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弾かれるようにボックス席を出ると、アンドロが立っていた。代わりに護衛に入ってくれるらしい。
舞台袖は薄暗く、想像以上に狭かった。スタッフや役者たちが無音で忙しなく動いている。その中に唯一のひとを見つけると――トッタもヴォッゴを見つけてくれた。
「ヴォッゴ、あなたどうして」
駆け寄ってきたトッタを抱きしめる。強く、最初で最後の抱擁だ。彼女の腕が背に回される。満足できるまでそうして、離した。
つい先ほどまで舞台の上に立っていた女は今、ヴォッゴの目の前で、一世一代の芝居を終えた興奮と、これからの未来を決めかねる困惑の混じった表情をしていた。
「おめでとう。すごくよかったよ。すごく、綺麗だった」
上手く笑えない。情けない顔をしているだろう。けれど決めたのだ。トッタ・クレイの傍にヴォッゴは相応しくない。舞台に上がれない男は、彼女の隣を歩けない。
「ヴォッゴ、ねえ、よく聞いて」
聞きたくない。耳をふさぎたくなったが、ヴォッゴはしっかりとトッタの瞳を見た。なめらかに、トッタの唇がひらめく。
「わたしは芝居を辞められるわ」
聞きたくて、聞きたくなかった言葉だ。喉が震える。これ以上ない歓喜で満たされる。
けれど。
「――きみは、女優だ」
けれど、この幸福は永遠にはならないのだ。トッタもきっとわかっている。わかっていて、それでも選ぼうとしてくれた。それだけで、ヴォッゴはじゅうぶんだ。
「きみはこれから、誰よりも素晴らしい女優になる。きみが決めた通りのひとになるんだ。そして僕は、きみのファンのひとりとして、それを客席から観るんだ。何度も、何度も、絶対に飽きたりしない」
トッタの瞳が揺らいでいる。その瞳に映るヴォッゴは、泣いていた。自分が泣ける人間だとは思ってもいなかった。
「そうしてきみは、もっともっと素敵な恋をする。僕がきみにしていたような、月や、星や、宝石より輝く永遠の恋を。だから……『醜い男』のことは、忘れてほしい」
「あなたにとってこれが永遠なら、わたしにとっても永遠だわ」
「それだけでじゅうぶんだ」芝居が終わったらしく、周囲の役者たちが挨拶のために舞台へ出ていく。「さあ、行って。世界がきみを待っている」
「嫌よ」
ついにトッタの瞳からも涙が流れて、それを拭ってやる。清い水だった。トッタはヴォッゴの手を離さない。
「大丈夫。きみは、みんなに求められてる」
役者の一人がトッタを呼んだ。笑って背を押せば、トッタは、黄金の声を残して光の中へ駆けていく。
「美しいあなた、わたしの恋は永遠にあなたのものよ」
忘れないで。
忘れるものか。忘れられるものか。この先また誰かを愛そうと、ヴォッゴの恋は永遠にトッタのものだ。トッタが誰かを愛しても、恋をヴォッゴにくれるのであれば、ヴォッゴだって同じようにする。
袖から見る舞台は客席で見たときより眩しかった。喝采に迎えられたトッタ・クレイの横顔は、涙で濡れてはいるが、やはり誰よりも美しい。
綺麗なお辞儀をして、その華奢な身体に歓声を浴びる彼女の瞳の奥に、女優としての歓びが灯るのをヴォッゴは見逃せなかった。
ただ、祈る。これが愛に変わらないことを。色褪せず永遠の、夜のような恋であり続けることを。




