74 潮騒に包まれて
静かに打ち寄せる波の音。
海風が吹き付ける防波堤の上で、ルトはシフルと向き合う。
「いい風なのです。海の向こう側から吹く風が大海原を越えて、こうしてシフルたちの元まで届いているのですね」
「そ、そうだね? ……すー、はー。すー、はー」
シフルの言葉の意味はよくわからなかったが、とりあえず深呼吸をして落ち着こうとする。
落ち着こうとするが、胸の鼓動は治まらず、未だ経験したことのない緊張感も和らぐどころか増す一方。
バクバクとうるさく鳴る心音に、いっそ止まってしまえと心の中で叫ぶ。
本当に止まってしまったら困るなんてものではないが。
「ところでルトちゃん、こんな所でしか出来ない話というのはなんなのです?」
「んぇっ、とそれは……、その……」
赤面して顔を逸らし、もじもじと腕を擦り合わせるルト。
一体なんと言えばいいのか、もしもシフルに断られたら。
彼女の苦悩をよそに、シフルはその姿を眺めて思う。
あぁ、今日もルトちゃんは天使なのです、と。
「えっと、ボクね、シフルのことが好きなの!」
「はい。シフルもルトちゃんが大好きなのですよ」
勇気を振り絞った一世一代の告白。
それを受けたシフルの答えはあまりにもあっさりしていた。
「…………」
「……ん、どうかしましたか。それで大事な話というのは……」
いくらルトでも気付く。
意図が正確に伝わっていない、と。
「んっと、違うの。そうじゃなくて、そういう意味じゃなくてね。えっと……」
やり遂げたはずの告白をもう一度行う勇気は中々出ない。
それでも、玲衣とリンナの幸せそうな顔を見て、自分もシフルとああなりたいと思ったのだ。
大きく息を吸って、吐く。
よし、と気合を入れて、ルトはもう一度勝負に出る。
「えっと、だから、ボ、ボクをシフルの恋人にしてくださいっ!」
「……え」
目を白黒させるシフル。
とりあえず自分の頬を思いっきりつねってみる。
痛い、夢ではない。
いや、もっと大きな刺激を与えないと夢から覚めないのかもしれない。
頭から思いっきり冷や水でも浴びれば目も覚めるか。
結論を出したシフルは、防波堤から海に飛び込もうとする。
ルトは慌てて彼女を止めに入った。
「ちょ、何しようとしてるの! 溺れちゃうよ、シフル泳げないのに」
「ルトちゃん、大丈夫ですよ。これは夢なので溺れないのです。せいぜいが布団に地図を描くくらいですから」
「なに訳わかんないこといってんの、夢なんかじゃないって!」
シフルを捕まえると、ルトは両手で思いっきり彼女の頬を引っ張った。
「いひゃいいひゃいいひゃい」
「どう、夢じゃないってわかった?」
「わひゃったのれす、はらしてくらはい」
手を放すと、シフルの頬は真っ赤になってしまっている。
「あ、力入れ過ぎたかも。こんなに赤くなっちゃった。ごめんね、大丈夫?」
「全然平気なのですよ、赤くなってるのは多分別の要因なので……」
ルトに告白されてしまった。
その事実を現実として認識した瞬間、シフルの顔はこれ以上無いほどに紅潮した。
早鐘のように脈打つ心臓、自然と上がってしまう口角。
今ならふーちゃん無しでも空を飛べる気すらしてくる。
「そ、それで、返事なんだけど……。やっぱりダメ……?」
不安げに尋ねるルトに、シフルは我に帰る。
一人で浮かれている場合じゃない、早く返事を返さなければ。
「ダメなわけが無いのです! むしろこちらからお願いしたいのですよ!」
「ほ、ほんと!? シフルとボク、恋人なの!?」
「はい。今日からシフルたちは、家族で姉妹で恋人なのです」
「〜〜〜〜〜っ、やったーっ!!!」
喜びを爆発させ、ルトはシフルに飛びついた。
ぎゅっと抱きついて頬を寄せたと思えば、離れてぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「ふふっ、でもちょっと残念なのです。告白はシフルからしようと思ってましたから」
「んぇっ、そうだったの? いつする予定だったの?」
「それはその……、だいぶ前からしようと思っていたのですが……」
出会って数日、その頃にはシフルはルトに対して恋愛感情を抱いていた。
一緒に住んでいて、いつでも告白するチャンスはあったはずなのだが、それでも一歩を踏み出す勇気が出なかった。
「これじゃあリンナおねーさんを笑えませんね。シフルはとんだヘタレなのですよ」
大喜びするルトに聞こえないよう、シフルは臆病な自分を自嘲する。
ともあれ、こうして彼女と恋人同士になれたことは何よりも嬉しい。
「ん、そういえば恋人ってなにするの?」
ピタリと動きを止めたるとが投げかける疑問。
いつものようにシフルは答えていく。
「そうですね、一緒に住んだり、一緒に出かけたり……」
「いつもしてるね」
「一緒に寝たり、キスをしたり……」
「それもいつものことだよね」
「あ、あれ?」
結婚式場での一件以来、口と口でのキスも時々だがしている。
何も知らないルトを騙すようで気が引ける、という事もなく、むしろルトの方が積極的にシフルの唇を奪っていた。
思えば恋人同士でするようなことは、ほぼほぼ普段からしている。
「うーん、ボク達って最初から恋人同士だったってコト?」
「そうではないと思いますよ、気持ちの問題なのです。友達だと思ってするキスと、恋人だと思ってするキスはきっと全然違うのです」
「そうなの? ……試してみていい?」
「ん、どうぞなのです」
正面から向かい合い、ルトはシフルの両肩に手を添える。
お互いの顔を見つめ合うと、胸の辺りが締めつけられるような感覚を覚える。
不快な感じではない、不思議な感覚。
口づけをするためにシフルに顔を寄せる。
時々していることなのに、いつものように軽い気持ちでは出来ない。
近づいたり離れたりを繰り返したあと、意を決して唇を重ねた。
「んっ……」
「ふっ……ぷぁっ……」
唇を軽く重ねるだけの幼いキス。
それでも二人は顔を真っ赤にして、恥ずかしげに目を逸らす。
「な、なんでかな、すっごく恥ずかしい……。いつもこんなんじゃないのに……」
「シフルもなのです……。これは、話に聞いた以上に……」
「うぅ……。あれ、そういえばリンナが言ってたよ。キス以上のことがあるって」
先ほど盗み聞きしたやり取りを思い出し、ルトは口を開く。
その途端、シフルは怒髪天を衝く勢いで猛り狂った。
「は、ちょ、あの人シフルの大事なルトちゃんになんてこと教えてやがるのですか!!」
「ち、違うの。レイとリンナが話してるのを聞いちゃって……」
「あぁ、それならしょうがない、ことはないですけど、まあ不問にしてあげますか」
リンナに対してフレズベルクをけしかけかねないシフルに、ルトは慌てて訂正する。
「それで、キス以上のことなんだけど……」
「それはダメなのです。シフルたちはまだ子供ですから」
「子どもは出来ないことなの?」
「そうですね、出来ないこともないですけど、あまり好ましくないのです。だからシフルが大きくなるまで、そうですね、十四歳の誕生日が来たら解禁、ということで」
「そっか。えへへ、なにかわかんないけど楽しみ」
無邪気に笑うルト、その一切の穢れない笑顔を目の当たりにして、シフルの胸に複雑な感情が去来する。
「……いいのでしょうか、本当に。これは言うなれば真っ白なシーツにコーヒーをこぼしてしまうような愚行……。いや、新雪に自分だけの足跡を刻む快感とも……」
「うぅ〜、またシフルが難しいこと言ってる」
自分を放ったらかして何やら呟きはじめたシフルに苦言を呈するルト。
シフルは大慌てでどうでもいい思考を中断する。
「あはは、ごめんなさいなのです。さて、そろそろ戻りましょうか」
「そうだね、ボクお腹空いた。そうだ、手繋いでいこっ」
「はいっ、なのです」
固く手を繋ぎ、二人の少女は波止場を後にする。
その小さな胸に、幼い恋心を抱きながら。
☆☆
水平線に沈んでいく夕陽、赤く染まる空と海。
黄昏の海をふーちゃんは静かに見つめる。
「さて、ふーちゃん。そろそろシフルの頭に戻ってくるですよー」
レジャーシートの上からひょいと持ち上げ、ふーちゃんを定位置へと戻す。
この子が一人ということは、シズクはまだここには戻っていないのだろう。
「うぅ、なんだこれ。髪がカピカピするぅ、体もべとべとするし」
「塩水だからね。着替える前にしっかりシャワー浴びないと」
「シャワー……」
「海水浴場のシャワーだよ? 人は多いし周りからは丸見えだよ? 変な事考えてないよね?」
「か、考えてないからっ。そんな四六時中頭の中がピンク色みたいに言わないでくれぇ」
顔を赤くして必死に弁明するリンナ。
そんな彼女が可愛くて、玲衣はついつい意地悪を言ってしまう。
二コリと微笑むと、リンナをそっと抱き寄せた。
「えへへ。ごめんね、少し意地悪だったかな」
「むぅ……。アウド牛三段重ねステーキ作ってくれ、それなら許す」
恋人の胸に顔を埋めながら、どこか幸せそうなリンナ。
その様子を眺めながら、シフルはうんうんと頷いた。
「なるほど、飴と鞭。レイおねーさん、中々やるのです。ただのネコさんではないですね」
「シフル、猫ってナニ? レイは猫じゃなくて人間でしょ?」
「おっと、いけませんね。教育に悪い言葉は自重せねば」
「ただいまもふもふ。今戻った」
音も無くシフルの背後に現れたシズクが、ふーちゃんを奪っていく。
頭の上に乗せて満足気なホクホク顔。
その背後で、ヒルデは力無く倒れ伏していた。
「あ、シズクさん。ずっといなかったけど、二人してどこ行ってたんですか? こっそり買い物でもしてたとか」
「違う。ずっと走って泳いでた。昼食休憩以外はずっと」
「え……」
想像を絶する答えに、玲衣は絶句する。
その結果がピクリとも動かないヒルデなのか。
「すごいのですね、二人とも。いつもこんなはーどな訓練をしているのですか」
「そんなわけない。毎日こんなことしてたら死ぬ」
「一日でも死ぬと思います、っていうかそこで死にかけてます」
「ヒルデ、騎士団長ともあろう者がだらしない。ほら、立って」
「あ゛ー」
呻き声とも返答ともつかぬ声を絞り出しながら、ヒルデはシズクに無理やり立たされる。
すぐに倒れ込みそうになるところに、シズクが肩を貸した。
「ヒルデはもうダメみたい。このまま部屋まで連れていく。その後は……ふふふ」
「あ、はい。お疲れ様でした……」
ずる、ずる、と砂浜に足を擦りながらヒルデはシズクに引っ張られていく。
その後の彼女の運命を知る者はいない。
「あ、ふーちゃんは置いていくのですよー」
頭の上にふーちゃんを乗せたままのヒルデを、シフルは慌てて追いかけた。




