その感情の名は
光が届かない地下牢の中は、一応簡素な灯りはあるものの、一日中変わることなく薄暗い。
そんな薄暗い中で、白を主体とした蓮の花は、まるで光を放っているかのようにぼんやりと浮かんで見える。
愛蘭は、その日目が醒めてからずっと、蓮の花を眺めて過ごしていた。
いつものように、眠りに逃げる気にはなれなかった。
蓮の花を眺める度。
その花弁に触れる度。
その香りを嗅ぐ度。
胸の奥の中に芽生えた感情が、さらに大きくなっていっているのが分かった。
懐かしいようで、それでいて覚えがある、温かい感情。
その感情の名を、本当は知っていた。
知っていて、気付かないように必死だった。
だけどいくら否定しても、思いはまるで天から降り注ぐ雨のように胸中に溜まって行き、愛蘭が必死に作り上げた堰を押し流そうとする。
一度堰が切れてしまえば、きっとそれは溢れてしまう。愛蘭は濁流に巻き込まれるように、その感情に押し流され、飲み込まれるのだろう。
愛蘭は、自嘲の笑みを零しながら、そっと蓮の花を胸に抱え込んだ。
それでも。それが、愛蘭が今まで創りあげて来たものを壊すだろうと分かっていても。
――今はただ、早く、蜥蜴に会いたくて仕方なかった。
「愛蘭、飯を、持って来たぞ……」
いつものように盆を片手にやってきた蜥蜴は、昨日と同じように、柵を開けて自身も牢の中に入った。
蜥蜴が躊躇いもなく牢に入ってきてくれたことに、愛蘭の口元が自然とほころぶ。
「…あと、これも、持って来た」
「これは……桶かしら?」
蜥蜴は一つ頷くと、食事の度に中身を入れ替えている水差しの残りを、桶の中に注いだ。
透明な水が、桶の中に湛えられている様子を、愛蘭は暫し黙って眺めていた。
桶にすっかり水がたまると、蜥蜴は少ししなびてしまった蓮の花を手に取り、そっと水面に浮かべた。
「……水の中の方が、長く持つから……」
蜥蜴と二人、愛蘭は桶を覗き込む。
泥沼で咲いている筈の蓮の花が、清涼な水で浮いている様は、美しいがどこかチグハグだった。
愛蘭と同じことを考えているのか、蜥蜴も何か考えるように眉間に皺を寄せた。
「……泥水を入れたほうが、良いと思うか?……」
「分からないけれど……既に根が無いのだから、あまり水の状態は関係ない気がするわ。このままに、しておきましょう」
「そうだな……」
清涼の水の上に浮かべられた蓮を見ながら、ふと思う。
蓮は、泥沼の中でも泥に染まることなく、気高く美しく咲くというが、それは逆を言えば、美しい水の中ではきちんと育たないということだ。
実際、清涼な水の中で大きく育った蓮の花を、愛蘭は今まで見たことがない。
泥沼でも美しく咲く花、ではなく、清涼な水の中では大きく咲き誇れない花……そう考えると、随分とまた蓮に対する見方が変わってくるものだ。
そんな他愛がないことを考えながら、愛蘭は運ばれてきた匙を口に運んだ。
蓮の花についての見解は、今はいい。
それよりも、今の愛蘭には大事なことがあるのだから。
愛蘭は口の中の物を咀嚼すると、隣で食事をしている蜥蜴を見やった。
蜥蜴は愛蘭の視線に気が付かずに、粥を啜り込んでいた。
(蜥蜴に、何かしてあげたい)
襲われている自分を助け、蓮の花をくれた蜥蜴に、愛蘭は何か返したかった。
昨夜からずっと、蜥蜴の為に何が出来るか、考えていた。
今、愛蘭が蜥蜴にしてあげられること。そんなことは、一つしか思いつかなかった。
「ねぇ、蜥蜴……」
「なんだ……愛蘭」
「私、やっぱり、蜥蜴という貴方の呼び方に、納得ができないの」
愛蘭の言葉に、蜥蜴は困惑したかのような表情を浮かべた。
「それは…どういう意味だ…?」
「だって、蜥蜴に似ているから、そのまま蜥蜴と呼ばれているなんて……そんなの、名前って言えないじゃない」
「だけど、俺には他に、名前なんて……」
「だから。――だから、私に、貴方の名前をつけさせて」
最初に「蜥蜴」という名前を聞いた時から、ずっと考えていた、蜥蜴の名前。
ただ蜥蜴を利用できる駒として懐柔する為だった当初とは違った気持ちで、愛蘭はその名を口にする。
「翠という名前は、どうかしら……今から、貴方をそう呼んでは、駄目?」
「スイ……」
「そうよ。みどりと書いて、翠」
金色の目を大きく開き、呆然と愛蘭がつけた名を呟く蜥蜴に、愛蘭は微笑みかけた。
「貴方の、その肌の色よ。陽に照らされて煌めく、萌える若葉と同じ色。……私が一番、好きな色。気に入らないかしら?」
鮮やかな花の色は、苦手だった。――敵だらけの世界で、戦闘服として身に纏っている、華やかで美麗な装束を思い出すから。
青い空の色も、好きではなかった。――世界は広いのに、自分はどこにも行けないことを思い知らされるから。
辛い日々の中の愛蘭の慰めは、部屋の窓から眺められる、中庭の木々の緑だけだった。
青々と茂る木々の葉だけが、ささくれ立つ愛蘭の心を静めてくれたのだ。
蜥蜴の全身を覆う鱗の色は、そんな若葉の色に良く似ていた。
「……スイ……翠……翠……翠……」
蜥蜴は愛蘭から与えられた名前を、舌で転がすように、何度も何度も繰り返した。
金色の瞳は徐々に潤みだし、やがてその目からぽろりと涙が零れ落ちた。
「翠……俺の、名前……愛蘭が、俺に名前を、つけてくれた……嬉しい……ありがとう、愛蘭」
泣きながら、笑う翠と名付けた蜥蜴を目にした瞬間、愛蘭の胸の中の堰が切れるのを感じていた。
押さえ込んでいた想いが溢れ出して、愛蘭を浸食していく。
零れ落ちる涙を、美しいと思う自分を、もう愛蘭は否定できなかった。
「泣かないで……翠」
愛蘭は涙が伝う蜥蜴の頬に、そっと口づけた。
突然の愛蘭の行動に、泣くのも忘れて固まる蜥蜴に小さく笑みを漏らしながら、その体をかき抱く。
愛蘭の目にもまた、自然と涙が流れ落ちていた。
「貴方が泣くと……私も胸が締め付けられるの」
『お前が、悲しそうだと、俺も悲しい』
そう言ってくれた蜥蜴の気持ちが、今の愛蘭には痛い程分かった。
(私は――私は、この男がとても、愛おしいのだ。醜い異形の姿を持ちながら、子どものように純粋な心を持ちつづける化け物が、愛おしくて堪らないのだ)
ただ利用するつもりだった蜥蜴のことを、気が付けばいつの間にか、どうしようもない程に愛していた。