蜥蜴の贈り物
息せき切って駆け付けた蜥蜴の姿が目に入った瞬間、男に押し倒された体勢のまま蜥蜴を見上げていた愛蘭の目から、一筋涙が零れた。
それが蜥蜴の同情を誘う為の偽りの涙だったのか、それともまた別の涙だったのか、愛蘭にすら分からなかった。
そんな愛蘭の姿を目に留めた蜥蜴は、その金色の目を大きく開いて、獣のように咆哮すると、牢屋の中に押し入って男に飛び掛かった。
決着は、すぐについた。
蜥蜴はまるで幼い子どもを相手にしたかのように簡単に、男二人を弾き飛ばし、気絶させてしまった。
「愛蘭……大丈夫、だったか⁉ 痛い思いは、していないか!!」
(やっぱり、こいつは化け物だ)
一瞬にして大の男二人を倒した蜥蜴の強靭な力を目のあたりにし、愛蘭は改めてその事実を実感する。
子どものような思考の、愚かで単純な男に見えるが、その実態はやはり人外の化け物なのだ。
油断しては、いけない。変に心を許してはいけない。
そう思うのに
「蜥蜴…っ‼」
警告する心とは裏腹に、愛蘭の体は勝手に蜥蜴の体にしがみついていた。
「愛蘭…」
初めて触れた蜥蜴の体は、爬虫類のそれように冷たくて固く、やはり人間とは違っていた。
しかし、その熱が伝わらない体が、今の愛蘭にはたまらなく心地よかった。
蜥蜴を抱きしめた途端、愛蘭の体は震えだし、目からは勝手に涙が零れ落ちた。
諦めて、いた。
期待なんか、していなかった。
だけど、本当は怖かった。――怖くて、怖くて、仕方なかった…!!
「愛蘭……もう、大丈夫だ……だから、泣きやんで、くれ」
暫くはどうすればいいのか分からないように固まっていた蜥蜴だったが、やがてその手は躊躇いがちに愛蘭の背中に回された。
背中に感じる蜥蜴の手は大きく、そして、震えていた。
まるで、愛蘭に触れて拒絶されることを、恐れているかのように。
そのことが、愛蘭には苦しくて堪らなくて、胸が一層締め付けられて仕方なくて、愛蘭は蜥蜴の胸に顔を擦りすけるようにして咽び泣いたのだった。
「愛蘭……すまなかった…」
気絶した男達をそのまま運びだし、今日の食事の盆と何か包みのようなものを手に再び現れた蜥蜴は、少し迷った後、自分もまた牢の中に入って腰を降ろしながら、愛蘭に頭を下げた。
「用事があって、外に出ていたのだが……鍵を、他の看守から取られていたことに、気付かなかった……そのせいで、お前に、怖い目に遭わせた」
「いいのよ。蜥蜴。……こうやって、ちゃんと私を助けに来てくれたのだから」
微笑と共にそう口にしてから、動揺のあまりいつのまにか敬称が抜けてしまっていたことに気が付き、愛蘭は口元に手を当てた。
「ごめんなさい……呼び捨てにして、いたわね」
ついつい取り繕うことを忘れていた自分に焦りを感じたが、蜥蜴はそんな愛蘭の言葉に、目を細めて首を横に振った。
「構わない。……寧ろ、呼び捨ての方が、嬉しい。……お前と、近い、気がする」
(呼び捨てにされた方が嬉しいって……呼び捨てだと、増々動物の蜥蜴と区別がつかなくなるだろうに)
湧き上がる苦々しい感情を一緒に飲み込むように、愛蘭は今日の分の汁物を一口すすり込んだ。
「……分かったわ。貴方がそれでいいと言うなら。それで、蜥蜴。貴方は今までどこに行っていたの?」
蜥蜴もまた、愛蘭の隣…柵越しではない、本当にすぐ隣で…汁物をすすりながら、空いている方の手を包みに伸ばした。
「愛蘭に、あげたいものがあって……俺は、日に二度の食事の時間以外は、勝手に外にでられないから……この時間しか、取りにいけなくて」
「私に、あげたいもの?」
「そうだ……この場所は、あまりに、色がないから」
一口で空にした椀をお盆に戻した蜥蜴は、包みを両手で開いた。
中身が潰れないように、緩く結ばれたその中に入っていた物は。
「――蓮の、花」
満開に花開く、一輪の蓮の花だった。
「少し離れた所の沼に、咲いていて……あまりに綺麗だから、愛蘭にも見せてやりたくて……」
縁が桃色で彩られている、白い蓮の花。
それは、妹が一番好んだ色の花だった。
夢の中に現れた過去の妹が、愛蘭のようだと称した花と、目の前のそれは良く似ていた。
「これを、貴方が……」
「ああ……一番、綺麗だったから。沼の中央にあったから、沼に入らないと取れなくて……着替えていたら、よけい遅くなってしまった……」
よく見れば、蜥蜴の体のあちこちには、乾いた泥がこびりついた痕があった。
頬や額にまで、跳んでいる。きっと蜥蜴は、愛蘭を喜ばせたい一心で、沼に入ってくれたのだろう。
愛蘭は、そんな蜥蜴の献身に、どうやって応えればいいのか分からなかった。
「………」
「……どうした。愛蘭? ……嫌いな花、だったか?」
黙り込む愛蘭の顔を、蜥蜴は心配そうに覗き込んだ。
蓮の花。――かつての自分の名前を持つ花。
好きか嫌いかといえば、嫌いな花だ。
商人に高く売れるようにと、そんな意味しか籠められていない、かつての名前。
養父の洪然は、蓮の花を低い身分を表す花だとして嫌った。
花を見る度に、惨めな貧農の娘でしかなかった過去の自分を思いだして嫌だった。
だけど。
『白ともも色が、とてもきれいです……まるで、姉さまみたいで』
夢の中の、妹の言葉が蘇る。
何の含みもなく、ただ憧憬だけを込めて告げられた、あの言葉を。
「……蜥蜴、は?」
「……ん?……」
「蜥蜴は、蓮の花が、好きなの?」
両手で蓮の花を掬いとるようにして持ち上げながら、蜥蜴の方を見上げた。
綺麗だと思って持って来たのだから、嫌いな筈がないとは分かっていた。
それでも、どうしても尋ねずにはいられなかった。
「そう、だな……」
蜥蜴はどこか困ったように顔を歪ませながら、蓮の花を見下ろしながら頷いた。
「一番、好きな花だ……蓮は、汚い泥の中でも、美しく気高く、咲く……だから、醜い俺が触れても、許されるような、気がするんだ……俺の醜さですら、この花の美しさを、損ねることはないと……そんな勝手なことを、思ってしまう」
「蜥蜴……」
「愛蘭……お前は、蓮に似ている。……醜い俺を受け入れてくれる、お前は……そう言ったら、嫌か?」
先ほど愛蘭の背に回された蜥蜴の手は、震えていた。
愛蘭はそれを、単純に愛蘭の拒絶を恐れているが故だと思った。
だけど、違ったのだ。
蜥蜴はあの時、自身の醜さで、愛蘭の美しさを穢してしまうことに脅えていたのだ。
――なんて、馬鹿な男なのだろう。
(蜥蜴……お前は、分かっていない。私のことを、何も分かっていない)
愛蘭は、触れれば穢れてしまうような、そんな綺麗な存在ではない。
自分の利益の為なら、他人を利用し、殺害だって厭わない女だ。
外側は確かに、蜥蜴よりずっと美しいだろう。
だけど、その性根は、その心は、誰よりも醜く歪んだ女だというのに。
(触れて穢れるとしたら……それはきっとお前の方だよ。私を穢したくないと脅えるお前の方だ)
愛蘭は、そっと蓮の花に口づけた。
もし、この口づけが、花を穢すことになったとしても、愛蘭は何も感じない。優しく馬鹿な蜥蜴のように、花に申し訳ないなんて思わない。
「――ありがとう。蜥蜴。嬉しいわ……私も蓮の花が、一番好きなの」
かつて妹に向けたものと同じ言葉が、自然と愛蘭の口から滑り落ちた。
一番好きだなんて、本当は思っていない。――あの時も、今も。
「……そうか。……なら、良かった」
『姉さまに喜んで頂けて、嬉しいです』
蜥蜴の言葉と、過去の妹の言葉が重なって聞こえた気がした。
だけど、それでも、そうやって笑って欲しかったから。
愛蘭を喜ばせたいと思ってくれた気持ちが、ただ嬉しかったから。
愛蘭は、嘘をつく。……自分を蓮の花のようだと言ってくれた、その優しさに報いる為に。
花を穢すことになんて、罪悪感は抱かない。
――けれど、優しい蜥蜴に対しても同じことが言えるのだろうか。
今の愛蘭には、もう分からなかった。




