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ご丁寧に、最初のページに恋愛についてまとめられていた。リーゼヴィットの仕業だろう。本当に悪趣味な女だ。あんな女に人生の道しるべを作ってもらったのだと思うと情けなくてたまらない。
そのページを読むだけで気持ち悪くなってやめた。やはり読む必要はないし、読むべきではなかった。苛立ちだけが残って、クソ、と吐き捨てて立ち上がる。
資料庫の奥深くにトッタの資料を隠す。できることなら今すぐ燃やしてしまいたいくらいだったが、そんなことをしたら冗談でなく殺される。
リーゼヴィットの執務室に繋がる廊下で、思わず「死ね」と叫んでしまった。こんな風に感情に任せて叫ぶのは初めてのことだった。奥から「殺してごらんなさい」と楽しそうな声が返ってくる。いつか本当に殺してやりたい。
翌朝、トッタと朝食を摂った。「しばらく会えない」と言うと、彼女は少しがっかりしたような顔をした。
「例のお仕事、かしら」
「うん。しばらく忙しいんだ。ごめん」
「いいのよ、仕方のないことじゃない。でも残念だわ、こうして朝食に付き合ってくれる人ってなかなかいないから」
「ずっとってわけじゃない。すぐに終わるよ。僕も……きみに会いたい」
トッタとヴォッゴは特別な関係ではない。トッタは「残念だ」と言うだけで、ごねることはしなかった。
おそらくまだ彼女にとって、ヴォッゴはそれほど重要な存在ではない。それもそうだろう、ヴォッゴは『フィエ』と名乗り、自らの核心を少しも見せてはいない。トッタもまた同じだ。あくまで女優のトッタ・クレイとして、ヴォッゴに接している。
食後のコーヒーを口に含みながら、『フィエ・モストル』から解放されたらきちんとトッタと話をしよう、と決めた。すべてを話すことはリビラである限り不可能だろう。けれどせめて自分の心のうちくらいは、伝えておきたい。
「まあわたしも、そろそろ稽古が忙しくなってくる頃だから、ちょうどいいのかもしれないわね」
「あとひと月半、だっけ。身体には気を付けて」
「あなたこそ。忙しいからって寝不足はだめよ、たまにひどく疲れた顔をしてるわ」
「……そうかな」
「他の誰を誤魔化せても、わたしは騙せないわよ」
そう言って子どものように笑ったトッタは美しかった。つられてヴォッゴも笑えば、トッタが驚いた顔をする。
どうしたのかと思えば、しみじみとトッタは言った。
「あなた、笑うと幼いわね。前々からいい顔してるとは思ってたけど。……役者になる気はないかしら」
同じようなことをつい昨晩言われたばかりだ。それなのに、リーゼヴィットに言われるのと、トッタに言われるのとではまったく違うように聞こえる。
「僕に役者は……似合わないよ」
「そうかしら。あなたの顔ならいいと思うけど。踊りか歌、できたりするの」
「タップダンスなら、少し」
「素敵じゃない。どこで習ったの」
「習ったというか……大道芸人だったんだ、昔。南部の。親がそうだったから」
他人にこんな話をしたのは初めてだった。トッタは興味深そうに詳細を求めてくる。その目がきらきら光っていて、答えてやりたいと思ってしまって、口が軽くなる。
ヴォッゴが南部の生まれなのは本当だ。『フィエ』の設定は、多少の真実が混ざっている。南部の大道芸人の家庭に生まれ、上に兄がひとりと姉がふたりいた。音楽と踊りが日常の中にあり、それで日々の金を稼いでいた。
「楽しそうね」
「どうだろう、よく覚えてないな。とにかく自分の食い扶持くらいは自分で稼がないといけなかったから、父親から習って、それを披露していたよ。タップなら家族みんなが踊れたんじゃないかな」
「わたし、タップは苦手なの。バレエばっかりやってきたから。南部はわりと盛んだって聞いたわ」
「そうかもしれない。でも、王都で見せられるようなものではないよ。南部と王都じゃ、踊りも歌も全然違う」
「わたし好きよ、南部の情熱的な歌も踊りも。あなた全然そうは見えないけど」
「よく言われる。生粋の南部のはずなんだけどなあ」
役者になればいいのに、と繰り返したトッタだが、無理強いはしなかった。ヴォッゴは役者にはならない。リビラの人間が表舞台に立つのはリスクが高すぎる。それに、正直なところ、芝居というものに興味を持てなかった。
それでもトッタのかつての恋人たちを思うと、こうして冗談であっても誘ってくれるだけで充分に自分にチャンスがあるのではないか、と勘違いしてしまいそうになる。評価されているのは顔だけだ。
「ご家族は今、どうしてるの」
「……どうしてるんだろう。もうずいぶん連絡もしてない」
「そう。色々あるわよね、家庭というものには」
ヴォッゴはその呪いのせいで、ずっと愛情というものを抱えずに生きてきた。今となっては、もう顔も思い出せない。
踏み込んでこないところは、トッタの賢いところだと思う。おそらく彼女も、何かしら重たいものを奥に隠して生きている。
時間になって、トッタと共に店を出た。これからヴォッゴは仕事に行き、トッタはルゥイド座で稽古だ。別れ際、トッタが「今度、タップ教えてよ」と言う。
「僕でよければ。でも、自己流みたいなものだよ」
「いいのよ、うちの劇場じゃあんまり使わないから。わたしがやってみたいだけ」
「わかった。鈍ってるだろうから、練習しておく」
「ありがと。じゃあ、またね、」
トッタの白いストールが、彼女が歩くのに合わせて揺れる。後ろ姿を見送りながら、早く仕事を終わらせよう、と決意した。軽くかかとを地面に叩きつけて、十年以上前にやめた感覚を呼び起こそうとする。
浮かれている自覚が、ヴォッゴにはあった。
アンドロはもちろん、キネシーもフアコもとても有能だった。
フアコは例の菓子店で配達係をやり、侯爵邸の使用人たちともう仲良くなったという。一見、不愛想な青年だが、しようと思えば細やかな気遣いができる男だからだろう。キネシーもアンドロとヴォッゴの間を行ったり来たり、たまにリーゼヴィットに報告に行ってくれたりして手間を省いてくれている。
アンドロがジノを監視してくれているため、ヴォッゴは比較的自由に動けた。その間に、侯爵の身辺を徹底的に洗い出し――賄賂を渡している疑いが高かった鉄道会社の総支配人であることを特定した。
もとより癒着が疑われていたが、親しい仲ではないと双方言い張っていた。けれど例の会食が極秘にされ、過去に同じことを何度か行っている形跡がある。そしてその前後に不審な金の動きがあるとなれば、ほとんど黒だろう。
雛菊とは頻繁に会った。雛菊は会うたびに結婚の話をして、『フィエ』が自分のものになると信じて疑わない様子で瞳を輝かせていた。
それだけは、少し、哀れに思った。そんな幸せは来ないのだ。ヴォッゴはあくまでヴォッゴであり、『フィエ』など偽物でしかない。そんなまやかしに恋をしている女は、愚かで、哀れだった。
そして。
二週間が経ち、その日がやってきた。やはり侯爵が会ったのはあの男で、金のやり取りが確認できた。それだけでなく、フアコとキネシーが邸に忍び込み、見事に裏帳簿を盗み出した。
あっけなく仕事は終わった。証拠を見つけ出したので、あとはヴォッゴとアンドロで処理をするだけだ。肩の力が抜ける。一年もかけていた自分が情けない。
翌日の夜、事務所でアンドロとふたり、女王へ提出する報告書をまとめていると、キネシーがふらりと顔を出した。
「ヴォッゴ、あんたなんか変わったよな」
幼さの残る目でじっとこちらを見つめるキネシーに、なんにも変わってないよ、と返す。まだ十九でしかないキネシーだが、これでいて仕事ができる。そんなキネシーが自分を特に慕っていることくらい、ヴォッゴは気づいていた。
「絶対なんか変わっただろ、あ、もしかして呪いが」
「そうだよ」
「は、」
まじかよ、と驚きを隠そうともせず素直に出すキネシーに、つい笑ってしまった。
「解けないと思ってたのかな、その顔は」
「そりゃそうだろ、あんた解く気なんかさらさらなかったくせに。いつの間に」
「きみの言う通り、そのつもりはなかったんだけどね」
「……『愛せる』のかよ、今は」
「どうだろう」
作業の手は止めずにキネシーと会話をしていると、黙々と続けているアンドロがじっとこちらを見ていた。アンドロはこれからヴォッゴがしようとしていることを見抜いている。面白くなって、絶対にやめてやらないぞ、とニッと笑って返してやった。
「キネシー、きみ、好きな子いるの」
「は、」
不意のヴォッゴの問いに、キネシーはおかしなくらい動きを止めた。面白い。アンドロが呆れた目で見てくる。気にしないことにした。
「今後の参考にしようかと思って」
「いや、参考になんかなんねえだろ」
「恋だの愛だのは、若い方がわかってそうだからね。僕もう三十だから。今さらぎゃあぎゃあ騒ぐつもりはないけど、まあ、若い恋愛くらい一度はしてみたいだろ」
「あんたからそんな言葉聞きたくなかったよ、バカ」
「おっと聞き捨てならないな。いいよ、実はもう知ってるんだよね、あれだろ、あのかわいらしい平凡な」
「うるせえ黙れよ、あんたホントに変わったよ、見たくなかったよこんなあんた」
顔を真っ赤にして騒ぐキネシーに、アンドロが嫌そうな顔をした。こうなることがわかっていたから、茶化すなよ、と言いたかったのだろう。なんだかいつも以上に楽しくなった。自分はこれまで思っていたより、面白い仲間と仕事をしていたらしい。
キネシーはヴォッゴを慕っている。最年少ではないが、誰よりも素直で正直で、バカだ。
「かわいいよね、あの子」キネシーのお気に入りの売り子を思いながら、言う。「きみのこと覚えてるみたいだったよ。今度、王都祭にでも誘ってあげたら」
「……手ぇ出すなよ」
「出さないよ。あの子は恋をするには若すぎる」
「嫌なおっさんになっちまったな」
「きみもすぐにこうなるよ」
そんな風にはならねえよ、と言い残して、キネシーは逃げるように出ていこうとする。それを引き止めて、最後に本当に訊きたかった質問を投げかける。
「きみはさ、きみの呪いのこと、どう思ってるの」
動きを止めたキネシーは、何とも言えない顔をしている。ぐっと眉を寄せて、むっとして、けれど助けを求めるような顔だった。
「おれは」沈んだ声で、キネシーが答える。「あんたが羨ましかったよ、『愛せない』あんたがさ。おれの『愛』はどうしたって、本物が見えねえから」
切実な声だった。彼の呪いは、『愛してしまう』呪いだ。ヴォッゴとは正反対の。
ヴォッゴが何もかもに執着を持てなかったのとは反対に、キネシーは多くのものに執着してしまう。それは彼の手には負えない強烈な愛情となり、行きすぎてしまうことも多い。
「僕が、羨ましいって」
「あんたは恋してる、だから呪いが解けて、誰かを愛せてるんだろ」
「……うん」
「おれはさ、好きだなって思っても、その『好き』って気持ちが、本物なのかわかんねえんだよ。だって大抵のものは好きだから。でも、あんたが『好き』だって思えば、それは本物だろ。わかりやすくて、いいよな」
責めてるわけではないのだと続けて、キネシーは無理やりに笑顔を作った。
「まあ、それはそれだから気にすんなよ。あんたが解けたってことは、おれもそのうち解けるだろうし」
そうやって出ていったキネシーのことを、ヴォッゴは自分でも思っていた以上に気に入っていたらしい。ひどいことを訊いてしまった。傷つけてしまった。
アンドロのため息が聞こえる。これまでにない落ち込みを見抜かれてしまったのだろう。