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醜い男  作者: 小林マコト
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 それから二日に一度はトッタと会う日々が続いた。朝食を一緒に摂り、少し話をして別れる。それくらいの関係だった。意外なことに彼女はよく食べた。つられてヴォッゴも朝はよく食べるようになった。彼女は野菜を中心に食べるが、肉もよく食べた。食事の最後にはコーヒーを飲み、口をゆすぐように水も飲む。ヴォッゴはそれをまねた。


 トッタに会った後は必ず一度家に帰って服を着替えた。雛菊に会うための『フィエ』の服装に。たとえ雛菊と会う約束がなくてもそうした。


 この日は昼間に用事がなかったため、リビラの事務所でアンドロからの報告を受けた。アンドロは補助に入ってからというもの、ヴォッゴが動けないときだけでなくほとんど常に雛菊の監視をしてくれている。おかげで抱えていた仕事のほとんどを片づけられたため礼を言うと、当然ながら睨まれた。任せすぎたな、と反省すると、アンドロがふと「気をつけろよ」と顔を顰める。


「呪いが解けて、いろんなものが変わったかもしれないが、雛菊への態度は変えるなよ」

「……呪いが解けたこと、誰にも話してないはずなんだけどな」

「見てたらわかる」アンドロは、ヴォッゴの手元のコーヒーを指さした。「おまえ、このごろコーヒーばかり飲むだろう。雛菊に触れる回数も日に日に減ってる」


 深く考えていなかった。ヴォッゴはコーヒーに目を落とし、じっとその黒い水の奥を見つめてみる。

 呪いが解ける前の自分を思い出す。特別に嫌いなものも、好きなものもなかった。だから出されたものを口に入れていたし、同席者がいるのであれば相手に合わせていた。今、ヴォッゴはコーヒーを飲んでおり、アンドロは紅茶を飲んでいる。言われてみればこれは大きな変化だ。確実に、ヴォッゴは変わりはじめている。良い方向なのか悪い方向なのかは、わからない。


 アンドロはヴォッゴよりはるかに男らしい男だが、リビラの人間が持つべき観察眼をしっかりと持っている。誰よりも慎重かつ真面目に物事を考え、組み立てていく男だ。正義感も強い。リビラに似合わない、と、よく思う。

 だからこそヴォッゴはアンドロのことはそれなりに気に入っているし、ふたりで組んで仕事をするときは他のメンバーと組むよりずいぶんと安心する。実際に何度も難しい仕事をこなしてきた。


 そんな彼に見抜かれても、普段なら落ち込む必要はない。しかしこんな風に、自分でも気づかなかったことを指摘されるのは、なんとも言えない気持ちになる。


「情けないね」細く息を吐いて、アンドロを見る。「変わらないように意識はしてたつもりだけど」

「隠せてるさ。どこかでヘマをしそうな予感があるから、先に忠告しているんだ」

「気をつけるよ」


 誰に悟られても、ジノにだけは感づかれてはならない。気を引き締めなければ。そう思いつつコーヒーを口に含むと、不意にアンドロの家族のことを思いだした。


「きみはさ」同じく紅茶を含んだアンドロに、尋ねる。「奥さんとはどうやって出会ったんだっけ」

 アンドロは怪訝な顔をしてヴォッゴを見た。「急にどうしたんだ」


「恋ってなんだろうな、と思って。きみの話なら参考にしたい」

「ならないと思うぞ」

「なるよ。きみは呪いなんか持ってないから、普通の恋がわかるはずだ」


 彼がリビラに来たのは、三年前のことだ。それまでは警察官だったとだけ聞いている。不運にもリーゼヴィットに出会い、気に入られ、引き抜かれてしまったのだ。女王から特別な権力を与えられているリーゼヴィットの横暴には逆らえず、最初の頃は彼の不機嫌な顔ばかり見ていた記憶がある。


 そんなアンドロは、リビラでは珍しく結婚して子どもまでいる。一緒になったのはリビラに来る前のことだったそうだ。


「普通、か」アンドロは嫌そうな顔をしながらも、こちらに向き合ってくれた。「ひとの紹介だよ。普通と言えば普通だろうな」


 アンドロは少しだけ自分たちのことを話した。ほとんど拒否権のない見合いで、お互い乗り気ではなかったが、会ううちにずいぶんと仲良くなった。だから結婚した。それだけのことだという。


「とにかく、よく話し合ったのは覚えてる。どうしたって一緒になる道しかなかったんだ。なるべくお互い納得できた方がいいだろう、長い時間を共に過ごすなら」

「今はどう思ってるの」

「一緒になって良かったよ。今じゃ他の相手は考えられない」


 アンドロは心底幸せそうだった。きっとリビラでいることで、家族を危険に巻き込むかもしれないと苦悩する日もあるだろう。それでも、そういうことも含めて、おそらく彼は幸福の中にいる。だからこそ、こうやって笑えているのだ。

 恋とは素敵なものなのか。リーゼヴィットもアンドロも、その良さを知っているらしい。ヴォッゴが知るはずのなかったことを。


 アンドロと別れたあと、また一度家に戻って、服を変えた。『フィエ』として雛菊に会うためだ。

 夕食を一緒に摂った。雛菊に会うのは基本的に夜だ。本来、上流階級の人間である雛菊が、昼間に労働階級の男と会うのを彼女の父が許さないのだ。雛菊はある侯爵の娘であり、その侯爵というのが、財務大臣である。横領の疑いが浮かんだのは昨年のことで、雛菊と『フィエ』の関係が始まったのはそのすぐ後のこと。思えば結構な長期任務である。


 長らく努力を続けた結果が、今の信頼に繋がっている。『フィエ』は雛菊の父親にとって娘の夫としてはデメリットの多い男だが、誠実さは他に類を見ないくらいの男だ。そういう風に思われるよう、ヴォッゴが動いたのだから。


 雛菊は末子であり、上に姉も兄もいるため、ある程度余裕があるというのも理由のひとつになる。甘やかされて育ったためによくある禁断の恋や身分差の自由恋愛に憧れていた。その憧れのために、ヴォッゴが選ばれたのだ。リーゼヴィットの見立ては正しかった。ヴォッゴの容姿や沿った振る舞いは、雛菊の理想を満たしている。おそらく、ヴォッゴでなければここまで骨抜きにすることはできなかっただろう。


 食事の後、雛菊が散歩したいと言うので連れ立って歩く。公園――トッタとあの夜に訪れた公園を歩いていたとき、雛菊はぽつりとこう零す。


「お父さまが、あなたを家に招きたいと言っているの」


 来た。ヴォッゴはこの日を待っていた。

 恥ずかしそうにはにかんだ雛菊が、今だけは女神にすら見える。


「急で申し訳ないのだけれど……明後日の午前、空いてるかしら」


 もちろんすぐに頷いた。その日はトッタとの約束があるが、こちらを優先する以外に選択肢はない。仕事だと言えば理解してくれるはずだ。

 おそらく結婚の話になるだろう。あの用心深い侯爵のことだ、それくらいに信頼していなければ、家に招いたりはしない。

 こんなに大きな好機はない。この喜びは期待であると思わせられるように、ジノを抱きしめた。華奢な身体は幸せそうに腕を伸ばし、『フィエ』に絡みつく。


 翌日の夜にトッタの稽古終わりに劇場を訪ね、仕事ができてしまったと話せば、彼女は快くキャンセルを受け入れてくれた。かわりに改めて約束を取りつけ、彼女の家の近くまで送って、別れる。


 侯爵邸は王都の中でも大きな部類に入る。テゼ川の向こう、郊外の歴史ある建物だ。かつて『フィエ』は、雛菊の贔屓にしている菓子店の配達員として、ここに出入りしていた。

 出迎えた侯爵は以前の仕事で遠巻きに見た彼そのもので、ついにここまで近づけたかと、少々興奮したのは事実だ。応接室に通されると、侯爵は想定よりはるかに親しみを持って『フィエ』に接した。どんなふうに生活をしているのか、どんな風に雛菊と会っているのか、ごく自然な会話の中で聞き出そうとしてくる。正直な男であることを印象付けるため誠実にそれに答えた。会話しながら、ヴォッゴは慎重に侯爵の話を聞いた。注意深くひとつひとつの言葉をかみ砕き、記憶して、それとなくこちらからも質問する。大変な集中を要する作業だ。懸命に頭を回しながら、やがてヴォッゴはひとつ、鍵になりそうな情報を手に入れた。


 二週間後の夜。

 侯爵も雛菊も、知人の屋敷で食事をする予定らしい。その知人というのが、リビラが関係を疑っている相手であれば――侯爵を追い詰められる。


 ヴォッゴは『フィエ』として問題なく振る舞った。侯爵は『フィエ』を気に入ってくれたらしく、冗談交じりに雛菊との結婚を許可した。いくつかの条件を課せられたが、もとよりこの女と結婚するつもりなど、『フィエ』にあってもヴォッゴには欠片もない。


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