表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
醜い男  作者: 小林マコト
1/10

1

 美しい女優が、しっとりと汗を滲ませて、ヴォッゴの目を見つめている。

 トッタ・クレイ。ヴォッゴが初めて恋をして、手に入れたいと望んだ、唯一の相手。


「トッタ」彼女が何か言う前に、優しく笑んで名前を呼んだ。「おめでとう。すごくよかったよ。すごく、綺麗だった」


 表情を作るのは得意だったはずなのに、トッタの前ではどうも上手くいかない。情けない男になったものだ。こんなことでは、今後の仕事に支障をきたす。

 トッタは「ありがとう」と黄金の声を震わせる。今にも泣きそうだ。それが喜びであるのなら、ヴォッゴは心の底から祝福できるのに、きっとそうではない。


「ねえ、よく聞いて」


 聞きたくない。耳をふさぎたくなったが、ヴォッゴはしっかりとトッタの瞳を見た。

 なめらかに、トッタの唇がひらめく。





『フィエ・モストル』は王都のレストランの料理人見習いの男である。歳は二十八、南部生まれ。ドーレヴェルで勤め始めたのはつい先月で、勤務は週に三回。顔立ちはいいが表情のあまり変わらない男。


 ――これが、今のヴォッゴの設定である。


 そして、ヴォッゴが演じる『フィエ』の恋人が、この目の前の赤毛の女だ。安宿で『フィエ』を誘惑している。その誘惑にやすやすと乗り、口をふさいだ。年季の入ったベッドが嫌な音を立てて軋む。そういえば、この『フィエ』の恋人である女の名はなんだったろう。どうしても本当のターゲットであるこの女の父親の名前しか思い出せない。仕事上、この女のことは雛菊と呼んでいるのもあり、どんなに記憶を探っても見当たらい。


 まあいいか、と肌を撫でながら、喋る余裕すらないかのように口づけを降らせる。ヴォッゴはこの女を嫌悪してはいないが、好きにもなれないだろう。ヴォッゴの呪いを思えば当然のことではあるが。こういう仕事をしているとき、ヴォッゴは自分が持って生まれた呪いに感謝する。余計な情が生まれない特性は、悪事を働く人間にとって最高の才能だ。


 ヴォッゴは自分の顔と身体が女に好かれるものであることを自覚している。だから髪も伸ばした。筋肉のついた細い身体、高い背、肩をすぎるくらいに伸ばしたこげ茶の髪と同じ色の瞳、微笑めば優しげに、笑えば幼げに、真剣になれば野性味が出るらしい顔。少し遊び人にも見える容姿は、自分では価値を感じなくとも武器であると、これまでの経験から理解していた。だからこそ、ここ数年はこれを大いに利用している。今のように。


 この仕事をするようになって、もう十年にはなる。おそらく向いているのだろう。ヴォッゴの生まれ持つ呪いを見抜き、リビラ――女王直属の犯罪組織に半ば無理やり連れ込んだ女主人リーゼヴィットには、それなりの感謝を抱いている。王の名のもとに世間の陰に隠れて悪事を働くのがリビラだが、曲がりなりにも仕事である。リビラに拾われていなかったらヴォッゴは今ごろ、家業の大道芸人を続けていただろう。


 だんだんと外が白んでいく。ヴォッゴは、女とベッドから離れた。脱ぎ捨てられた服を拾い上げ、軽く皺を伸ばして身に着けていく。

 罪悪感といったものはない。これは、ただの仕事だ。





 その日は『フィエ』の仕事があったため、ヴォッゴが店を出たのはもう月が真上にあるころのことだった。月のない星の綺麗な夜で、通りに人はなく、ヴォッゴのささやかな足音だけが響く。

 ふと、前方にひとりの女の姿が見えた。大きな建物をじっと見上げている。確かそこは、劇場の入り口だったはずだ。ヴォッゴは思わず立ち止まってしまった。その女の腰ほどに伸ばされた艶やかな黒髪が風に揺られている。


 ――何を。


 しているのか、と声が出そうになって、慌てて呑み込んだ。見知らぬ女である。何もなかったことにして、また歩きはじめた。すると女は、視線を自らの足元に落とし、また前を向いて、こちらへ歩きはじめてしまう。二人はすれ違い――目が、合った。


「――きみ」


 驚くべき事態だった。無意識のうちに、ヴォッゴは彼女の腕を掴んでいた。


「きみ、今、僕に何を、」

「……ただすれ違っただけでしょう」


 女は不思議そうに、そう返す。

 それはそうだ、ただすれ違っただけ。けれど目が合った瞬間に――ヴォッゴの呪いは、あっさりと解けてしまった。

 努力しなければ絶対に解けないはずの、解き方のわからない呪いだ。解くつもりもなかったものだ。それなのに、ヴォッゴは確信していた。

 この女と目が合った瞬間、自分の呪いは解けてしまった、と。

 彼女の様子からして、本当に何もしていないつもりなのだろう。目を少し見開いて、何の話かわからないと表情で大いに表現していた。本心からのものだと判断し、ヴォッゴは彼女の腕を離す。彼女は夜とはいえ夏に相応しくないくらいには着込んでいた。長めの白いストールが首に巻かれている。少しエキゾチックな顔立ちに、星も月もない夜のように吸い込まれそうな黒い瞳。女性らしい情熱的な赤い唇。彼女は美しい顔を顰め、ヴォッゴが触れた部分を手で軽く払う。


 それが無性に悲しかった。おそらく彼女はそれを癖で行っていて、別に傷付くようなことでもない。ごく普通の反応だろう。


「なあに」彼女の声は、夜の街を神秘的な音色で彩った。「酔ってるの」


 いたって素面だ。けれどもしかしたら、知らぬうちに酔ったのかもしれない。そうでなければ知らない女にこんな余裕のないまま声をかけたりはしない。


「ごめん、ただ……ただきみが、僕の呪いを簡単に解いてしまったから」

「それ、口説いてるつもりなのかしら」

「そうかもしれない」

「つまらない文句ね。そんなんじゃ誰もつれないわよ、わたしもね」


 くすりと笑った彼女を見て、ヴォッゴは余計に焦ってしまう。普段の自分はこんなに余裕のない男だっただろうか。


「きみの名前、教えてくれないかな」

「あら」不機嫌な顔をしながらも、彼女は胸を張って答えた。「トッタ・クレイよ。ルゥイド座の」

「ルゥイド座の『(トッタ)』」

「ええ、『(トッタ)』。単純な名前でしょう。母がバカだったのよ」

「とんでもない。いい名前だと思う。そうか、きみが」

「本当に知らなかったのねえ」


 ルゥイド座のトッタ、といえば、王都で今一番旬の舞台女優だ。おそらく国で一番だろう。彼女が主演の度に新聞で話題になるし、代表作『黄金の月夜』は三ヶ月後に女王の御前での上演が決まっている。


「まあいいわ」


 トッタがにっこりと笑んだ。ヴォッゴのためだけの笑みだ。しかし、それは営業用のものでしかない。


「もう真夜中よ、お兄さん。さっさとお家にお帰りなさい。じゃあね」


 そう言ってトッタはヴォッゴの傍を離れようとする。

「待って」その細い背を追いそうになって、すんでのところで声だけを投げる。「また会えるかな」


 どうしてそんなことを言ったのか、ヴォッゴ自身にもわからない。わからないが、口から出てくるのはそんな言葉ばかりで、情けなくなる。

 トッタは振り返らずに、答えた。


「劇場でならいつでも会えるわよ。次はちゃんとチケットを買っておいでなさい」。


 トッタが完全に見えなくなってから、はあっと大きな溜め息にも似た息を吐き、いつの間にか緊張しきっていた身体から力を抜く。


 変わってしまった、この自分が。


 胸の奥のざわめきが一体何なのか、ヴォッゴは知らない。とにかく自分の呪いが解けてしまった確証を得るために、リビラの事務所へ急ぐ。この時間帯なら、主人であるリーゼヴィットも起きているだろうと信じて。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ