囚われた悪女
十七歳になった愛蘭は、屈強な男達によって拘束されながらも、まっすぐに皇太子を見つめて涙ながらに自身の潔白を訴えた。
黒真珠の瞳から流れた涙が、白磁の肌を伝って煌めく。
齢を追うごとに、一層美しく成長していった愛蘭のその姿は、常人ならば誰もが心を動かされるようなどこか妖しい魅力を宿していた。
だが、そんな愛蘭の姿に、視線を向けられた当の皇太子は、眉一つ動かすことはなかった。
「お前が、鈴華を毒殺しようとしたことは、とうに調べがついている……そんな風に、憐れみを誘う演技をしても無駄だ」
「そんな……何かの間違いですわ。私がそんな恐ろしいことを……」
「――お前の父は、既にお前の犯行を認めたぞ。自分には関わりがないと、娘が勝手にしだしたことだと、そう言って」
皇太子の言葉に、一瞬だけ、愛蘭の美しい表情が般若のように歪んだ。
だが、瞬きをする瞬間にすぐに、先程までの儚い表情を張り付けて、溢れ出る涙を拭うように袖で顔を覆う。
「そんな……お父様が……嘘、ですわ……」
「まぁ、当然私があの古狸の言うことなぞ、信じる筈がない。そもそもの差し金が、洪然であることなぞ明白だったからな。捕縛しようと衛兵を差し向けた所。激しく抵抗した末に、あろうことか私の命を狙ってきた為、処刑を待つまでもなく即刻その場で切り捨てた」
「っそれじゃあ、お父様は……!!」
「既にもう、この世にはいない」
「そんな……」
愛蘭は、崩れ落ちるように全身の力を抜きながら、両袖で顔を覆いながらさめざめと声を上げて泣いた。
父が、死んだ。
10歳の頃から、七年間、愛蘭を育ててくれた、血の繋がらない父親である、琳洪然が。
(――ざまぁ見ろ。私を切り捨てようとするからだ)
愛蘭は嗚咽を耐える演技を続けながら、袖に顔を隠したまま歪な笑みを浮かべた。
七年間、自分を皇太子に献上する娘として育ててくれた父親。――だが、二人の間にあるのは利害関係のみで、そこには一片の情も存在しなかった。
洪然は、愛蘭を自身が権力を握る為の駒以上に見ることはなく、愛蘭が何か粗相をする度に激しく折檻をしたし、愛蘭も愛蘭で、殺されたくないが為に洪然に媚び諂い従順な態度を示していたが、内心では洪然をひどく憎んでいた。
どうせ生きていたとしても、洪然が皇太子の寵姫の暗殺を失敗した愛蘭を救おうなんて思う筈がないのだ。ならば、死んでいてくれた方がよほど清々する。
……その事実が、今の愛蘭の状況を、何ら改善するわけではないとは知っているけれども。
「皇太子様…お父様が、何を言ったかは存じあげませんが、私は神に誓って何もしておりません……どうか、私を信じて下さいませ……」
信じて貰える可能性が低いことは分かっていたが、それでもなお、愛蘭は泣きながら無実を訴えることを止めなかった。
皇太子がどこの馬の骨かもわからない庶民の女に目をつけるまで、彼が最も寵愛を注いでいたのは自分だ。
過去の幻影が、僅かでもその胸に残っているかもしれない愛蘭への情が、皇太子の心を少しでも揺らすかもしれない。
泣き崩れる自分を憐れみ、釈放は無理でも減刑を考えるかもしれない。
しかし、愛蘭の思惑に反し、皇太子の顔は一層不愉快気に歪むだけだった。
「まだ、しらばっくれる気か……人を一人危篤の状態まで追いやっておいて、何の罪悪感さえ抱かないとは、お前はどこまで性根が歪んだ女なんだ……!!」
責め立てる皇太子の言葉は、愛蘭の胸には一切響かない。
罪悪感?
そんなもの、抱く筈がない。
危篤の状態に追いやった程度で、なぜ罪悪感を抱く必要があるんだ。
そもそも、殺すつもりで、毒を盛ったというのに。
突然現れ、皇太子の心を奪った女。
その女のせいで、皇太子の寵愛を受ける為だけに費やした愛蘭の七年間が、全て無駄になった。愛蘭はそのせいで、洪然から激しく責め立てられ激しい折檻を受けた。……恨んでも、恨みきれない存在だ。
だから、全てを取り戻す為に、愛蘭は女が口にする食事に毒を盛った。誰かを使えば、裏切られそこから足がつく可能性もある為、誰に頼ることもせず、愛蘭自らの手で。
(しかし、実に悪運が強い女だ。強力な毒薬を致死量投与した筈なのに、後遺症一つ、残すことなく息を吹き返すなんて)
あの地味だがそれなりに愛らしい顔が、毒のせいで変形したならば、それをきっかけにして皇太子の心を取り戻すこともできたかもしれないのに。
「洪然は、その場ですぐに殺すことになったが、愛蘭、お前はそう楽には死なせない……処刑の日まで地下牢に幽閉してやるから、冷たい牢の中で、せいぜい自らの罪を悔やむんだな」
「そんな…!!……皇太子様、どうか、どうか私を……」
「お前が毒を盛ったという証拠は揃っているから、今さらどれほど演技しても無駄だっ!! お前の虚飾に塗り固められた訴えは、うんざりだ――さっさとこいつを連れて行け!!」
「い、いや……!! 皇太子様……皇太子様‼……」
愛蘭は悲痛な声色で皇太子を呼びながら、そのまま衛兵たちに引きずられるようにして、地下牢へと連れて行かれた。
(畜生……何としても、ここから生きて抜け出してやる)
冷たい石と鉄の柵によって作られた、自身を囲う牢獄を睨みつけながら、愛蘭はぎりと歯を噛みしめた。
不衛生で狭苦しく、排泄用の壺と、固く冷たい布団が済みに丸めてあるだけの牢獄。
普通の貴族のお嬢様ならば、絶望したかもしれない環境だが、愛蘭は平気だった。
牢獄も、貧農の家も、大して変わらない。……寧ろ兄弟達がひしめきあってないだけ、牢獄の方がましかもしれない。足を伸ばして眠る広さは、十分にあるのだから。
(問題はどうやってここを出るか、だな)
愛蘭は湿って黴臭い布団の上に何の躊躇いもなく腰を降ろすと、これから先のことを画策した。
あそこまで頑なな皇太子が、この先考えを変えるとは思えないので、恩赦は期待するだけ無駄だ。かと言って、このまま処刑の日をむざむざ待つなんてもってのほかだ。
(ここから脱出さえできれば、何とでもなるんだ……)
そっと自身の胸元に手をやり、服越しにそれの存在を確かめる。
衛兵達にばれないように、こっそりと隠し持って来た宝石付の首飾りが、そこには掛かっている。
洪然の目を盗んで実家の宝物庫からくすねたそれは、売れば庶民が一生遊んで暮らせるような代物だという。これさえあれば、脱獄後のことは何とでもなる。……首飾りの存在を唯一知っていた洪然が消えたのだから、なおのこと。
問題は、まずどうやって脱獄するか、だ。
「……やっぱり、看守を籠絡するのが一番早いな」
そう呟きながら愛蘭はつと口端を吊り上げ、妖艶な網を浮かべた。
愛蘭の最大の武器は、並外れた美貌と、理想的な比率を保つ体だ。
生まれた時から恵まれていたそれらを、愛蘭はこの七年間で磨き上げ、他に並ぶ物がないくらいまで磨き上げた。全てはただ、皇太子の寵愛を一身に受ける、その為だけに。
……それなのに、肝心の皇太子の心が、顔も体も愛蘭より数段劣る女に奪われてしまったのは皮肉な話だが。だが、それは、まあいい。
男を惹きつける話術も、教養も、媚態も、この七年の間で習得した。今こそ、その成果を示す時だ。
今まで培った愛蘭の手管全てを使って看守を堕とし、脱獄の手助けをさせる。
それは愛蘭にとっては、ひどく容易いことのように思えた。
――実際に看守を目の当たりにするまでは。
「――飯を…持って、きた…」
牢の外から軋んだ鉄の扉が開く音と共に、低い男の声が響く。
待ち望んでいた、看守が食事を持ってやって来たのだ。
「そう……ありがとう」
愛蘭は片手でさっと髪を整えながら、媚を含んだ笑みを浮かべた。
だが、現れたその姿を目の当たりにした瞬間、愛蘭の表情は恐怖で歪んだ。
「……【王家の呪われた蜥蜴男】…‼」
全身真緑色の鱗で覆われた肌に、縦長の瞳孔が浮かぶ、ぎょろりとした金色の目。
鼻の部分には高さは一切なく、ただ穴が二つ開いているだけで。
噂でしか聞いたことがなかった異形の化け物が、愛蘭の目の前に立っていた。