異形の看守
噂には聞いたことがあった。
何代もの間、死ぬことも老いることもせずに王家に仕え続ける、呪われた異形の男の話を。
ぞっとする程醜い蜥蜴のような顔の、人間ではけして太刀打ちできない強靭な力を持つ化け物を、王族が密かに飼い慣らし従えているという噂は、身分の貴賤を問わずに、様々な階層の人々の間でまことしやかに囁かれていた。
だが、愛蘭はその噂を信じてはなかった。王妃候補になって実際に後宮に出入りするようになってもなお、そんな化け物の姿を目の当たりにすることはなかったから。
噂はあくまで、噂。きっと、それは王家の威光を広める為に広められた作り話だ。仮に、本当だとしても、それは現実よりも過分に誇張されているのだろうと、そう思っていた。
それなのに……まさか、そんな化け物が、本当に存在していたなんて。
(なんて、恐ろしく、醜い姿をしているんだ……この化け物は)
愛蘭はかたかたと体を震わせながら、口元を手で覆った。
異形の男は、醜かった。噂で想像していたよりも、ずっと。
男の顔は、単純に蜥蜴を大きくしたものではなかった。……もし、そうであったならば愛蘭はこれほどまでに男の顔に対して、嫌悪を抱かなかったかもしれない。男の顔を完全に蜥蜴そのものならば、そういう生き物なのだと割り切ることが出来ただろうから。
男の特徴的な目鼻立ちと、鱗で覆われた肌は、蜥蜴のそれというよりも、寧ろ爬虫類に共通した特徴といって良かった。蜥蜴男という渾名を聞いていたから、愛蘭は男を見て真っ先に蜥蜴を連想したが、もし蛇や、鰐、蛙などに称されたとしても、それはそれで愛蘭は納得しただろう。
その目鼻や肌を除いては、男はすっかり人間に近い形態をしていた。
男にはちゃんと耳もあれば、唇もある。眉毛はないものの、頭には鬣を思わせるような硬質な髪の毛がきちんと生えているし、唇の隙間から見える歯の形も、人間のそれだ。
手の指の数も、人間と同じ五本で、尻から尻尾も生えていない。
もし露出部を服で隠し、顔を仮面か何かで覆ってさえしまえば、男はただの大柄な人間にしか見えなかっただろう。
人間に近いのに、明らかに人間ではない異質な容貌……まるで爬虫類を無理矢理人間にしたような歪な姿だったからこそ、愛蘭の目には男が一層醜く恐ろしく映った。
なまじっか人間に近いからこそ、意識が勝手に男の姿を通常あるべき人間の姿と重ねてしまい、その異常性がより強調されてしまうのだ。
(こんな男を、私の看守に選ぶなんて……)
どうやら皇太子は、愛蘭に対してどこまでも非情な態度を貫き通す構えのようだ。
皇太子は愛蘭に、牢獄の中で一瞬でも安らぎを感じることも許さず、化け物に監視される恐怖に苛まれたまま、処刑の日を迎えさせたいのだ。
かつては愛に似た言葉を囁いたこともあったというのに、たかが庶民の女を一人暗殺しようとした程度のことで、何という仕打ちだと思う。
(こんな化け物、籠絡するなんて、とてもできやしない……)
そもそもこの化け物は、女に対して情欲を感じたりするのだろうか?人間を食べ物の一種のようにしか見ていないのではないか。
愛蘭は、目の前の化け物から体を食いちぎられる様を想像して、口内に湧き上がってきた唾液を嚥下した。…もしかしたらそれは、単なる夢想ではなく、実際に起こりうる未来かもしれない。あの陰険な皇太子ならば、愛蘭を生きたまま化け物に食わせて処刑することくらい、しかねない。
脅える愛蘭の元に、男はゆっくりと近づいてきた。逃げる場所などないことは分かっていたが、それでも愛蘭は壁に背をつけるようにしてその場で後ずさりせずにはいられなかった。
男は柵の一部に設けられた、小さな開口扉の鍵を開くと、そこに盆を差し入れた。
盆の中にあるのは、野菜の切れ端が浮いた質素な汁物と、稗と粟を炊いただけの、貧しい食事。
男は盆を中に入れて素早く開口扉の鍵を締めなおすと、恥じ入るように目を伏せた。
「脅えさせて、すまない……すぐに、視界に、入らないように、する……」
男の口から発せられた言葉に、愛蘭は思わず耳を疑った。
……今、この男は何と言ったのだ?
「視界に入らないように、って……」
「食事が終わるまで、ここを出て行く、わけにいかない、から、扉近くで後ろを向いている……顔が見えない、ように。……食べ終えたら、呼んで、くれ」
会話というものに慣れていないのか、ぽつりぽつりと発せられた男の言葉はつっかえつっかえで、まるで言葉を覚えたての幼子のそれのようにたどたどしかった。
その声色には、自身の醜さに嫌悪を露わにした愛蘭に対しての怒りは微塵も感じられない。ただ、男の悲しみと、愛蘭に対する配慮の気持ちだけが、真っ直ぐに伝わってきた。
男の言葉も、その様子も、忌まわしい恐ろしげな異形からはとても想像できないもので、愛蘭は混乱した。
これは一体、どういうことだろうか。
「俺が、醜いから、飯が、まずくなる……すまない……俺を、見なければ、食べられるだろう?」
(もしかして、この男は自身の醜さを気にしているのか?)
化け物が、自身が化け物であることを気にする。……化け物ではない愛蘭には、想像が難しい心境ではあるものの、もしかしたらそう言ったこともあるのかもしれない。
もし男が、異形である自分の姿を忌み嫌い、絶望しているのならば……付け入る隙はある。
「待って……」
背を向けて扉の方へ向かいかけていた男を、愛蘭は引き留めた。
振り返った男の顔は、やはり鳥肌が立ちそうなくらい悍ましいものだったが、愛蘭はそんな内心の嫌悪を押し隠して、微笑んでみせた。
「たった一人で食事をとるのは、とても淋しいわ……私が食事を終えるまでの間、ここで一緒にお話をしてくれないかしら?」
愛蘭の言葉に、男は驚いたように目を見開いた。
飛び出た金色の目がぎょろりと動き、その爬虫類的な動作に思わず喉の奥で小さな悲鳴が上がりそうになったが、愛蘭はそれをすんでの所で飲み込むことに成功した。
「……俺と、話……?」
「ええ。……駄目、かしら?」
「構わない、が…お前は、いいのか……?」
「私の方がお願いしているのよ……どうして、嫌だと言うことがあるの?」
「だって、俺は、醜い……お前も、さっき、脅えて、いた」
(……さすがに脅えていたことは、伝わっていたか)
愛蘭はどう言い訳をしたものかと、内心で舌打ちをする。話せば話す程、愚鈍そうな印象の男だが、流石にそれくらいの感情は察せられるようだ。
「脅えてなんて……ちょっと、驚いただけだわ。だって、貴方のような姿の人を、私は初めて見たんですもの。……でも、そんな私の態度が、貴方を傷つけてしまったなら、ごめんなさい」
愛蘭は、眉をハの字に垂れ下げながら、真っ直ぐに男を見つめた。
本音を言えば、あまり視界には入れたくないが、そんな内心を察せられるわけにはいかない。
「……気にして、いない……」
男は愛蘭の真っ直ぐな視線に戸惑いを露わにしながらも、どこか居心地が悪そうに目を伏せて、ぶっきらぼうに言い放った。
「俺は、醜い……皆、俺の姿に脅える、当然……謝る必要、ない……」
「そんな……醜いなんて、そんなことはないわ…っ!!」
俯く男に向かって、愛蘭は心にもない言葉を投げ掛ける。
「確かに、貴方の姿は普通の人とは違うわ……けれども、貴方はちっとも醜くなんかない。少なくとも、私はそう思うわ。…だから、そんな風に自分を卑下しないで……」
通常の感性の持ち主なら絶対に口にしないような、ただ綺麗ごとだけを並べ立てた、薄っぺらい、作り物の言葉を。