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醜い男  作者: 小林マコト
3/10

3

 それからヴォッゴは、とにかくトッタのことが知りたいと思った。


 劇場に行けば会える。彼女は女優だ。ルゥイド座は現在『黄金の月夜』を上演しており、そのヒロインのアガヴェルナは彼女の代表的な役である。二週間後には御前上演に向けた調整期間に入るため、ヴォッゴが彼女の芝居を観ることができるチャンスはそう多くない。


 なんとか機会を作ろうと努力はしたものの、リーゼヴィットの嫌がらせか、それとも本当に急に仕事が発生したのか、とにかくヴォッゴはいくつもの新たな仕事を与えられてしまった。リーゼヴィット自らがいくつかの仕事を請け負ったため、本当に非常事態に近いものだったのだと信じている。たった八人しかいないリビラでは年に一度はあることだが、今回ばかりはタイミングが悪すぎた。


 落ち着くことができたのは、寝る暇もない日を一週間続けた頃だった。それらの仕事は情報収集が主だったが、中には脱獄囚を捕らえよという腕っぷしの求められる仕事もあった。諜報活動ばかり割り振られていたヴォッゴにとって久々の荒事は、しかしそれほど腕が落ちていないと安心できるくらいには難なく終えられた。


 それから後処理や雛菊の相手をしていると、ルゥイド座が調整期間に入る最後の公演の日になっていた。

 一目でいいからトッタの顔が見たかった。自分の呪いを解いてしまった女の顔を見て、確かめたかった。何を確かめたいのかはヴォッゴにもわからない。それでももう一度だけでも見れば、何かがわかる気がした。


 非常識だとわかっていながら、夜、終演後のルゥイド座の劇場裏口前で、トッタを待った。彼女が出てきたのは、同じように裏口前にいたファンが徐々に減っていき、ヴォッゴひとりになったときだった。


 トッタは相変わらず着込んでいた。冬とまではいかずとも、秋に着るような服だった。少し疲労を滲ませていたが、その表情は気品に溢れている。

 ヴォッゴを見つけたトッタは、ほんの一瞬だけ眉をひそめて、すぐににっこりと笑んだ。


「観たの」


 たった一度しか会ったことのないヴォッゴを覚えているらしい。胸のあたりから、頭に熱が上がってくる。と同時に、彼女の舞台を観れていないことへの罪悪感が、ヴォッゴの頭を殴った。


「ごめん」

「そう。それなのに待っていたの、こんなところで、こんな時間まで」

「きみに会いたかったんだ」

「わたしのこと何も知らないくせに」

「ごめん」


 繰り返し謝るヴォッゴに、トッタは「いいのよ」と返す。


「特別なことではないわ。本物を見ないで、想像だけで満足できるひとはたくさんいるのよ。あなただけじゃない」


「観るよ」トッタの瞳の奥に冷ややかさが広がって、慌ててヴォッゴはそう言った。「次は必ず。約束する」


 それでも冷ややかさは消えないままで、体温が下がっていく。どうすればトッタから良く見られるのか、そればかり考えてしまう。

 ヴォッゴの余裕のなさを見抜いたのか、トッタはけたけた笑った。今度は本心からの笑顔だった。


「あなた、そんなにわたしのことが好きなの」


 ゆっくりと近づき、腕を取って、トッタはヴォッゴにしっとりと寄りかかってきた。背の高いヴォッゴの肩に、彼女の頭が預けられる。かかとの高い靴を履いたトッタは長身に見えるが、実際はおそらく、女性の平均的な身長なのだろう。


「気に入ったわ」ささやくような声が、ヴォッゴのためだけに紡がれる。「ちょっと付き合って。まだ歌い足りないのよ」


 そうやってトッタに連れていかれたのは、ルゥイド座から少し歩いたところにある、王都で最も大きな公園だった。昼間はよく賑わっている公園だが、今はヴォッゴとトッタ以外に誰もいない。街頭も消え、月明かりだけが頼りだ。しかし、それだけでじゅうぶんに思えるほど、不思議とトッタははっきり見えた。夜目がきく方だからかもしれない。それでもいつもより、はっきりと、彼女だけはよく見えている。


 ここまでの道のりで、彼女は楽しげに何か鼻歌を歌っていた。無垢な笑顔でそうしていたものだから、ヴォッゴはそれに聴き入った。永遠に聴いていられる、と思った。


「観ていて」公園の片隅、ヴォッゴの腕から離れて、トッタが月に手を伸ばす。「――〝今夜、闇に紛れて泣くといいわ〟」


 それは、台詞だった。呼吸のひとつひとつ、目線のひとつひとつが、トッタ・クレイからかけ離れたところにある。トッタはヴォッゴの前で、彼女ではない誰かになった。


「――〝だけど気をつけなさい〟」


 台詞は徐々に旋律を帯び、歌になる。トッタの胸が膨らみ、静寂に色を着けていく。


「――〝いつか日は落ち、夜が来る。私は私を顧みる。月だけが見ている〟」


 情緒に満ちた声と瞳。なめらかな指先とつま先の動き。ゆるやかな踊りの中で、彼女は歌い、伝えてくる。この歌の意味、この台詞のわけを。


「――〝流れ、流れて、星は行く。日がまた輝き〟」


 彼女が『黄金の声』と呼ばれる理由を、ヴォッゴは確かに理解した。


「――〝空を焼く……〟」


 夜を支配するかのように力強く、けれど眠りについた赤子すら起こさないような優しい声だった。

 ゆっくりと時間をかけて、トッタは彼女自身に戻ってくる。ふっと身体から力を抜くと、苛立ちを隠さず吐き捨てた。


「ダメね」


 どこがだめなのか、ヴォッゴにはまったくわからなかった。胸に手を当て、大きな呼吸を繰り返すトッタを、ただ見つめているしかない。


「このところ、上手く声が出ないのよ。お医者さまにも診てもらったけど、たいした問題はないみたい。面倒なことになりそうだわ」

「きみの声は……評判以上だ。こんなに美しい歌は初めてだよ」


 ヴォッゴの言葉にようやくトッタは笑顔になった。得意げに口の端を持ち上げてみせる。


「ありがと。聴かせてあげたかいがあったわ。でも本番はもっとすごいわよ、こんなもの比べ物にならないくらい」


 期待に応えられる人間のする顔だった。自信に満ちた、強い表情だった。

 それがあまりにも輝かしく見えて、ヴォッゴはトッタ・クレイという女に否応がなく惹きつけられた。

 おそらくその顔ができるようになるまで、数多の挫折や苦悩があったのだろう。それらを乗り越えたからこそ、こんな風に胸を張れるのだ。そう感じて、ヴォッゴはトッタの手を取った。


「ありがとう。きみの歌を聴かせてくれて」

「なあに、改まって」トッタはくすくす笑って、手の甲へのキスを受け入れた。「でも感謝なさい、こんなサービス、滅多にしないんだから。今はまだこの国だけの女優だけど、そのうち世界を相手にするのよ、わたし」

「世界を」

「ええ、女優になったときから決めてるの。そのために女優であり続けるのよ」


 強い意志だった。彼女は自分がそうなると信じきっているらしかった。そういう風に生きるのだと、覚悟している。


「今度」深く呼吸を繰り返し、冷たい空気を肺に取り入れるトッタに、提案する。「一緒に食事でもどうかな」


 女性を食事に誘う、ただそれだけのことに緊張してしまう日が来るとは思わなかった。断られることを前提に誘うというのも初めてだ。

 しかし意外なことに、トッタは「いいわよ」と簡単に誘いに乗ってくれた。


「夜は多くは食べない主義なの。できれば朝がいいわ」

「きみに合わせるよ」

「そう。明後日なら空いているけれど」

「じゃあ明後日に」


 楽しみにしてるわ、とトッタが言う。ヴォッゴも楽しみだった。ここまで生きてきて、予定ができたことをこれほど嬉しく思ったことはない。

 そこでようやくトッタに名乗った。『フィエ・モストル』であると。本当はこんな名前で呼ばれたくはないが、王都にいる以上、いつジノに見られるかわからない。そうならないようには尽力するつもりだが、今、ヴォッゴがヴォッゴであることをリビラ以外の誰かに教えることはできない。


「フィエ」それが偽名であると気づくはずもなく、トッタはその名で呼ぶ。「覚えておくわ、フィエ・モストル」


 偽名であっても、自分の名前をトッタが呼んでくれたという事実は、ヴォッゴの心をざわめかせた。


 ――これが恋か。


 リーゼヴィットの言葉を思い出す。ヴォッゴは、呪いを解いた相手と恋をする。とても素敵な恋を。

 彼女と喋っていると、心臓が今までにない動きをしている錯覚に陥る。トッタのまわりの空気がチカチカまたたいて見えた。これは正気ではない。狂ってしまったのか、酔ってしまったのか。

 けれど、何か弾むものがある。浮足立つ、何かが始まる予感があるのだ。


 おそらくこれが、恋。ヴォッゴの知るはずのなかったものだ。


 嫌だとは思わなかった。面倒だとすら。これが恋であるのなら、ヴォッゴがとるべき行動はひとつだろう。

 この恋を手に入れたい。初めてこれほど強い気持ちを抱いたかもしれない。密かにトッタの瞳を覗いてみる。まだトッタはヴォッゴなど見ていない。気に入っている部類ではあるだろうが、そんなものでは満足できない。


「どうかしたの」

「なんでもないよ」


 口から甘ったるい言葉が出てきそうなのを必死でこらえる。浮かれているのがわかった。淡々としていた日々はとっくに過ぎ去ってしまったのだ。これからヴォッゴは、自分でも知らない方向に変わっていくだろう。それを楽しめる気がした。

 ずいぶんと遅い時間だった。名残惜しいが、トッタを彼女の家の近くまで送って別れた。

 素晴らしい夜だった。ヴォッゴはこの夜のことを、生涯忘れないだろう。


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