わずこの男をものにしたい、そんな激しい恋だった。
これは罰だ。この女の恋を利用した罰。ヴォッゴが愛を解さなかった、罰だ。
「裏切ったのね、わたしを」
「……裏切ってなんかないよ。最初から、きみを騙すことが目的だった」
だから素直に自白した。誤魔化すべきとは思えなかった。
もし自分がジノのように、トッタに騙されていたとしたら、ヴォッゴも同じことをするだろう。きっとトッタを許せないし、許したくない。許してしまえばそこで恋が死んでしまうから。彼女が誰かのものになることを、認めるようなものだから。
――と、考えて、気づく。
トッタへのこの感情は、確かに恋なのだ、と。
「それが本物なのね。そういう声、そういう顔が」
「そうだよ。きみには何も見せてない。きみは僕の何も知らない」
「死んでよ」絞り出すように、雛菊は憎しみを吐く。「殺してあげるから」
「きみのためには死ねない」
きっぱりと口にするのとほとんど同時に、脇腹に熱が走る。抱きつくように、女は男の腹を刺した。ヴォッゴが見て見ぬふりをしたナイフで。
痛みに歯を食いしばりながら、これは致命傷には至らないと判断して、ナイフを握る雛菊の手に自分のそれを重ね、言う。
「こんなものじゃ僕は殺せないよ――ジノ・エードルト」
痛みと共に、この女の名前を思い出した。名前を呼ばれた雛菊――ジノは、はっと我に返る。
「僕はきみのためには死ねない。謝りもしない。こうして僕を刺してきみが得るのは、犯罪者の称号だけだ」
これ以上深く刺されないよう、ぐっとジノの手を掴んで、押しのける。抜けたナイフが音を立てて地面に落ちた。
そのときだった。
ルゥイド座からトッタが現れると、ジノは何かわめきながら逃げていった。アンドロが追うのが見える。トッタがヴォッゴに駆け寄る。「なんでもないよ」と必死で笑顔を作った。
「なんでもないなんて、バカなの、ねえこれさっきの女に」
「トッタ、僕はきみが好きなんだ」
傷口から熱が全身に広がっていく。増していく痛みは、多少の怪我には慣れているとはいえ、あともう少しで耐えられない強さに変わるだろう。
そんな中で、しっかりとその黒い瞳を見つめて口にした言葉に、トッタが息を呑む。
「きみを騙してた……僕は『フィエ・モストル』なんかじゃない。料理人でもない。こうして、刺されるくらいに、最低な男だ」
「黙って。今ひとを呼んでくるわ」
「呼ばないで。病院へはどのみち行けないんだ。僕は、昼間の人間じゃないから」
「……つまり危ない仕事をしてるのね」
トッタは動揺を押し隠し、首に巻いていた白いストールをヴォッゴの腹に巻きはじめた。傷口にきちんと絹のハンカチを当てて。上等な布が汚れていく。
「歩けるかしら」
「立ってるのもきついかな」
「……あそこ」トッタが暗い建物と建物の隙間を指さした。「あの路地。とりあえずあそこに。あんまり人目についちゃダメでしょう」
情けなくもトッタの肩を借り、路地までゆっくりと歩いた。街頭の光も届かない場所だった。彼女に助けられながら壁に背を預けて座り込むと、すぐ近くにトッタの顔があって、その瞳が濡れているのを見てしまった。何があっても泣かない彼女が、ヴォッゴのために濡らしている。それだけで、ヴォッゴの恋は報われたような気がした。
「トッタ、聞いてほしい。僕は、呪われていたんだ。生まれてからきみに出会うまでずっと。『愛せない』なんてバカな呪いだよ。永遠に解けないと思ってたし、解ける必要もないと思ってた。でもきみが解いてしまったんだ。きみにそのつもりはなくても」
トッタの服が汚れていく。彼女に赤は似合わないな、と笑いそうになった。彼女には白か黒がいい。彼女自身の輝きを邪魔しない色が。
「僕の恋がきみでよかった。……僕のことは、『ヴォッゴ』と呼んでほしい」
「『醜い男』」
「うん。母親がバカだったんだ、きっと」
誰かが近づいてくる音がする。この足音は、おそらくキネシーだ。アンドロが呼んでくれたのかもしれない。
トッタは自らの服で手を拭って、不意にヴォッゴの顔に触れた。形を確かめるように、真剣に、時間をかけて触っていく。そして無理に笑って、こう言った。
「あなたのお母さまは天才だわ」声が、揺らいでいる。「あなた本当に醜いもの」
ヴォッゴ、とトッタが名前を呼ぶ。暗い路地が眩しく思えた。この美しい女の黄金の声は、永遠にヴォッゴの耳に残るだろう。
それならば、もし死ぬことになったとしても、この声のために生きるべきだ。