救いをくれる人
日に日に、蜥蜴の心が自分に傾いていくのが分かる。
それは愛蘭にとっては計画通りの結果で、喜ぶべき事態だった。それなのに、愛蘭は蜥蜴の好意を感じれば感じる程、苦い感情が胸の内に広がって大きくなっていくのを感じざるを得なかった。
本当ならば、今頃は徐々に王族に対する不信を蜥蜴に植え付けて、愛蘭の脱獄を手伝わせるように仕向ける筈だった。今の蜥蜴ならば、きっと永年仕えた王族の言葉より、愛蘭の言葉を信じるだろうから。
時間は無限ではない。――愛蘭が、処刑される日まで、悠長に構える時間なんてないのだ。
死にたくないのならば、一刻も早く動かなければならない。
そう分かっている筈なのに、愛蘭は何故か蜥蜴を前にすると、ただ彼に都合が良い言葉を取り繕うこと以上のことができなくなっていた。湧き上がる感情を必死に押さえ込んで、聖女のような仮面を被り、偽善に満ちた甘い言葉を返すだけが精一杯だった。
少しでも気を抜いてしまうと、全てをぶちまけてしまいそうで。
全てをぶちまけたうえで、気付きたくない感情も、認めたくない、認めてはいけない感情を晒してしまいそうで。
まるで色つきのガラス玉のように、透明感を持ってきらきらと光る、蜥蜴の金色の瞳が向けられる度に、愛蘭の心は醜さに対する嫌悪感とは違う感情でざわめいた。
(醜い、癖に……醜い、誰からも愛されない、化け物の癖に……!!)
必死に自分にそう言い聞かせることで、愛蘭は湧き上がる感情を否定した。
子どものように、純粋な光を宿すその瞳を、美しいと思ってしまう自分がいることなんて。
愛蘭にとって蜥蜴は、自分の脱獄に都合が良い、醜く頭が悪い化け物でなくてはいけなかったのだ。
愛蘭は、思考から逃避するように、食事の時間以外は眠って過ごすことが多くなった。
夢の中では、蜥蜴のことも、差し迫る死に対する恐怖のことも。考えずに済んだ。
――その代わり、見る夢はいつも、かつての家族と過ごした日の夢だったけれども。
それでも、夢の中で過去の自分になっていて現在の諸問題を考えずに済む分、起きている時よりはまだ楽だった。
起きた時は、どうしようもないせつなさに襲われて、泣きたくなるけれど、どうせそれは起きていたとしても一緒だ。蜥蜴といるだけで愛蘭は、家族のことをどうしたって思い出してしまうのだから。
『――蓮姉さま。花を見に行きませんか。蓮姉様と同じ名の蓮の花を。今、沼ではちょうど見ごろと聞きました』
その日、見た夢は、妹と一緒に蓮の花を見に行った時の記憶だった。
農作業をこっそり途中で抜け出して、妹と二人手を繋ぎながら、村の外れの沼に向かった。
万が一にも沼に落ちたりしないように、ぽつりぽつりと沼の上で花開く蓮を少し離れた位置から遠目で見ながら、妹は頬を染めて微笑んだ。
『白ともも色が、とてもきれいです……まるで、姉さまみたいで』
そう言って、蓮を見る時と同じ、憧憬が篭った純粋な瞳を向けてきた妹に、愛蘭は一体何と言ったのだったろうか。
夢の中の過去の自分が口を開く前に、愛蘭の意識は浮上し、目を醒ましてしまった。
(……今は、一体何時だろう)
時計は勿論、差し込む光さえない暗い牢獄の中では、時間感覚はすっかり狂う。愛蘭が時間を知る手段は、日に二度と蜥蜴の訪れだけだった。
一体、どれほど眠っていたのだろうか。……蜥蜴は一体、あとどれくらいでここに訪れるのだろうか。
そう思った途端、牢獄へと続く扉が開いた。
どうやら、ちょうどいい時間に目を醒ましたらしい。ほっと息を吐いた愛蘭だったが、その足音が一つではないことに気が付き、全身から血の気が引くのを感じた。
(……まさか、もう処刑の日が…っ)
通常の場合、愛蘭のような高位貴族の…少なくとも、そう思われている限りは…処刑が行われるには、まだもう暫く猶予がある筈だ。
けれど、あくまでそれは通例。例外は、いくらでもありうる。
(どうして…どうして私はもっと早く、蜥蜴に脱獄の手助けを請わなかったんだ……)
今更後悔で打ち震えても、時は既に遅い。
今の愛蘭が出来るのは、ただ死刑執行人がやって来るのを待つことだけだ。
愛蘭は、唇を噛んで俯きながら、死刑宣告が突きつけられる覚悟をした。
だが。
「――おお!! 噂通り、すげぇ別嬪じゃねぇか!!」
「だろ? あの化け物に一人占めさせるのは、勿体ねぇや」
頭上から降りかかった下卑た言葉に、愛蘭は瞠目した。
顔を上げた愛蘭の柵の前に立っていたのは、にやけた表情の二人の男。
愛蘭の処刑の執行が決定したなら、きっと嬉々として訪れただろう皇太子の姿は無かった。
「貴方、達は……」
「おう、綺麗なお嬢ちゃんは、声までお綺麗だな!! きっと、啼いた声もさぞかしいいんだろうな。こいつぁ楽しみだ」
「全く、皇太子様と来たら、直前になって看守の役割を蜥蜴野郎に一任するとか言いだすんだもんな……いつも通り、俺達に任せてくれたら、今頃嬢ちゃんを好き放題出来たのによ」
「まぁ、でもこうしてあの化け物がいない隙に、ちゃんとお嬢ちゃんに会いに来れたんだから、いいだろう?」
「まぁ、な。いつもよりも、随分と遅いお楽しみになっちまったがな」
どうやら、この男達の目的は処刑の執行ではないらしい。
その事実に安堵する反面、すぐにまた別の恐怖が愛蘭を襲った。
(この男達は、私を犯す気だ)
噂で聞いたことはあった。牢獄の看守は、処刑が決定している女の罪人を性的に暴行することが暗黙の上で許されている、と。そうやって、罪人の尊厳を貶めることも、罰の一つとして。
真偽は分からない、ただの噂。それでも男達の獣欲に濁った目が、何よりもその噂が真実であることを証明していた。
愛蘭の背中に、冷たい汗が伝い、自然に体は震えた。
性的な経験が、皆無というわけではない。皇太子を誘惑する術の一つとして、洪然は愛蘭に閨房術を取得させたし、実際後宮でそれを利用する場面もあった。
それでも、王の正妃になるにあたって処女であることが求められる為、最後の一線は超えたことはなかったのだ。
「脅えてんのか?……そうか、王妃様候補だったから、初めてなのか。可愛いねぁ」
「恨むなら、罪を犯した自分自身を恨むんだな。嬢ちゃん。……こんな綺麗な顔をして、恋敵を毒殺した大罪人だもんなぁ。へっ、女は見た目じゃ分からないから、怖ぇねぇ」
震えながら、動けずにいる愛蘭の姿を嘲笑いながら、男達は鍵を開けて、柵の中に入ってきた。
咄嗟に鍵が開けられた柵を手で掴み、逃走を試みるが、所詮は非力な女の身。
外に出る前に、男に取り押さえられてしまった。
「逃げ出そうなんて、馬鹿なことを考えなさんな。お嬢ちゃん。……よしんば俺達から逃げられたとしても、牢獄を出たら俺達よりずっと偉くて強ぇ兵士様がいっぱいいんだ。刀一つ碌に持ったことがねぇお嬢ちゃんじゃ、どうしようもねぇよ」
「そうさな。どこにも逃げられやしねぇよ。大人しくしてたら、ちゃんと天国見せてやっから、無駄な抵抗はやめておけよ」
(どこにも、逃げられない)
男の言葉に、愛蘭は目の前が真っ暗になるのを感じた。
――そうだ、こんな状況で、どこにも逃げられる筈がない。
ならば、そのまま黙って身を任せた方が、楽だ。
黙って身を任せて、全てが終わるのを待った方が、きっと。
「……素直なのは、いいことだな。お嬢ちゃん」
すぐに抵抗をやめて、力を抜いた愛蘭に、男は満足気に口元を歪めた。
愛蘭はそんな男を視界に映したくなくて、固く目を瞑って視線を背けた。
「約束だ……ちゃんと天国にイカせてやるよ」
助けが来るなんて、期待はしなかった。
だって今までずっと、助けて欲しいと切望した時に、誰かが救い出してくれることなんか、なかったから。
両親から、端金で人買いに売りとばされた時も。
粗相をしでかして、洪然に骨にひびが入る程の激しい折檻を受けた時も。
愛蘭を敵視する、他の皇太子妃候補たちから嫌がらせを受けた時も。
誰も、助けてはくれなかった。
誰も助けてくれないまま、いつだって愛蘭は、一人で耐えて、一人で乗り越えて来た。
今回だって、きっとそうだ。
縋る相手なんて、誰もいないのだから。
期待なんか、していなかったのに。
「――愛蘭‼」
(それなのに、どうしてお前は、今ここに現れてくれるんだ――蜥蜴)