64 闇夜
目の前の風景が切り替わる。
必死で送喚を食い止めようとするリンナの姿はもうどこにもない。
玲衣が今いる場所は、約二カ月前まで暮らしていたアパートの一室。
玄関の扉には新聞が山と突っ込まれている。
「そんな……。戻って来ちゃったの……?」
感情に任せて言ってしまった。
あの場から逃げ出したくて口走った言葉。
本当に帰りたい訳ではなかったのに。
深い後悔が押し寄せる。
「私、もうリンちゃんの召喚獣じゃないのかな……」
ベッドの脇に置いてあるクッション。
薄く埃を被ってしまっているそれを手に取り、全力で殴ってみる。
ポフっ、と軽い音が鳴り、埃が舞い散った。
全力で跳躍してみる。
そんなことをすれば天井を突き抜けてしまう、そう思ったが、結果は十センチほど浮き上がるだけ。
「ああ、完全に元の私だ」
元通りの加香谷玲衣。
家族も友達も居ない、孤独な少女。
この広い世界にたった一人、頼れる人など誰もいない。
「また、一人ぼっちになっちゃったんだ……」
リンナの召喚術による効果は、この世界に戻った瞬間に失われた。
幻笛による精神の弱体化も同じく。
しかし、彼女の胸の痛みは治まらない。
「リンちゃん……」
最愛の人の名を呟く。
彼女の名前を口にするだけで、心が温まる気がした。
今すぐリンナに会いたい、リンナに触れたい、この想いを伝えたい。
「……あれ?」
繰り返すが、リンナの召喚術は効果を失った。
主に好意を抱かせる効果も同様に失われている。
にも関わらず、玲衣のリンナへの気持ちは少しも変わってはいない。
「消えてない。本物だ……、本物だったんだ、私の気持ち」
どうして信じられなかったのだろう。
こんなに強く想っているのに。
「好き……。好きだよ、リンちゃん……。今すぐ会いたいよ……」
誰もいない部屋で一人、孤独な少女は涙を流す。
☆ ☆
203と書かれた扉をヒルデはノックする。
返事は無い。
もう一度ノックするが、中からは何も応答が無い。
「むぅ、留守なのだろうか」
玲衣の様子はあまりにおかしかった。
鍛錬にも身が入らず、こうして様子を見に来たのだが。
何の気なしにドアノブを回すと、簡単に扉は開いた。
「鍵がかかっていない? 不在というわけではないのか」
玄関から中を覗く。
室内には少女が一人、呆然と座り込んでいた。
虚ろな目で虚空を見つめ、微動だにしない。
「リンナ殿! どうした、何かあったのか!」
只ならぬ様子に、ヒルデは部屋へと転がりこむ。
突然の来客にも、リンナはチラリと目を向けるだけ。
「リンナ殿、何があった! レイ殿はいないのか!?」
「……レイ」
ヒルデの発したその言葉にリンナは反応を返す。
側に寄って初めて、彼女の顔の涙の跡に気付く。
「……レイ殿と何かあったのだな」
「レイが、いなくなった。もうどこにもいない。このせかいの、どこにもいないんだ」
抑揚の無い声で、リンナは言った。
その傍らに転がる杖の先、聖剣の宝玉はその光を完全に失っている。
「まさか……、そんなことが……」
にわかには信じがたい。
だが、このリンナの様子はそれが紛れも無い真実だと語っている。
「レイ……、レイ……」
うわ言のように想い人の名前を呼び続ける。
これ以上何も言ってやれない、何もしてやれない。
自分が何を言っても、慰めにもなりはしない。
「また明日、様子を見に来る。建国祭で忙しいがなんとか時間を作ってくるよ。それでは」
バタン、とドアが閉まり、再びリンナはこの部屋で一人になった。
ぼんやりと部屋の中を見回す。
壁に立て掛けられた玲衣の剣、シングルベッドに二つ並ぶ玲衣と自分の枕。
目に入るものはどれも彼女がここにいた証。
ふらりと立ち上がり、キッチンへと向かう。
二人分の食器、コップ。
玲衣がいつも使っている包丁、切れ味が悪いからそろそろ買い替えなきゃ、そう言っていた。
部屋中どこにいても、玲衣がいた痕跡と思い出ばかりだ。
鏡の前を通る。
涙の跡で酷い顔になっている。
ツインテールを縛るゴム、両サイドに輝く二つの星。
玲衣との初めてのデートで選んでもらった思い出の品。
もう堪え切れなかった。
再び流れ出した涙を止める術を、リンナは持たない。
☆ ☆
前髪を留める星の髪飾りに手を伸ばす。
一目見て気に入ったこのアクセサリー。
彼女とおそろいになってから、さらに好きになった物だ。
玲衣に残された彼女との繋がりは、もはやこれだけ。
それ以外にこの部屋に、彼女を思わせる物など一つも無い。
この部屋に一人で居る事は、孤独とは無縁の日々を過ごしていた玲衣には耐えられなかった。
少しの金が入った財布を持って、部屋の外へと出る。
この世界で、自分はどんな扱いになっているのだろうか。
アパートの階段を降りながら、玲衣は考える。
失踪届でも出されているのか。
面倒な手続きがあったら嫌だな。
そんな考えを巡らせつつも、彼女の心の大部分を占めるのはリンナへの想い。
抱くのはどうしようもない寂しさ。
「明日は建国祭、リンちゃんと一緒に回るんだよね……」
——明日になったらリンちゃんと一緒に街中に出て、一日中楽しく遊んで。
偶然出会ったシフルちゃんにリンちゃんがからかわれたり。
夜になったら夜景を眺めながら良い雰囲気になったり。
「ふふっ、きっと楽しいんだろうな。——楽しかったんだろうな……」
いつの間にか、玲衣は雑踏の中にいた。
どこを見ても人、人、人。
掃いて捨てるほど人はいるのに、その誰一人として玲衣とは全く関わりが無い。
寄り添いながら歩くカップル。
仲の良さそうな友人グループ。
子供を真ん中に挟んで歩く夫婦。
そんなものが目に入るたび、孤独感はいや増すばかり。
「なんで私、あんなこと言っちゃったんだろ。帰りたくなんてなかった……。また私を呼んでよ。リンちゃん……」
彼女は逃げるように走りだす。
何から逃げたいのか、それもわからないまま、目に付いた手近なネットカフェへと転がりこんだ。
人ごみの中に一人でいるよりも、何倍もマシだ。
適当に時間パックを指定し、料金を払って個人スペースへ。
思えば娯楽なんてものとは無縁だった。
大好きなファンタジー作品でもやれば気が紛れるだろうか。
しかし、何をやっても彼女の気が紛れることは無かった。
画面の中で、剣を振るい魔法を放つゲームの主人公。
超人的な動きで、立ちはだかる魔物を薙ぎ倒していく。
そんな光景は、彼女にとっては既に日常の一部だ。
思い出すのは向こうの世界で過ごした日々。
命の危機に晒されることも何度もあった。
それでも彼女がいたから、毎日が輝いていた。
「あはは、笑っちゃうな……。私、こんなにリンちゃんが好きなんだ……。顔を浮かべるだけで泣いちゃうくらい、好きだったんだ……」
PCのモニターを消し、ベッドに突っ伏す。
もう何をやっても駄目だ。
逃避の先は、夢の中しか残っていない。
☆ ☆
いつの間にか泣き疲れて眠ってしまっていたようだ。
部屋の中は暗闇、カーテンの閉じられていない窓からは、街の明かりが見える。
いくら悲しくても辛くても、お腹は減る。
部屋に明かりを灯すと、リンナは食糧庫を開けた。
中にギッシリと詰まった食材を見て、彼女は途方に暮れる。
ひとまず肉の塊を引っ張り出して、フライパンの上へ。
火を点けてそのままじっと待つ。
結果、片面が生肉、片面が炭化した生ごみが出来あがった。
「これはさすがに食べられないな……。いつもレイはどうやってたんだろう」
レイ。
無意識に口を付いて出た名前。
途端に胸が締め付けられる。
もう一度会いたい、会って抱きしめたい。
最後に見た彼女の顔が、あんな悲しみに満ちた顔だなんて。
「全部私のせいだ。私が伝えるのを先延ばしにしなければ、レイは……。くそっ!」
こみ上げる自分への怒りのまま、食糧庫からソーセージを引っこ抜くとそのまま齧り付く。
不味い。
なにも味が無い。
調理していないとこんなに不味いのか。
違う、それは彼女がいないから。
玲衣がいない世界なんて、なんの味もしない、なんの匂いもしない、なんの色も付いていない。
無理やり腹の中に押し込め、リンナはシングルベッドに飛び込む。
「こんなに広かったっけ、このベッド……」
まだ彼女の残り香が消えていない。
玲衣の枕に顔を埋めると、幾分か気分は安らいだ。
それからどのくらい経っただろうか。
玄関の方からカタリと音がした。
リンナはゆっくりと体を起こし、土間へと向かう。
そこに落ちていたのは一枚のメモ。
それを開き、文面に目を通すと、リンナの表情が一変した。




