そして奇跡は起こる
(そうか……私が死ぬことには、意味があるのか)
国の今後も、自分と同じ目に遭うかもしれない存在も、愛蘭にとってはどうでもいいことではあった。
けれどもそれが、愛蘭が愛する存在の明るい未来に繋がるならば。
愛蘭が愛した蜥蜴や鈴華が、愛蘭の死後、よりよい環境の中で生きることができるなら。
死は、贖罪以上に、受け入れるべきもののように思えた。
皇太子は、自身の利益を最優先に考えていた先王よりも、民や国を思いやっている。
ならば、きっと、そんな彼に仕えることになる蜥蜴の状況も少なくとも今よりはましになる筈だ。
愛蘭の死後、蜥蜴は気落ちをするかもしれないが、それでもきっといつか立ち直れる。
立ち直って、龍の珠に希望を託して前を見据え……そうやって生きて行けば、愛蘭以上に彼を愛する存在だって現れるだろう。
そして、いつか、呪いが解ける日だって、来るかもしれない。
愛蘭がいなくても、蜥蜴はきっといつか幸福になれるのだ。だって彼は、あれほどに心が美しいのだから。
ならば、愛蘭が思い残すことなんて何もない。ただ、潔く刑を甘受するべきだ。
そう、思った。
そうすべきだと、分かっているのに。
「お前達……愛蘭を抑えていろ」
皇太子の言葉に、兵達が愛蘭の首を切りやすいように押さえつけた。
「……せめて苦しまないように、一太刀で終わらせてやる」
頭上から苦渋交じりの声が降りかかると共に、刀が振り上げられるのが気配で分かった。
これが、振り落とされた時、全てが終わる。
愛蘭の人生の、全てが。
そう思った瞬間、押さえつけていた感情がぶわりと溢れ出した。
分かっている。
これが一番正しい結末なのだと。
自身の犯した罪に対する、相応しい報いのだと。
自分は、この刑を甘んじて受けるべきなのだと。
分かって、いるけれど。
(だけど……だけど、本当は私は……)
脳裏に浮かぶのは、昨夜見た夢の情景。
蜥蜴と二人、寄り添い生きる、ある筈がない未来の姿。
(本当は、今でも、あの夢のように……)
「――待って、待って下さい!! やっぱり、こんなのは間違っております!!」
刀が振り落される直前、鈴が鳴るような声が、突然その場を響いた。
押さえつけられた体勢のまま、顔を上げた愛蘭は息を飲んだ。
「お願いします!! 皇太子様‼ どうか、どうか、蓮姉様を許してあげて下さい!! 私は、何一つ後遺症すら負っておりません!! それなのに、死罪は余りに重すぎます!! どうか、どうか、お慈悲を‼」
視線の先にいたのは、泣き腫らした顔でこちらに駆け寄る鈴華。
馬車を暫く乗らなければ来られないこの処刑場に、何故後宮にいる筈の鈴華がいるのか。
いや、鈴華だけじゃない。
鈴華と共に、こちらに向かっているあの姿は。
離れていても、一目でわかる、あの異形の姿は。
「――何故、あの場にいるように命じたお前が、ここにいるんだ!! 蜥蜴‼」
皇太子の叫びは、まさに愛蘭の心の叫びでもあった。
「……愛蘭。お前を、迎えに来た」
生きてもう二度と会う筈がなかった蜥蜴が、そこにいた。
鈴華が、何かを叫んでいる。
皇太子が、そんな鈴華に必死に何かを言っている。
だけど、愛蘭の耳には、その内容が聞こえなかった。
ただ愛蘭の耳は、目は、意識は、蜥蜴のみを捉えていた。
何故、ここに蜥蜴がいるのか。
そんな疑問は、今はどうでも良かった。
(また……また、お前の姿が、見られるなんて)
死ぬ前にもう一度、こうして蜥蜴に対峙することができた。
再び、その声を聞くことができた。
そのことが、ただ嬉しくて。
自然と瞳からは涙が零れていた。
「話は全て、その女にきいた……今、助ける……待っていろ、愛蘭……」
そう言って愛蘭の元に駆けよる蜥蜴に、見張りの兵士達が刀を向ける。
だが、蜥蜴はそんな兵士達をなぎ倒して、ただ一心不乱に愛蘭の元へ向かおうとした。
「……蜥蜴‼ 私はお前にあの場にいろと言った筈だ!! それなのに、何故、動ける⁉ 何故、ここまで鈴華を背に乗せて、駆けることができる⁉」
一度刀を降ろした皇太子が、こちらに向かう蜥蜴に向かって叫ぶが、それでも蜥蜴は止まらなかった。
舌打ちを一つこぼした皇太子は、懐から何かを取り出して頭上高く掲げた。
「見ろ‼ 蜥蜴‼ これが私がお前の主になった証だ!! お前の主として、再度命じる‼ 【その場を動くな】‼!」
皇太子が掲げた物――それは、ちょうど愛蘭が蜥蜴にあげた欠片の形に削れた、龍の珠だった。
(何故、皇太子がそれを持っているんだ……⁉)
皇太子が命じた途端、蜥蜴の動きは見るからに鈍く変わった。
「……今だ!! いつ命令が無効化されて復活するから分からないから、今のうちに拘束しろ‼」
「しかし陛下……多少の拘束では、あの化け物はすぐに解いてしまうかと……」
「なら、気絶させればいい‼ あれは、不死身だ!! 殺す気で攻撃して構わない。さっさと、大人しくさせろ‼!」
皇太子の言葉に、刀を構えた兵士達が蜥蜴を囲む。
そのまま、呪いのせいで碌に動けない蜥蜴に与えられたのは、一方的な暴力だった。
目の前で繰り広げられる光景に、愛蘭は唇を震わした。
「……やめて……」
不死身だからといって、痛みがないわけではない。
「やめて……蜥蜴を、傷つけないで……私、ちゃんと死ぬから」
刀で切れば傷もつくし、血だって出る。……普通の人間と変わらずに。
「私、ちゃんと死ぬから…!! ちゃんと死んで、罰を受けるから!!……だから、翠をもう傷つけないでくれっっっ‼‼!」
愛蘭が泣いて叫んでも、兵達の攻撃の手は止まらなかった。
それだけ彼らは、特別な力を持つ、異形の蜥蜴のことを恐れていたのだろう。
これ以上、蜥蜴を傷つけさせたくない。
そう思ったら、体が自然に動いた。
「……つっ‼」
愛蘭は咄嗟に自身を拘束している兵の腕に噛みついた。
片方の男が痛みで怯んだ隙に、もう片方の男の鳩尾に頭突きを入れる。
彼らが蜥蜴に気を取られていたこともあり、今まで一切の抵抗も見せることもなかった愛蘭の突然の奇襲は成功した。
拘束を抜け出した愛蘭は、そのまま皇太子の元に駆けた。
愛蘭の接近に気が付いた皇太子は、咄嗟に両手で刀を構え……その手からは、持っていた龍の珠が零れ落ちた。
それこそが、愛蘭の狙いだった。
愛蘭は地面に転がるようにして、その珠を掴むと、蜥蜴に向かって勢いよく投げた。
「……龍の珠よ!! これで、一つだ!! 翠の胸にある分と合わせて、一つの珠になった筈だ!! 私の願いを叶えてくれ‼……これ以上、翠を誰にも傷つけさせないでっっっ‼‼」
確信は、なかった。
龍の珠の伝説が、本当かどうかも。
自分が持っていた首飾りが、本当に皇太子が持っていた龍の珠の一部かどうかということも。
確信がないままに、僅かな可能性に縋った。
ただ、これ以上、蜥蜴が傷つく姿が見たくない。ただ、その一心で。
そして、奇跡は起こった。
「――――っ‼‼」
龍の珠が、翠のもとに落ちた瞬間、眩い光が辺り一面を包んだ。
誰かが叫ぶような声と、倒れ込むような音が聞こえてきたが、眩しさのあまり愛蘭には何も見えかった。
そして、光が収まった時――倒れ臥した兵士達の上に浮かぶ、一匹の龍の姿があった。