最後の朝
そして、最後の朝はやって来た。
「――何をやっているんだ!! 蜥蜴‼!」
「……皇太子、様?……どうして、ここに……それに、後ろの兵達は……」
(……ああ。終わりの時が来たのだな)
皇太子の叫び声と共に蜥蜴の胸で目を醒ました愛蘭は、小さく自嘲の笑みを零して、布団から身を起こした。
幸せな時間は、これで終わりだ。
「まさか、お前、愛蘭を逃がそうと……」
「……何か勘違いされているようですが、この男はただ私に寄り添って眠ってくれただけですわ。実際、私は今ちゃんとこの場所にいますでしょう?」
柵の前で吼えていた皇太子は、髪をかきあげながらそう言った愛蘭に、顔を顰めた。
「……万が一でも、看守がお前に誑かされないように蜥蜴をつけたのに、お前は化け物までも誑かすのか……」
「さあ、何とでもお思いになったらいいですわ。もし仮にそれが事実だとしても、私は今、逃げることなく、ここにいる。それが事実ですわ」
「……愛蘭……?」
何が分かっているのか分からず、困惑気に金色の瞳を向ける蜥蜴の姿に、胸が痛む。
愛蘭は、泣きそうになりながらも、それでも笑って蜥蜴の体を抱いた。
「……お別れの時が来たわ。翠」
「愛蘭?……何を、言っているんだ?」
「翠、ごめんなさい……私は、ずっとお前を欺き続けていた。実際の私は、優しくもなんともない。お前が心を傾ける価値がない、ただの罪人だ」
突然口調が変わった愛蘭に、腕の中の蜥蜴が一層困惑しているのが分かった。
それでも、愛蘭は構わず言葉を続けた。
一切の偽りも虚飾もない、本当の言葉を、蜥蜴に告げた。
「だけど……だけど、私はそれでもお前を愛していたよ。偽りばかりの私だったけど、お前を愛していた、その気持ちにだけは、嘘は無かったよ」
遺される蜥蜴のことを思うならば、本当は鈴華の時のように突き放すのが正しいのかもしれない。
それでも、伝えずにはいられなかった。
自分が、蜥蜴を愛したことを。
醜いからこそ、誰からも愛されないと言った蜥蜴を、愛した自分がいることを、蜥蜴に知っていて欲しかった。
「勝手なことをいうようだが……できれば、たまには私のことを、思い出してほしい……お前が愛した女が、いたことを」
「愛蘭……」
「さようなら……翠。お前の呪いがいつか解けることを、祈っているよ」
そういって、蜥蜴の首元に掛かった龍の珠を手に取り、そっとその縁に口づけた。
この珠が、蜥蜴の生きる希望になってくれることを、ただ祈りながら。
最後に一度だけ、蜥蜴に視線を合わせて微笑むと、愛蘭は蜥蜴の腕を抜けて牢の前に立ち、きつい眼差しで皇太子たちを見据えた。
「――貴方達、何を呆けているのです? 私を連れに来たのでしょう。さっさとしなさい。私は逃げも隠れもしないわ」
その言葉で我に返った兵士達が、牢の入り口を開けて中に入ると、乱暴に愛蘭を拘束する。
「……待て‼…愛蘭を、どこに連れていく気だ……!!」
「蜥蜴……【その場を一歩も動くな】」
連れ去ろうとする兵の間に入ろうとした蜥蜴の体は、皇太子のただ一言で止められた。
「今日からお前の主は私に変わった。主として、最初にお前に命じる。【全てが終わるまで、動くことなくそこにいろ】」
呪いの力は、絶大だ。
蜥蜴は皇太子の言葉を聞いた途端、縫い付けられたかのように、その場を動けなくなっていた。
「……お前ら、愛蘭を、どこに、連れて行くつもりなんだ……愛蘭を、どうする、つもりなんだ……やめろ……やめて、くれ…」
「蜥蜴は拘束した。――連れていけ」
「……は」
「いやだ……俺は、いやだ……愛蘭っ……愛蘭っ‼‼!」
(頼むから、そんな風に私を呼んでくれるな……蜥蜴)
兵士達に連れられていきながら、愛蘭は背後から必死に自分を呼ぶ蜥蜴の声に唇を噛んだ。
振り返ることは、できない。
振り返れば、一層蜥蜴を苦しめてしまうから。
そんな愛蘭を、脇に控える皇太子がどこか複雑そうな表情で見ていた。
「……誑かされたのは、お前の方か。愛蘭」
「――誑かされてなんか、いないですわ」
歯が食い込んで唇が切れ、血が滲んだが、構わなかった。
どうせ、死ぬのだ。
唇に傷がついたとしても、問題はない。
口の中に血の味を感じながら、愛蘭はそっと目を伏せた。
「……ただ、愛しただけで」
愛蘭はそのまま兵達と共に馬車に乗せられ、城から離れた処刑場まで連れて行かれた。
てっきり、町中を引き回されて見世物にされるかと思っていただけに、寛大だとも言えるその処遇は予想外だった。
外に設けられている処刑場にも、物見遊山の見物人達はおらず、ただ複数人の兵士達がいるだけだった。
「意外ですわね。私の最後の大舞台のわりに、随分と観客が少ないこと」
「……父上はどうか知らないが、私は女の処刑を見世物にするほど悪趣味ではない。それが、私の正妃候補だった女なら、猶更だ」
「相変わらず女性には優しいお方ですこと」
そうだ。皇太子は、優しい男だった。……いかにも高貴なお坊ちゃんといった感じでで、考えなしで、青臭い所はあったけれども。
愛蘭が、鈴華を暗殺しようした時以外は、激高した姿なぞ殆ど見たことがなかったくらいだ。
けして嫌いな人ではなかった。……好きだと思ったことも、無かったけれども。
当時の愛蘭にとって、皇太子は自分に地位を与えてくれる存在以上の何者でもなかったのだから。
「優しいついでに、このまま私を逃がしてはいただけませんか? 鈴華が助かったなら、恩赦くらい与えて下さってもいいのですよ」
「それはできない……お前も、本当は分かっているだろう」
分かっている。
……何となく、こんな風に軽口が叩きたかっただけだ。
今の皇太子は、かつての自分の目とは、違ったように映るものだから。
「……そこに、愛蘭を」
「は」
皇太子に命じられるがままに、二人の兵が、両脇を固めるように、愛蘭を地面に座らせる状態で押さえつけた。
そんな愛蘭の前に、帯剣をした状態の皇太子が進み出る。
「……あら、皇太子様自らが処刑役をなさるだなんて、贅沢ですわね。そんなもの、下の者にお任せになれば宜しいのに」
「皇太子ではない――私はもう、王だ」
言われた言葉がすぐには理解できなかった。
愛蘭が知っている王は、それほど高齢ではなかったし、病の噂だってなかった。
それなのに、一体どうして退位なぞ。
愛蘭の胸の内の疑問に、皇太子は自嘲の笑みと共に答えた。
「前王は……父上は、私が今朝方この手で処刑した」
にわかには信じられない言葉だった。
「どうして、そんな……」
「理由をあげれば、いくらでもある。富の独占。横行する不正の容認。敵対者の暗殺。民を省みることなく、ただ享楽に耽っていた父上は、王として相応しい人ではなかった。……そして、私はその事実ですら、最近まで知らなかった。気付こうとすら、しなかった」
皇太子は静かな声でそう言って、目を伏せた。
「愛蘭……お前の話は昨日、鈴華から聞いた。全てを信じることはできないが……もし、それが真実だとしたら、お前に罪を犯させた大本は、国をこんな風にした私達王族にあるだろう」
(姉なんかではないとあれ程言ったのに、鈴華は皇太子に話したのか……)
「私は、鈴華に出会い、話を聞いて、初めて国の現状を知った。下層階級の生活の苦しさを、貧困を、初めて知ったんだ。『王は生まれながらに高貴な存在なのだから、ただ君臨さえしていれば、それだけで価値がある』……そんな妄言を、疑うことなく信じていた自分が、いかに愚かであったかを、鈴華から教えられた」
そこで、皇太子は腰元の剣に手をやった。
抜刀と共に目を開いた皇太子の瞳には、強い意志の光が宿っていた。
「だからこそ――私はこの手で、全てを終わらせる。全てを終わらして、一から国を再構築してみせる。鈴華と、共に。……その為には愛蘭、お前の死もまた、必要なんだ。不正貴族の代表格であった、琳家当主の娘で、鈴華を暗殺しようとしたお前の死もまた」
そう言って皇太子は剣先を愛蘭に向けた。
「愛蘭……恨んでくれてもいい。だが私はそれでも、民と…そして、鈴華が、大事だ。私はお前の恨みと死を背負って、王になる。お前のような女が、再び現れないような国を作って見せる。例え、どれほど自らの手を血に染めたとしても。――だから、お前はここで死んでくれ。事情はどうであれ、罪は罪。私はお前を許すわけにはいかないのだから」