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醜い男  作者: 小林マコト
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 リビラの事務所に持ち帰った情報をリーゼヴィットに話せば、大変に喜んで珍しいほどはしゃいでいた。リーゼヴィットはこの日、何故か事務所の方にいた。


「たいした成果じゃないのに、ここに来るまでを思うと大きく見えるわね」


 リーゼヴィットの言う通り、侯爵は常に周囲を警戒し、ほとんど隙を見せてこなかった。ジノを攻めたのはそのためだ。娘に甘いことは有名だった。

 ひとを増やしてやる、とリーゼヴィットは言った。


「アンドロはそのまま。キネシーとフアコの仕事が今日中に終わるでしょうから、あの子たちも回してあげる。リビラの半分も使ってるのよ、必ず証拠を掴んできてね」

「多すぎませんか」

「ええ、多いわよ。でもいいの。財務大臣の横領と汚職の証拠がつかめたら、この先しばらく大きな仕事は入れないつもりだから。いくら女王だからって命令したらなんでも言うこと聞いてもらえると思ったら大間違いよ」


 この問題がいかにリーゼヴィットを悩ませていたかよくわかった。リーゼヴィットはリビラの主だが、その上にいる女王こそ真の飼い主だ。何か言われていたのだろう。振る舞いは傍若無人で権力に囚われない女に見えるが、それでいて結構王権というものに弱いことを、ヴォッゴはよく知っていた。


 指揮はヴォッゴが執っていいらしい。その分、これに関わるメンバーの他の仕事は処理してやると親切なことを言ってくれた。


 キネシーとフアコが事務所に戻ってきたところで、リーゼヴィットからふたりに仕事の説明があった。その説明の前に珍しくリーゼヴィットが人数分の紅茶を淹れてくれたものの、この場にいる誰もが彼女の特殊な味覚を知っているために口をつけようとしない。向テーブルを囲み、キネシーが資料庫から持ってきた雛菊と侯爵の資料に目を通す。ふたりとも、すぐにヴォッゴに従うと言ってくれた。


 二週間後のその日に確実に終わらせなければならない。今もジノを監視してくれているアンドロはそのまま働いてもらい、キネシーを連絡役として動かすことにし、フアコを侯爵邸へ送り込むことにした。


 キネシーをアンドロに報告へ行かせ、フアコにはジノが贔屓にしている菓子店への紹介状を持たせた。店はすでにヴォッゴの手の内にある。彼なら上手くやってくれるだろう。

 ふたりを行かせると、またリーゼヴィットと向き合うことになってしまった。悠々と紅茶を飲みながら、にやにやこちらを見てくる。嫌な予感しかしいない。


「あなたの恋人、あのトッタ・クレイなんですってねえ」


 やはりそれか、とげんなりしてしまう。顔に出ていたのだろう、こちらを見たとたんにくすくす笑われた。


「トッタ・クレイはいい女よね。でも難しい女でもあるわよ、恋多き劇場の女王だもの」

「残念ですけど、僕とトッタは恋人じゃないですよ」

「あら、それは本当に残念ね。……ねえ、あなたあの子の資料見てないの、」

「見ませんよ、仕事じゃないんで」


 そう答えると、リーゼヴィットは信じられないものを見るような顔をした。


 確かに、以前のヴォッゴなら、リビラの資料に目を通さずに他者と関わりを持つことなどしなかっただろう。資料庫にはこの国の主要人物や、過去に仕事で調べた者、リーゼヴィットの個人的な興味の対象になった者たちの資料が文字通り山のように置かれている。トッタ・クレイほどの人物であれば細かな情報まで記載されているはずだ。


「怖いんでしょ」リーゼヴィットは鋭くそう言った。「トッタ・クレイの恋を知ったり、秘密を知って、それが自分にとって不都合なものだったら怖い。だから見ない。どう、正解でしょう」

「……知りませんよ」

「素直じゃないわねえ」


 リーゼヴィットは雛菊と侯爵の資料を手に、一度事務所を出ていった。この隙に帰ってやろうかとすら思ったが、面倒なことを言われるのは目に見えているので、渋々待っておく。すると戻ってきたリーゼヴィットは、新たな資料を持っていた。こういうところが嫌いだ。


「読んでおきなさいな」


 茶化すような色を含みながら、しかしはっきりとした命令だった。


「読んで何になるんですか」

「ちょっと楽しくなれるわ、私が」

「この悪魔」

「ええ、私、ひとでなしよ。――いい顔するようになってきたわね、ヴォッゴ」


 リーゼヴィットの声の調子が変わり、少し身構えてしまう。その声は聖母のようにあたたかだった。


「思いきり、その恋を楽しむのよ。あなたの心にたくさんのものが残るはずだわ。たとえ、その恋を失う日が来ても」


 嫌々ながら資料を受け取ると、リーゼヴィットは満足げに口元を緩めた。


「これまでのあなたは、顔がいいことはいいのだけれど、ただ造形が整っているだけで、やっぱり嘘くさかったもの。いい顔になってきたわ、本当に」


 悪魔じみた女だと思う。歩く災厄だ。言いたいことだけ言って事務所を出ていったリーゼヴィットは、良くも悪くも人間にはない自由さを持つ。


 トッタ・クレイと名の書かれた資料に目を落とす。紐で綴られたそれは厚みがある。それだけ彼女が重要だということだろう。

 ひとりきりの事務所は静かだった。よくリビラのメンバーはここに集まり、酒を呑んだり仕事をしたりする。ため息を吐き、「仕事しないとなあ」とひとりごちて、表紙をめくる。





 トッタ・クレイは恋人を舞台に上げる女優である。


 恋人に自分の相手役をさせるのだ。彼女が舞台に上げた男たちは、トッタ・クレイの名声により一度の公演でスターにのし上がる。


 誤解されがちなのは、彼らは決して実力がないわけではないということだ。素人から恋人であるという理由だけで相手役に抜擢された男も、トッタ自らが稽古をつけ、見事に演じあげられるようになるまで成長する。だからトッタの横暴が許されてきたのだ。観客にきちんと見せられるものを仕上げてくるから。


 しかし、長くは続かない。ひとつの公演で関係が終わることがほとんどで、次の公演には新しい男が選ばれる。


 不思議なことに、元恋人たちは誰ひとりトッタを悪く言わない。ルゥイド座に残る男はいないが、別の舞台に立ちながら誰もが口をそろえてこう言う――「トッタ・クレイは神に愛された聖なる女優だ」と。


 女として難はある。彼女のすべての関心は芝居に向けられており、その道の邪魔になるものには容赦しない。誰かのために生きることはせず、ただひたすらに自らの道を極めようとする。

 いくら近年女性の社会進出が目立ってきたとはいえ、トッタほど力強く生きようとする女性は、やはり男からは疎まれるのだ。


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