変わっていく心
牢獄での暮らしは、一日二食、蜥蜴が食事を運びに来て話をする時間を除けば、他に何もすることはない。
自然と愛蘭は、思想に耽ることが多くなっていった。
思い出すのは過去の記億。
不思議なことに、思い出すのは愛蘭の人生の大部分を占める辛く悲しい記憶ではなく、まだ愛蘭が蓮だった頃の、ごく僅かな幸福な記憶ばかりだった。
(……そういえば、私に物語を教えてくれたのは、まだ嫁ぐ前の姉様だった。私が話す物語を覚えて、お前も弟や妹に話してやってくれと、そう言って姉様は私の頭を撫でてくれた。私に微笑みかけてくれた)
(体調を崩して伏せっていた時に、二番目の兄様がよその庭から、こっそり果物を盗んで着てくれたことがあった……まだ熟していなくて、青臭かったけど、すごく美味しかった。私のことを、心配してくれる兄弟がいたことが、嬉しくて仕方なかった)
(母様はいつも私をあまり視界に入れないようにしていたけど、私が売られる前の夜だけは、私を抱きしめてくれたっけ。すまないと、何度も私に謝って泣きながら、一晩私を抱きしめながら眠ってくれた)
(物心ついた時から、父様は私の名前を呼ぶことは少なかったけど、あの日だけは私の名前を呼んでくれた。私を、ちゃんと「蓮」と呼んでくれたんだ)
そして、家族の誰よりも思い出すのは、やはり妹のことで。
家族でただ一人、何も知らずに愛蘭を慕ってくれた、幼いあの娘のことで。
『れんねえさま。れんねえさま』
服の端を掴む、紅葉のような小さな手。
慕う感情を隠すこともせずに、真っ直ぐ向けられるつぶらな黒い瞳。
愛蘭を呼ぶ、鈴を転がしたような舌足らずな声。
忘れた筈の妹の記憶の一つ一つが、記憶の扉から出てくるたび、愛蘭の胸は強く締め付けられた。
忘れた筈だった。
忘れたままで、いたかった。
どうせ、もう二度と会えないのだから。
思い出したところで、今の状況は何も変わらず、ただ喪失感に苦しめられるだけだから。
だから、愛蘭は記憶に鍵を掛けて、心の奥底に封印していた。妹を、家族のことを思い出さないようにしていた。
そうしなければ、利害関係しかない繋がりの中では、生きていけなかった。
それなのに。
それなのに、どうして。今になって。
(――全部、こいつのせいだ。この醜い蜥蜴が悪いのだ)
「どうした? 愛蘭。……飯、足りなかった、か?」
「……いえ、何でもないわ」
愛蘭は自分の視線に気が付いて、的外れな言葉を返す蜥蜴に首を横に振った。
危ない所だった。つい感情のままに、蜥蜴を睨んでしまうだった。
そんなことをすれば、必死に蜥蜴の機嫌を取ってきた今までの日々が一瞬にして無駄になってしまう。
愛蘭は誤魔化すように、慌てて夕食の残りを口に運んだ。
そんな愛蘭の様子に、蜥蜴は安心したような笑みを浮かべる。
「なら、良かった……愛蘭。この肉、美味いぞ……もう少し、欲しいなら、俺の分をやる」
「……大丈夫よ。私にはこれで十分だわ。ただでさえ、貴方の分の食事を分けて貰っているのに、これ以上なんてもらえないわ」
「遠慮、するな……ほら」
蜥蜴は、残り一つになっていた肉料理をつまむと、そのまま柵の間に手を差し込んで、愛蘭の皿の上に乗せた。
「いっぱい食って、元気だせ。愛蘭……お前が、悲しそうだと、俺も悲しい」
(……一体、誰のせいで私が落ち込んでいると思っているんだ)
思わず、感情のままに大声で怒鳴って、喚き散らしたくなった。
お前のせいだと、蜥蜴のせいで自分は苦しいのだと、叫びたかった。
全部全部。蜥蜴が悪い。蜥蜴の、せいだ。
(――お前が、あの娘に似ているから……)
蜥蜴と、妹は似ている。
勿論、その容貌がと言う意味ではない。妹は愛蘭よりは数段落ちる地味な容姿をしていたが、それでも醜い蜥蜴とは比べ物にならないくらい愛らしかった。
似ているのは、そのあり方だ。純粋で真っ直ぐに愛蘭を慕う姿だ。思慕を隠さない、その目だ。
蜥蜴が愛蘭に対する好意を露わにする度、愛蘭はその姿にかつての妹が重なるようになっていた。
愛蘭にはなぜ、蜥蜴がそんな風にいられるのか、理解できなかった。
妹は、愛蘭と別れた時はまだ8歳だった。幼い故に、辛く苦しい現実を知らなかったからこそ、ああも純粋無垢であったのだと愛蘭は思っている。
だけど、蜥蜴は既に何百年も生きている。そして、その境遇は愛蘭以上に、辛く苦しいものであった筈だ。だって彼は、異形の化け物なのだから。
それなのに、何故この男は、子どものように純粋で真っ直ぐに、人を慕うことができるのだろう。何故、歪むことなく、無垢なままであり続けることができるのだろう。
彼が感情を向ける先の女は、自分の脱獄の為に蜥蜴を誑かそうと自身を偽り続けている、酷い女だというのに。
「愛蘭……俺は、お前といると、心が、あたたかい」
蜥蜴は、その金色の瞳を細めながら、幸福を噛みしめるようにそう口にした。
「こんな気持ち、初めてだ……」
(こんな簡単に堕ちるなんて……随分安いんだな。お前の心は)
蜥蜴の呟きに、胸中で冷ややかで馬鹿にしたような言葉を返しながら、愛蘭は何だか泣きそうになった。
思わず零れそうになった涙の理由を、愛蘭は知らない。
今までのように生きるのならば、けしてその理由を理解してはいけない気がした。