愚鈍な蜥蜴
でたらめを言うな、とそう跳ねのけられる可能性も、あった。
今まで自分が醜いと思い続けた人間が、初めて合った相手から突然その価値観を否定されたところで普通は信じないだろう。もし愛蘭が蜥蜴の立場ならば、信じない。
劣等感というものは、心の奥深くまで根をはって泥ついた状態で絡みつき、人の心を歪ませる。一度心が歪んでしまえば、突然予想外に与えられて救いの言葉を、簡単に受け入れられるものではない。そんな都合が良い言葉、何か裏があると思ってしかるべきだろう。
お前に何が分かると、お前に分かって堪るかと、蜥蜴が激情を露わにしたら、どう返すべきかと、愛蘭は頭の中で必死に考えていた。
だけど、蜥蜴はその容貌だけではなく、その中身までも普通ではなかった。
「俺が、醜くない、なんて……そんなこと、言ってくれたのは、お前が、初めてだ……」
そう言って、男はただ感極まったように金色の瞳を潤ませたのだった。
愛蘭の言葉を、何一つ疑うこともなく。
――なんて、たわいがない。
なんて、頭が足りないのだ。この男は……‼
(ああ、確かにこいつは蜥蜴だ。この男を称するのに、蜥蜴以上に相応しい例えはない)
蛇というには、あまりに狡猾さが足りなくて。
鰐に喩える程、獰猛ではなく。
蛙にしては、滑稽さに欠ける。
地を這う蜥蜴のようにどこか愚鈍で、醜悪な男。愛蘭の口元に自然と笑みが浮かんだ。
この男なら、大丈夫だ。
この男ならば、さして労せずとも、簡単に籠絡できる。
「お前、名前、は……」
「私の名前は、愛蘭よ。情愛の愛に、蘭の花で、愛蘭というの」
「あい、らん……愛蘭」
「貴方の名前は?」
愛蘭、愛蘭と聞かされた名前を舌に馴染ませるように何度も口にして男だったが、愛蘭が名前を聞いた瞬間どこか落ち込んだように項垂れた。
「……ただ、蜥蜴と、そう呼ばれている……」
「それは名前ではないでしょう?……もしかして、貴方は名前がないの?」
「蜥蜴で、分かるから、必要がなかった……お前も、そう呼べば、いい」
名前がないなんて、あんまりな話だと思う反面、確かに蜥蜴という呼称があれば十分かとも思う。
他に男と同じような醜い容貌の存在なんて、いる筈がないのだから、困ることなぞないのだから。
「……分かったわ。蜥蜴さん。短い間だけれども、これから宜しくお願いね」
一瞬、名前をつけてやると提案しようと思ったが、やめた。
一度に感動を与え過ぎるよりも、少し時間を置いてからの方がより確実に蜥蜴の心に響かせられる。今日は、もうこれで十分だ。名前の贈り物は、もう少し効果的な機会で使うべきだ。
通常の慣例に照らし合わせれば、恐らく皇太子が愛蘭の処刑を実行するまでは、一か月程は猶予がある筈だ。……まだ時間はある。焦ってはいけない。
愛蘭は蜥蜴に微笑みかけながら、脳内で蜥蜴を落とす為の計画を練っていった。
蜥蜴を籠絡するのは、ひどく簡単だった。
「――愛蘭。夕飯を、持ってきたぞ……この時間が、待ち遠しくて、溜まらなかった……」
蜥蜴はその醜い顔を、一生醜くくしゃくしゃに歪ませて笑いながら、愛蘭に夕飯の盆を差し出した。そのもう片方の手には、また別の盆が握られている。
「ありがとう。蜥蜴さん……その、お盆は?」
「愛蘭と、一緒に食べたくて、俺の夕飯も、持ってきた」
その盆の上に乗っている食事に愛蘭は思わず苦笑いを漏らした。
蜥蜴のお盆の上の料理には、所々箸で削ったような箇所があり、その削られたものが、愛蘭の皿の上に加えられていた。
稗と粟だけの食事に、野菜切れが浮いただけの汁物。それが翌日から、大分マシなものに変わったと思ったら、それは蜥蜴が自分の食事を分け与えてくれた結果だったらしい。……また、随分と懐かれたものだ。
愛蘭は魚の塩焼きを箸で口に運びながら、蜥蜴が食べる食事が人間と同じようなものであったことに感謝した。……善意でも、生きた虫などを食事に加えられるのはごめんだ。
そんな愛蘭の様子を満足げに眺めながら、存外器用な手つきで、自分の分の食事を箸で突きだした。
「誰かと、食べる飯は、美味しいな……」
「今までは、ずっと一人で食べていたの?」
「醜い俺と、飯を食べたい奴は、いない……専用の食事場に行けないから、俺だけ一人、いつも部屋で、食べている」
蜥蜴は、その醜い容貌が故に、孤独だった。
孤独なまま王族に仕え続け、ただ一人で何百年も生きていた。
……だからこそ、愛蘭がそこに付け込むのは容易かった。
「蜥蜴さん……食べ終わったらまた、昨日のお話の続きをしてあげるわ。魔女に呪いで獣に変えられた王子様の話を」
蜥蜴は会話に飢えていた。人に飢えていた。触れ合いに飢えていた。
優しい言葉も、普通の人生を送ったものならば誰でも知っているようなお伽噺も、何も知らなかった。
愛蘭は、ただそれを蜥蜴に与えるだけで、良かったのだ。
「――そして、真実の愛を知った王子様は、元の人間の姿に戻り、お姫様といつまでもいつまでも幸せになりました。めでたし、めでたし」
愛蘭の口から語られる有名なお伽噺を、まるで子供のように熱心に聞き入っていた蜥蜴は、物語の結末にほうっと、息を吐いた。
「幸せに、なったのか……良かった……」
そう言って、蜥蜴はどこか淋しげに目を伏せた。
「俺、も……このまま、王族に、仕え続ければ……呪いが解けて、幸せに、なれるのだろうか……」
思いがけない蜥蜴の言葉に、愛蘭は目を丸くした。
「貴方のその姿は、呪いによるものなの……?」
「最初に、仕えた王は、そう言っていた……そして、王族に献身し続ければ、いつか呪いは解けて、元の姿に、戻る、だろうと」
「貴方のご家族は……」
「いるのかも、わからない……記憶が、ないから。……俺の最初の記憶は、最初の王と対峙した時、からだ……その時には、既にこの姿で、何百年もずっと、この姿のままだ……」
(……それって、最初の王に騙されているのでは?)
蜥蜴は微塵も疑っていないようだが、愛蘭には蜥蜴の話がどうも胡散臭く思えて仕方なかった。
「いつか」「王族に献身し続ける」……そんな曖昧な解呪の方法があるとは思えない。現に、蜥蜴は何百年も王族に仕え続けながらも、呪いなんか微塵も解けていないではないか。
そもそも、もし蜥蜴のその姿が本当に呪いによるものだとしたら、呪いを掛けたのはきっと王族だ。特別な力を持つ異形な化け物を、王家に都合が良いように使役する為に。
何故何百年も生きていながら、そんなことにも気が付かないのか。
「――そうね。蜥蜴さん。貴方はとても優しい人だから、呪いが解けたらきっと幸せになれると思うわ。今までの不幸な分、きっと誰よりも大きな幸せが待っている筈よ」
それでも愛蘭は、そんな内心の言葉をそっと飲み込んだ。
蜥蜴が王族に、一体どれほど傾倒しているか、今の段階ではまだ判断がつかない。王族の言葉と、愛蘭の言葉、天秤にかけた時にどちらに大きく傾くかも。
愛蘭にとってはどれ程胡散臭くても、蜥蜴にとっては何百年も主として仰ぎつづけた存在だ。愛蘭が王族を批判すれば、蜥蜴の愛蘭に対する心象が悪くなってしまうかもしれない。
蜥蜴に王族への不審を植え付けるのは、もう少し処刑の日が近づいてからにしよう。
「だと、いいな……愛蘭。また、別の話を、教えてくれるか? もう少し、お前の話を、聞きたい」
「わかったわ……次はどんな話がいいかしら……」
蜥蜴にせがまれるままに、また新たな物語を語りながら、ふと既視感に襲われた。
そういえば昔も、こんな風に物語を語り聞かせてやったことがあった。
『ねえさま、れんねえさま……また、おはなしを、きかせてください』
脳裏に蘇る、鈴を鳴らしたような幼い声。
そうだ、あれは妹にだった。
二歳下の妹にせがまれて、幼い愛蘭は、よく同じように物語を語り聞かせてやっていた。
(何故、今更になってあのこのことを思い出すのだろう……七年間、碌に思い出すこともなかったのに)
「どうした、愛蘭……疲れた、か?」
「いいえ、なんでもないわ……」
愛蘭は、思い出した懐かしい記憶を振り払って、再び語りかけの物語に意識を戻した。