3 箱船
身軽な格好のせいか、男の歩みは速かった。着いていくのに必死な女にはお構いなしである。同行を申し出た手前、女の方から待ってくれと頼むわけにもいかなかった。
「……お、お名前は何というんですか」
苦肉の策で話し掛けてみる。
男は振り返りもしなかった。
「申し訳ありません。あまり他人に名前は教えないことにしていまして」
「では、なんとお呼びすればいいですか」
「箱船と名乗ることにしています。箱船は苗字で、下の名は虚」
「箱船……さん」
奇妙な響きだった。たしかに本名では有り得ない名前のようだ。
ノアの方舟になぞらえたのだろうか、と女は思った。
結局、箱船の足は緩まなかった。むしろ喋ったせいで息が上がり更に歩くのが辛くなるという始末。
仕方なく二の矢を放ってみる。
「私は……柊木……茜って……言い……ます」
途切れ途切れかつ小声となってしまった。
「え? すみません、聞き取れませんでした」
と、そこでようやく箱船は歩みを止めて振り返った。
「柊木茜です!」
最後の一息を込めて茜は全力で声を張り上げる。
交錯する視線。短い沈黙。
「すみません、歩くのが速いなら言ってくだされば良かったのに、柊木さん」
箱船は少しだけ困ったように眉をひそめた。