67 天を衝く光
世界蛇ヨルムンガンド。
黄昏の召喚師が使役したとされる、邪悪なる召喚獣。
その長大な体躯は地平線の彼方まで続き、見上げる程の巨体で全てを薙ぎ倒す。
触れるだけで死に至るとされる猛毒の血液を持ち、その返り血を浴びた者は瞬時に絶命したと伝わる。
この大蛇と暁の七英傑との死闘は諸説入り混じり、どれが実際の出来事だったのか定かではない。
全ての説に共通する出来事は、この大蛇が聖剣によって討ち取られたこと。
そして、この戦いで仲間の一人が命を落としたことだけだ。
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視界一杯に広がる規格外の巨体。
敵との距離はどのくらい離れているのか、自分の距離感がわからなくなりそうだ。
走り込んでいく玲衣とフェンリルを敵対者と認識した世界蛇は、すぐさま排除行動に移る。
バネのように体を縮めたのだろう、その巨大な顔面が遠ざかり、靄がかかったように霞む。
反動をつけたヨルムンガンドの最初の攻撃は、ただの突進。
と言っても、直径三十メートルの巨体が猛スピードで迫りくる大範囲攻撃だ。
「ちょっ! これって避けられるの!?」
正面へと走っていた玲衣は進路を90度変更。
全速力で突進の範囲外に向かうが、想像以上に世界蛇は速い。
このままでは回避は間に合わず、はね飛ばされてすり潰される。
「慌てるな、レイ! 敏捷強化!」
リンナが力を注いだのは神狼。
白い光に包まれたフェンリルは玲衣に並走する。
「背中に飛び乗れ!」
リンナの指示に従い、玲衣はフェンリルの背中に飛び乗った。
しっかりとまたがり、片手で背中を掴む。
彼女が乗った瞬間、神狼は急加速。
その速さは一筋の青い閃光としか目に映らず、世界蛇の攻撃範囲外まで一気に駆け抜ける。
「これっ……、振り落とされそっ……」
掴まっていられるのは聖剣の身体能力強化のおかげだろう。
振り落とされた瞬間、全ては終わる。
玲衣が必死にしがみ付く中、フェンリルは攻撃範囲外に抜け出した。
地面を滑りながらブレーキを掛け、体を反転させる神狼。
玲衣の眼前を高速で通り過ぎる世界蛇の巨体は、もはや紫色の壁としか認識できない。
「レイ、ここからだ。あのデカブツに飛び乗るぞ!」
「わかった! ……さっきからリンちゃんの声、どこから聞こえてるの?」
彼女はもはや遠く彼方に離れ、声など届かないはずなのだが。
「聖剣の宝玉を介して、そっちに声が届いてるみたいだな」
確かにリンナの声が聞こえるのは胸元の辺り。
暁色の光を放つペンダントからだ。
「そうなんだ。なんだか電話みたい。私とリンちゃんだけのホットライン……」
「電話? まあいいや、そんなことよりも。フェンリル!」
「アオォーン!」
神狼が遠吠えを一鳴きすると、その魔力が空中に氷の道を作り上げていく。
世界蛇の背中へと続くその道を、玲衣を乗せたフェンリルは駆け上がる。
みるみる地上は遠くなり、とうとう世界蛇の背中が見えた。
地上三十メートルの高さに到達した神狼は氷の坂の頂点から跳び出した。
玲衣は空中で背中から飛び下り、世界蛇の背中の上に着地する。
「よし、ここまで来ればもうこっちのもんだよね」
「油断するな、世界蛇の最大の武器はその猛毒の血液だ。かつて雷鎚の使い手はコイツで命を落としたらしい。返り血を一滴でも浴びたら危険なんだ」
「一滴でもって……。それじゃあどうするの?」
「そのためにそいつがいる」
玲衣の傍らに控える神狼は魔力を集中し、その時に備えている。
「そっか、この子に血を凍らせてもらえばいいんだ」
「そういうこと。それじゃあレイ、頼んだ」
「任せて、ズバッといっちゃうから」
両手でレーヴァテインを握り、玲衣は最上段に振りかぶった。
光が切っ先に集中し、剣先から長く伸びていく。
形成された光の刃は、不完全な光の剣を彷彿とさせた。
だが、そこから迸る力は従来のそれとは比較にもならない。
光の長剣となったレーヴァテインを、世界蛇の背中に思いっきり振り下ろす。
「でやあぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
光刃は世界蛇のあまりにも分厚い表皮を断ち切り、その肉を斬り裂く。
まるでクレバスのように世界蛇の背中に刻まれた巨大な傷。
その傷口から噴水のように噴き出すのは、毒々しい紫色の猛毒を秘めた血液。
「フェンリル!」
リンナの指示を受けて神狼は猛吹雪を吹き付ける。
たちまち傷口は凍結し、噴き出した血液は凍りついてパラパラと吹き散った。
「これで毒は無効化できるみたいだな」
「でもさ、これって致命傷になる? こいつのデカさを考えるとかすり傷みたいなもんじゃ……」
「その通り、いくら体を痛めつけても無駄だろうな。今のは予行練習だ。狙うは頭部、頭を潰せばいくらコイツでもくたばるはずだ」
「よし、じゃあ頭に向かおう。……ところでリンちゃん、声だけじゃなくてさ、こっちの様子見えてない?」
さっきからあまりにも指示を出すタイミングが良すぎる気がする。
音だけでこちらの状況をここまで把握することは無理なのでは?
「ん、そのことか。実は神狼の視界とリンクしてるみたいなんだ。遠くの世界蛇が見えてるのに、目の前にレイがいる。なんか不思議な感じだな」
「なるほど、つまりテレビ電話……」
「無駄話はそこまでだ! 世界蛇が体を捻りだしたぞ、振り落とすつもりだ!」
「うぇっ、ホントだ。なんか地面が回って……」
「そこ、地面じゃないから」
頭の先から順に、世界蛇は体を回し始める。
足下が回り始める中、玲衣は頭へと走りだした。
遠くから見る分にはゆっくり回っているように見えるが、実際の回転速度は凄まじい。
発生する遠心力に吹き飛ばされないように注意しつつ、丸太渡りや玉乗りのように足を動かす。
「こ、これって巨大アトラクションか何かなの!? リンちゃん、何とかならない?」
「もうやってる! レイ、こっちに飛び移れ!」
世界蛇の脇、空中高くそびえ立つ氷柱。
既に神狼はその上に逃れている。
「ナイス、リンちゃん!」
すぐさま世界蛇の背中から飛び移る。
神狼の背中にしがみ付くと、ふさふさの毛皮がもふっと出迎えた。
「この毛皮、質感といい色といい、リンちゃんのツインテみたい……」
「もっと緊張感を持ってくれ、頼むから」
「ごめんごめん。リンちゃんにまた会えて、少し浮かれちゃってるかも」
気合を入れ直し、玲衣は神狼の背中から世界蛇の頭部へと目を向ける。
フェンリルは氷柱を次々と作りだし、頭部を目指してその上を飛び渡っていく。
その途上、玲衣は奇妙なものを目にした。
世界蛇の体表を流れる、紫色の液体。
「……ねえ、リンちゃん。確か蛇って汗かかないよね」
「当たり前だろ、急にどうした」
「いや、なんか今、世界蛇が汗をかいてたような……」
見間違いだろうか、目を凝らしてよく見てみる。
やはり間違いない。
紫色の鱗の隙間から、汗のように流れ出る体液。
体の一部が収縮したかと思った次の瞬間、それは散弾のように玲衣と神狼目がけて発射された。
「飛んできた!? リンちゃん、なんかヤバそう!」
玲衣は咄嗟に光弾を生み出す。
力の加減を間違えたかのような巨大な光の玉は、小さな太陽の如く輝きを放つ。
「行けッ!」
剣先を向けた方向へ光弾は撃ち出される。
それに触れた瞬間、毒液はジュッと音を立てて蒸発する。
直線的な動きだけでは全ての毒液は無力化できない。
しかし、光弾の操作は以前にやってのけた事だ。
切っ先を振るうと弾はその通りに動き、毒液の弾幕は全て撃墜された。
「ついでに、プレゼントっ!」
用の済んだ光弾を、世界蛇に力一杯ぶつける。
ドゴォォォン!
大爆発が巻き起こり、着弾点は黒コゲになる。
光弾の直撃によって、液体を分泌していた毒腺は焼き塞がれた。
しかし、与えたダメージ自体は微々たるもの。
並の召喚獣なら跡形も無く消し飛ぶ威力だが、世界蛇にとっては体表を焦がされただけだ。
やはり頭を潰さなければ、どんな攻撃も徒労に終わる。
「毒液を飛ばすなんて……。レイ、一体どんな隠し玉があるかわかったもんじゃない。気を引き締めていこう」
「そうだね。頭はもうすぐそこだ」
世界蛇の回転運動は既に終わっている。
氷柱から再び背中に飛び乗り、玲衣とフェンリルは頭部へと向かう。
五百メートル程を全力で走り抜け、とうとう世界蛇の頭頂部に到着した。
「やっと着いた……。すっごい距離を飛んで走った気がする……」
「疲れてる場合じゃない。ここからが本番だ」
「そうだね。聖剣を脳天に突き刺して、終わりにしよう」
先ほどと同じように、両手でレーヴァテインを高く掲げ、力を集約させる。
生み出す光刃は、より太く、より鋭く、世界蛇の急所を確実に貫けるように。
光の切っ先は天まで届く勢いで伸び、その刃が貫けぬ物などもはやこの世に存在しない。
戦いを終わらせるために玲衣はその刃を振り下ろし——。
「危ない!!」
リンナの声に手を止める。
足下、世界蛇の目元から射出された紫の水流。
消防車の放水を思い起こさせる毒液の放水に、玲衣の思考が止まる。
その水流が彼女を飲み込む寸前、フェンリルの魔力が生み出した氷の壁が立ちはだかる。
毒液が彼女に届く事はなく、寸でのところで命拾いしたようだ。
「あっぶなっ! あんな攻撃があったなんて」
「先に目を潰さなきゃダメみたいだな。レイはそこで待ってろ。トドメの一撃は頼んだぞ」
ヨルムンガンドの顔面へと、フェンリルは駆け降りる。
狙うは眼球と、その脇にある毒液の噴出孔。
撃ち出される毒液を軽やかにかわしつつ、その氷の魔力を尻尾に集中させる。
空気中の水分を巻き込み、尾を包み込んでいく氷。
それは見る見る巨大に成長し、鋭い氷の剣となった。
「行け、フェンリル!」
神狼は体を回転させ、世界蛇の顔面を削りながら眼球目がけて突き進む。
鋭く斬られた傷口はその瞬間に凍結し、猛毒の血液を噴き出すことは無い。
氷刃は遂に世界蛇の眼球に至り、その巨大な瞳を真っ二つに斬り裂いた。
返す刀で噴出孔を斬り潰し、片側の眼球もすぐに同じ末路を辿る。
「よし、両目は潰した。レイ、今度こそ決めろ!」
「わかった——うわっ!?」
玲衣の足下が激しく揺れる。
両の眼を潰された世界蛇が激しく頭を振り乱し始めた。
がむしゃらに暴れ回るヨルムンガンドの頭部に玲衣はしがみ付こうとする。
「まずいよリンちゃん、これじゃあ剣を振るどころじゃ……」
「こっちも、振り落とされそうだ……!」
神狼はなんとか鼻先で踏ん張ろうとするが、遠心力に負けて弾き飛ばされる。
草原に着地したフェンリルから、荒れ狂う世界蛇は遠ざかっていく。
「これじゃあ追いつけない……。レイ、フェンリルが振り落とされた。すぐにはそっちに行けそうにない」
「こ、この状況ってかなりピンチなんじゃ……。もう、腕が持たない……」
とうとう玲衣の手が世界蛇から離れた。
そのまま彼女の体は宙を舞い、草原へと落下する。
聖剣の身体能力強化により、落ちた際の衝撃は全く問題ない。
が、問題はまさに今、彼女の目の前。
暴れ回る世界蛇の巨大な顔面が、玲衣を押し潰そうと迫り来る。
「レイ、なんとか逃げろ!」
「今からじゃ間に合わないみたい。けど、諦めた訳じゃないよ。リンちゃん、筋力強化お願い」
「……いけるのか?」
「私を信じて。絶対一緒に帰ろう」
「わかった、筋力強化!」
玲衣の体を包む赤い光。
体に漲る力を全て聖剣に注ぎ込み、玲衣は両手で構える。
光の刃がさらに太く長く伸びていく。
その太さは半径五メートル以上、長さは雲を突き抜けるほど。
彼方で見守るリンナの肉眼からも、その光の剣は目視できる。
持てる全ての力を注ぎ込んで作り上げた極大の刃を、玲衣は迫りくる世界蛇の顔面に向けて振り下ろした。
「コイツを食らええぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
天を衝く光刃が、世界蛇の規格外の巨体を両断していく。
顔面から真っ二つに断ち斬られ、削り取られ。
振り下ろされた巨大な刃によって、ヨルムンガンドのその巨躯は完全に停止した。
頭の先端から一キロ程の距離を分かたれた世界蛇の躯は、猛毒の血液と共に粒子となって消滅していく。
紫の光の粒が完全に消えてなくなると、先ほどまでの戦いが嘘のように静かな草原が戻ってくる。
唯一世界蛇の血液が流れた部分の草のみが茶色く変色し、その存在を物語っていた。
「……ふぅ」
戦いは終わった。
使役する召喚師がいなければ召喚獣は十全な力を発揮できない。
にもかかわらずの世界蛇の猛威、かつて黄昏の召喚師が使役した際は、どれほどの力だったのだろうか。
玲衣は聖剣を送り返し、ペンダントが発していた光は消えていく。
傍らにすり寄って来たフェンリルを撫でていると、愛する少女がこちらに駆け寄ってきた。
「レイーーーーーッ!!」
「リンちゃん、イエイ! やったよ!」
ブイサインを作って笑う玲衣。
その胸に、リンナは飛びこむ。
小さな体を玲衣は抱き留め、優しく抱きしめた。
「レイ、会いたかった……。沢山謝らなきゃいけないことがあるんだ。言わなきゃいけないことだって……」
「うん、それは私もだよ。でも今はしばらくこのままで、いいかな」
「ん、私もしばらくこうしていたい」
お互いの温もりを感じながら、二人の少女は抱きしめ合う。
草原を駆け抜ける風が、二人を優しく包み込んだ。




