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65 黎明

「これは……姉さん!?」


 広げた紙切れに目を通すと、リンナは驚きの声を上げる。

 そこに記されていたのは、姉からの呼び出しの言葉。


 重大な事実が判明した。

 至急フロージの町まで戻ってほしい。


 殴り書きされた文字は読み辛く、姉の字であるという確証は持てなかった。

 直接この部屋を訪れられない状態にあるのか、おそらく小型の召喚獣を使いとして寄越したのだろう。

 なんにせよ、暗闇の中に一筋の光明が差した気がした。

 彼女の中で玲衣の次に大切な人間が姉のディーナだ。

 また姉に会える、もしかしたら二度と会えないかもしれないと思ってさえいたのに。


 リンナはすぐに旅支度を始めた。

 メモの具合から察するに、かなり切羽詰まった状況だ。

 着替えの洋服、杖、宝玉と最低限の荷物だけをまとめる。

 あらゆる状況を想定して長々と荷造りする時間も惜しい。

 なによりも、リンナはこの場所にまた戻るつもりだ。

 玲衣がこの世界にいた証が色濃く残るこの部屋を手放すつもりは無い。


「レイ、行ってくる。ちゃんと帰ってくるからな」


 誰も居ない部屋に、そう言い残す。

 ここが玲衣と自分の帰るべき場所だと、何よりも自分に言い聞かせるために。

 扉を閉め、鍵をかけて、姉の待つ故郷へとリンナは歩き出す。


 夜の王都は静まり返っていた。

 深夜ともなると街灯も点いておらず、月明かりにうっすらと建物が浮かび上がる。


「祭りの準備はもう終わってるんだな。そりゃそうか、明日だもんな。いや、正確には今日か」


 立ち並ぶ商店に飾り付けられた風船や派手な立て看板。

 カラフルな色合いをしているのだろうが、こうも暗くては正確な色は判別できない。

 道の端には屋台がズラリと並ぶ。

 これも既に出来上がっており、いつでも商売を始められる。

 本来なら玲衣と一緒に回るはずだった街並み。

 こんな夜中に一人で歩く事になるとは、一日前には思いもしなかった。


「……まだ、丸一日も経ってないんだな」


 彼女が消えてからまだ半日程だ。

 にも関わらず、もう長い間離れ離れになっている気がする。

 本当に玲衣がいなくては生きていけなくなっているのかもしれない。

 懐から聖剣の宝玉を取り出す。

 ひび割れたそれは輝きを失ったまま、曇りガラスのように沈黙している。

 そっと懐に納め、リンナは歩みを進める。


 住宅街の入り組んだ路地。

 初めて王都に来た時、リンナは迷ってしまった。

 右も左もわからなくなった自分を助けてくれた玲衣。

 思えば初めて会ったあの日から、彼女には助けて貰いっぱなしだ。

 今のリンナはこの路地を迷わずに進める。

 なぜなら玲衣に手を引かれて、何度も何度も通ったから。

 やっぱり今も、彼女に助けて貰っている。


 王都東口の馬車乗り場。

 こんな時間に馬車を出す御者など誰もおらず、観光客の姿も見当たらない。

 馬も厩で眠りに就き、いななきの声も無く静まり返っている。

 昼間あちこち走りまわり、疲れ果てているのだろう。

 この場所から二人で様々な場所へと出かけた。

 B級への昇級試験、思えばあの頃から明確に恋心を抱き始めた。

 シフルに散々からかわれたのも、自覚を促した原因の一つだろう。

 フィーヤの町への温泉旅行、リングヴィへの試験の付き添い。

 家の中だけではなかった。

 王都の中を少し歩いただけでも、いくらでも玲衣との思い出が湧いてくる。


 いつも隣にいて笑ってくれていた玲衣。

 彼女の存在がどれほどの助けになっていたか、改めて思い知る。


「私、ほんとにレイが好きなんだな。好き過ぎて自分が怖いくらいだ」


 好きだ、愛してる、そんな言葉でも足りないくらいに想いは膨らむ。

 諦めたくない。

 この恋を絶対に諦めたくない。

 何度召喚に失敗しても、どれだけ時間がかかっても。

 絶対に玲衣を、この世界に呼び戻してやる。

 最後に月明かりに照らされた王城を見やると、リンナは王都に背を向け、深夜の草原を歩きはじめた。




 ☆           ☆




 ネットカフェの一室、玲衣は寝苦しさに目を覚ます。

 スマホの画面を見ると、午前四時。


「んん……、まだこんな時間……」


 起きるにはいささか早すぎるが、どうにも目が冴えてしまう。

 気だるい体をベッドから起き上がらせた。

 寝苦しさの原因はわかっている。

 一人だから、リンナが隣にいないから。

 彼女の温もりを、息遣いを感じないだけでこんなにも不安になる。


「ダメだな、私。もうリンちゃんがいないと生きてけないみたい」


 狭い個人スペースは息が詰まりそうだ。

 結局どこへ行っても玲衣の心が休まる場所は無かった。

 おそらくこの世界のどこにもそんな場所は存在しないだろう。

 リンナの隣に居ることが、彼女の全てになっていたのだから。


 延長分の料金を支払って、玲衣は店の外へと出た。

 まだ空は暗く、しかしヴァルフラントのような綺麗な星空は見えない。

 煌びやかな街のネオンの明滅に目が眩み、その場を後にする。

 夜の闇の中、行き先も決めないままに彼女はただ歩き続けた。


 そうしてどれくらいの時間が経っただろうか。

 玲衣の耳に届く川のせせらぎ。

 落ち着いて辺りを見回すと、全く見覚えのない風景。

 どうやってここまで来たのか、さっぱり覚えていない。

 もしかしたらまたあの世界に来れたのでは。

 そんな考えに、自分で呆れてしまう。

 そこらの民家に停まった自動車、張り巡らされた電線。

 どこからどう見ても、日本のありふれた住宅街だ。


 夜明けが近いのだろう、空は少し白んできている。

 川べりの土手まで足を運んだ玲衣は、草地に腰を下ろした。

 静かな川の流れをぼんやりと眺めながら、一人呟く。


「なにやってんだろ、こんな所に来ても何の意味も無いのに」


 どれほど足を動かしても、本当に辿り着きたい場所には辿り着けない。

 あの時のようにペンダントが光を放って、リンナが喚んでくれない限り。




 ☆        ☆




 地平線の向こう、空が白み始める。

 荒く舗装された道を夜通し歩き続け、リンナの疲労はピークに達しようとしていた。

 王都を出てから四時間以上経っただろうか。

 汗ばむ額を拭いながら、リンナは思い返す。

 玲衣と初めて出会ったのは、ちょうどこの辺りだ。


「この辺りで私がフレイムドラゴンに襲われて、レイを召喚したんだったよな」


 あまりに突然だった出来事、今思い出してもぞっとする。

 戦う力を持たなかった自分の前に立ちはだかった、深紅の巨竜——。


 ズウゥゥゥゥゥゥゥゥン!


 突如として響き渡る足音。

 青色の光が凝縮し、目の前に姿を現したのは最強の火竜。

 二本の太い脚で大地を踏みしめ、血のような赤の鱗に身を包んだ、S級召喚獣・ファフニール。


「なっ……」


 思わず絶句する。

 またもヘレイナの急襲か。

 しかし、火竜の足下に立つ召喚師は彼女ではない。


「貴様……、ヘイムズ!」

「やあ、また会ったね。覚えてもらえてて光栄だよ」


 薄ら笑いを浮かべ、前髪を掻き上げるヘイムズ。

 リンナは奥歯をギリリと噛み締め、睨みつける。

 忘れるものか、こいつのせいで玲衣は……。


「それにしても単純だなぁ。あんなメモに踊らされてノコノコ出てくるとは……」


 嘲笑うような口調でヒラヒラと紙切れを揺らす。

 その瞬間、リンナは悟った。

 姉の呼び出しなど存在しない、全てこの男の罠なのだと。

 普段のリンナなら疑っただろう。

 もしかしたらすぐさま見抜いて破り捨てたかもしれない。

 玲衣が消えてしまったことで、彼女は冷静さを欠いてしまった。


「くそっ、レイがいればこんな単純な手に……」

「ん? そういえばあの小娘が見当たらないが……」


 リンナが一人でいることをヘイムズは訝しげに見る。


「仲違いでもさせられればと思って精神弱化を仕込んでおいたが、効果があり過ぎたかな? ククッ」

「……レイは元の世界に帰った。もうこの世界にはいない」

「な、何ィ!? 帰っただとぉ? じゃあ聖剣の欠片はどうなったんだ、あぁ!? これでは僕が聖剣の力を手に入れられないじゃないかッ!!」

「黙れ! 全部お前のせいだ! 今すぐ殺してやる!」


 腰に差した双杖を引き抜き、片側に聖剣、片側に神狼の宝玉をはめ込む。

 祈りを込めて、リンナは杖を振りかざした。


「召喚! 来い、神狼フェンリル!!」

「ひっ、神狼!? バカな、そんな話は聞いていない!」


 三神獣の一体の名を耳にして、ヘイムズは思わず竦み上がる。

 だが——。


「……出ない? 何でっ!」


 フェンリルが召喚されることはなかった。

 リンナは困惑の渦に叩き落とされる。

 何故、聖剣の宝玉と対になるようにはめ込んだのに神狼を呼びだせない。

 ——聖剣の宝玉。

 彼女はようやく気付く。

 その宝玉は今、輝きを失い沈黙している。

 何世代もゲルスニールの家で埃を被っていた時と同じ、力を失っている状態なのだという事に。


「……何も出やしないじゃないか。僕をコケにしているのか!」


 大声で怒鳴り散らすヘイムズ。

 策が裏目に出た挙句にこの出来事、とことんまで自尊心を傷つけられた彼の怒りは頂点に達した。


「もおぉいい。聖剣の力を操れないのならもう用は無い。お前を殺せば新しく聖剣に選ばれる者が出てくるはずだ。ここで殺してやるよォ! ファフニール、行けッ!!」


 主の指示を受け、火竜はその巨躯で一歩を踏み出す。

 鋭い双眸に小さな少女を映し、その業火で灰燼に帰すために。


「死んでたまるか、こんな所で——死んでたまるか!」


 ファフニールに背を向け、リンナは走りだす。

 どこへ逃げるのか、どうやって逃げるのか、そんなのは関係ない。

 もう一度玲衣に会うまで、絶対に死ぬわけにはいかない。

 その思いだけが彼女を突き動かした。

 絶対に生きる、死んでも生き延びてやる!


 火竜はその口を開き、喉奥で火焔の圧縮を始めた。

 凝縮された炎のブレスが解き放たれた時、相対する者は残らず灰になると云う。

 後ろを振り返りながら、リンナは全速力で走る。

 出来るだけ距離を取り、その攻撃範囲から逃れる。

 それが、彼女が命を数十秒永らえさせるために出来る全て。


 チャージを終え、遂にファフニールは火球を撃ち放った。

 着弾地点から極太の火柱が立ち上り、凄まじい熱風が吹き荒れる。

 必死に走り続けた結果、リンナは一瞬で消し炭になる事はなかった。

 しかし、この熱風と衝撃に吹き飛ばされ、地面を何度も転がる。

 腕のあちこちを擦り剥き、膝からも血が流れ出す。


「絶対に……、生きるんだ……。レイに会うまで……」




 ☆     ☆




「リンちゃんが、よぶ……?」


 本当にそれだけだったか?

 あの時起きた出来事は、本当にそれだけで起こったものだったか?


「違う。あの時、私は……」


 あの時、玲衣は確かに祈った。

 ペンダントを手のひらに乗せて、自分をこの世界から連れ出して欲しい、と。

 リンナが喚ぶだけでも、玲衣が祈るだけでも駄目。

 二人の祈りが重なったからこそ、あの奇跡は起きたのだ。


「そうだ……。リンちゃんだけでも、私だけでも駄目なんだ。二人一緒じゃなきゃ……」


 首から下げたペンダントを握りしめ、玲衣は強く祈る。


 ——リンちゃんに会いたい、リンちゃんに会いたい、リンちゃんに会いたい!


「会いたいよ、リンちゃん! お願い、私を呼んで!」




 ☆  ☆




 一歩一歩ゆっくりと、確実に迫りくる火竜。

 リンナは必死に立ち上がろうとするが、足に力が入らない。


「レイ……。レイに会うまでは……」


 這いずってでも逃げる。

 地面を掴み、両の手で体を引き摺る。

 どれだけ無様でも惨めでも、絶対に生を諦めたくない。

 玲衣にもう一度会うためなら何だって出来る。


「レイ……」


 腕の力にも限界が訪れた。

 リンナは力尽き、その場に倒れる。

 もはやアリの一歩程も動けないだろう。

 それでも心だけは、絶対に折れない。


「ようやく観念したかァ!? これが僕をコケにした報いだ。踏み潰せ、ファフニール!!」


 火竜の巨体はもはや目前、万策尽きたか。

 その時、リンナの前に転がった神狼の双杖。

 その片側に収まった聖剣の宝玉が、淡い光を明滅させている。

 最後の力を振り絞って杖に手を伸ばす。

 握った瞬間、流れ込んできた玲衣の祈り。


「レイ、私に会いたがってる……? 私も、もう一度会いたい……」


 不思議と体に力が戻った。

 両の足で何とか立ち上がり、リンナはファフニールに正面から対峙する。


「私も会いたい! レイ、ここに戻って来い!!」




 ☆ ☆




 両手で握りしめたペンダントから迸る光。

 流れ込んでくるリンナの想い。


「リンちゃん……、呼んでくれてありがとう。今、そこに行くね」


 朝日が顔を出した川岸の土手。

 一人草地に座る少女を光が包み込んだ。

 激しく輝く光が消えた時、そこにいたはずの彼女の姿は無い。

 ただただ陽光が誰もいない土手の草花を照らし、朝の訪れに目を覚ました鳥が忙しなくさえずり始めた。




 ☆☆




 リンナが叫んだ瞬間、聖剣の宝玉は目も眩む程の輝きを発する。

 ヘイムズもファフニールも、こんな光を目にするのは初めてだ。

 火竜は怯み、思わずその歩みを止める。


「な、何だこの光は!? ファフニール、どうなっている!」


 あまりの眩しさに、彼も火竜も目を開けていられない。

 しかし、リンナだけは知っている。

 この光を見たことがある。

 彼女にとってのこの光は、何よりも優しい光。

 やがて輝きが治まると、火竜とリンナの間に一人の少女が立っている。

 リンナのよく見知った、誰よりも大好きで恋焦がれる少女。

 彼女は振り向き、最愛の人へと微笑みを向けた。


「聞こえたよ、リンちゃんの声」


 リンナが一番聞きたかった声、見たかった笑顔。

 思わず涙を流してしまいそうになるが、ぐっと堪える。

 彼女もきっと、リンナの笑顔がみたいから。


「私も聞こえた。会いたかったよ、レイ。……帰ってきてくれて、ありがとう」

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