72 初めての海
ヴァルフラントの南側、そこはエギル海に面した沿岸部。
王都から馬車で七日ほどの距離に、海辺の町ラーンが存在する。
元は漁師たちが寄り集まって出来た小さな町だったが、造船技術の発達に伴い他国との貿易の要となる一大拠点として発展した。
現在は港町としての機能の他、観光地としても大いに賑わいを見せている。
一方で、召喚師がこの場所を訪れることは少ない。
草原地帯の果てにある立地上、山や深い森が近隣に存在しないため、危険な召喚獣とは無縁の環境なのだ。
加えて、海に出現する召喚獣は水辺でなければ使いものにならないため、船乗り以外に需要が無い。
よってA級やS級の召喚師であっても、この町に足を運んだことがない、なんてのもよくある話だ。
「あれが海、初めて見たのですよー!」
「おっきいー! アムス湖もでかかったけど、海はもっともっと広いね、シフル」
生まれて初めて見た海に、シフルとルトは手を取り合ってはしゃぐ。
その様子をため息交じりに見守る、保護者代理のリンナ。
腕を組んで冷めた目をしているように見えて、初めての海にわくわくが止まらないようだ。
体を上下に揺らして落ち着かないリンナを見かねて、玲衣は彼女の手を引いて駆け出す。
「リンちゃん。私、近くで海見たくなっちゃった。一緒に行こっ」
「し、仕方ないな。一緒に行ってやる、仕方なくだからな」
大変嬉しそうなリンナを玲衣は微笑ましく見守る。
なんで素直にならないのかな、私の前ではあんなに素直なのに。
そう思う玲衣だったが、よくよく考えると本当に最初の頃は割とツンツンされていた。
「若いって素晴らしい。ヒルデもそう思わない?」
「ああ、そうだな。私は今から帰った後が憂鬱だよ……」
ヒルデとシズクが休んだ分のしわ寄せが圧し掛かるアスラの恨めしそうな顔。
結局それがヒルデの脳裏から離れる事は無かった。
憂鬱そうなヒルデとは対照的に、シズクのテンションはかなり高い。
表情は乏しいままだが、太陽を反射して輝くサングラスがそれを物語っている。
「楽しまないと損。嫌なことは全部忘れてきわどい水着姿を見せてほしい」
「ふっ、そうだな。ここまで来たからには……ん?」
なにやらおかしな事を言われた気もするが、シズクの言葉はもっともだ。
「レイ、私は水着のセレクトに行かせて貰う。ヒルデも一緒に来て。貴女に任せるととんでもない水着を選びそうだから」
「いや、その前に宿に荷物を……」
「水着が先。有無は言わせない」
「そ、それでは皆、またあとで」
「は、はい。……引っ張られて行っちゃった」
「尻に敷かれてるのです」
シズクに引っ張られて去っていくヒルデを見送ると、気を取り直して海辺の散策を始める。
波止場から見下ろす海は、底までが澄んで見える。
時おり魚影が視界を横切り、その度にルトが食べたそうな目で見送る。
波も穏やか、遠くに見えるビーチには大勢の海水浴客の姿。
爽やかな海風を浴びながら背伸びをする玲衣の隣で、なんだかリンナは微妙な顔をしている。
「んーっ! いい気持ち。どう、初めての海は。……リンちゃん、どうかした?」
「ん。なんか生臭いっていうか、独特の臭いが……」
「このぐらいの臭いで何を言っているのですか。そんなだからヘタレなのです」
「ヘタレは関係ないだろ。それはもう返上したし」
「リンちゃん、特別鼻がいいから。温泉の時も硫黄臭でまいってたよね」
「なるほどなるほど。でもレイおねーさんの匂いなら体のどの部分だって……なんですよね、むふふ」
「お前海に叩き落とすぞ」
割と本気のトーンで脅すと、シフルはキャッキャと笑いながら逃げていく。
「まったくアイツは……」
「ねえレイ。今のってどういう意味? シフルは多分教えてくれないから」
「そ、それはね……。えーっと、その……」
「……ルトちゃんの教育に悪いですね。以後気を付けるのです」
☆☆
散策を終え、宿に荷物を置いた四人は水着のレンタルショップを訪れる。
さすがに品ぞろえは豊富、少し見渡しただけでも目移りしてしまいそうだ。
「ボク、水着なんて選んだこと無いからよくわかんない……」
「シフルが一緒に選んであげるのです。おそろいの水着にするですよ」
「シフルとおそろいかー。楽しみー」
「ではでは、シフル達は二人っきりにさせてもらうですよ。お二人とも、誰も見てないからって変なことしないように」
「する訳ないだろ、さっさと行け」
ルトに両肩を押されながら、シフルは店の奥へと消えていく。
「まったく、最近のシフルは目に余るな……」
「あはは……、はぁ。リンちゃんよりも私が大変だよ……」
「さ、私達も行こう」
「そうだね。リンちゃんに色々着せたいし」
「……着せ替え人形にはされないからな」
「ちぇっ、残念」
時々店の奥から聞こえてくる、「もう勘弁してくれ、シズク」という叫び。
あれと同じ目には遭いたくない。
店内を見て回ると、やはり定番のビキニコーナーで足が止まる。
専用のハンガーに下げられた水着を、玲衣は手際よく物色していく。
「私はやっぱりこれかな。オレンジとか赤とかの暖色系がいいけど、リンちゃんはどう思う?」
「ん、そういう色がレイには似合うよ。私は……、ビキニはちょっと」
胸が、胸が無い。
着こなすには、圧倒的に胸が足りないのだ。
「大丈夫だよ。ほら、トップの方がフリルで隠れるようになってるやつ。これなら大丈夫でしょ」
「……ん。まあ、これならいいかな」
「よっし、早速試着してみよう」
試着室のカーテンを開け、玲衣は中へと入っていく。
リンナも水着を持ってその中へ。
「え? なんでリンちゃんまで来てるの?」
「あ……。ご、ごめん。間違えた」
いつも玲衣と一緒だからって、ここまで一緒というわけにはいかない。
二人でいることが当然となっていたリンナは、自然にやらかしてしまった。
「変なことはしないって言ったのに……。リンちゃんのえっち」
「違くてぇ、本当に間違えただけだからぁ……」
ジト目で睨まれ、必死に弁解をするリンナ。
それよりも早く出て行くべきなのだが。
一方の玲衣は、顔を赤くして手をばたつかせるリンナに少し懐かしさを感じていた。
☆☆
「こうしてやりあうのは三度目か。今度こそ、今の実力を見せてくれると嬉しい」
「今の私は万全ですから。ヒルデさんには絶対負けませんよ」
「ふっ、言ってくれる。準備はいいか、レイ殿」
「いつでもかかって来てください。返り討ちにしてあげますから」
「では、行くぞッ」
強く砂地を蹴り、ヒルデは駆け出した。
全速力で走り、全身のバネを使って跳躍。
渾身の力で平手をボールに叩きつけた。
「速い……でもッ!」
高速回転しながら迫りくるバレーボールを、玲衣は弾き返す。
勢いを殺され、ボールは放物線を描きながらネットの前へ飛んでいく。
「リンちゃん!」
「ほいほいっと」
ボールの下に回り込むと、リンナは軽くトス。
舞い上がったボールに向けて、玲衣は猛然とダッシュをかける。
「くらえぇぇぇぇぇぇッ!」
高く跳び上がった玲衣が繰り出す、渾身のアタック。
火の玉のような勢いで猛烈に回転したボールがヒルデの顔の真横を過ぎ去り、砂浜に大穴を抉った。
相方のはずのシズクは既にコートの外に退避している。
「やった! 私達の勝ちだよ、リンちゃん」
「ん、私はほとんど見てただけだけど」
ハイタッチを交わす玲衣とリンナ。
ビーチバレー一本勝負は彼女達の勝利に終わった。
「見事だった。私達の完敗だよ」
「ヒルデさん、またやりましょうね!」
「ああ、今度は勝つ」
「私はやらない。あんなの当たったりしたら間違いなく死ぬ」
健闘を称え合う二人。
砂浜に出来あがったクレーターを見ながらシズクは震えている。
「それにしても、これ。飛んだり跳ねたりすると胸が……」
玲衣はビキニのトップが気になるようだ。
激しい運動をすると胸が大きく揺れてしまう。
今の試合も、リンナにとってはかなり眼福だった。
「これからはあんまり激しく動かないようにしよう……」
玲衣の水着はオーソドックスな上下オレンジ色のビキニ。
特に飾り気が無い分、胸の谷間が非常に強調されている。
「それがいいと思う。あんまり私のレイがいやらしい目で見られるのは嫌だし」
「リンちゃん……。えへへ、ありがと」
ぎゅっと抱きしめられたリンナが着ているのは、玲衣が選んだフリルのビキニ。
青い水玉模様のフリルが胸を覆い隠してくれるため、特に気後れしないで済む。
「ところでヒルデさん、その水着、シズクさんが選んだんですよね」
「む、そうだが。どうかしたか?」
「その割にはなんだか、普通というか……」
どんなトンデモ水着を着させられたのかと思いきや、ヒルデの水着は白いビキニトップに花柄のパレオと至って普通だ。
「当たり前。着せ替えヒルデは私だけの特権。有象無象にあの姿を見せる訳にはいかない」
「うむ、あれはな……。最後のなんてほぼ紐だった」
「ひもっ!?」
「うん、実にいい物だった。あれは脳内に焼き付けてある」
ホクホク顔のシズクはホルターネックタイプの赤いビキニ。
引き締まった体が赤色に映えている。
そして波打ち際で遊んでいる残りの二人。
シフルとルトはおそろいのワンピースタイプの子供用水着だ。
「うぇぇ……。しょっぱいよぉ。こんなに水があるなら飲みほーだいだと思ったのにぃ……」
「海の水は飲めないのですよ。水なのに飲めない、ままならぬものです」
「そうなんだ。なんで海ってしょっぱいの?」
「海は全部塩水なのです。だからしょっぱいのですよ」
「じゃあなんで塩水なの? 誰かが塩こぼしたの?」
「そ、それは……、えーっとですね……。そう、その通りなのです!」
「やったー! 当たった!」
「ところであれを見るのです。公衆の面前で熱く抱き合う二人がいるのですよ」
シフルが示す視線の先には、玲衣に抱きしめられたリンナの姿。
一見仲のいい姉妹にしか見えなさそうだが、やはり二人の間にはなにか特別な雰囲気が漂っている。
「すごく仲がいいよね、あの二人。家族でもないのに一緒に住んでるし」
「なのです。二人は恋人同士ですからね」
「恋人……。ボクまだよくわかってないんだけど、家族や友達と何が違うの?」
「むぅ、少し難しいですね。世界中の誰よりも一緒にいたいと思う、世界で一番大切な……。うーん、こればかりは感覚的なものですから」
「そっか、わかんないんだ。でも……」
——世界中の誰よりも一緒にいたいと思う、世界で一番大切な相手。
それってシフルのことだ……。
あきれ顔で玲衣とリンナを見守るシフル。
彼女の横顔を見つめながら、ルトの胸に何かが芽生え始めた。




