愛蘭の贈り物
『れんねえさま。れんねえさま』
服の端を掴む、紅葉のような小さな手。
慕う感情を隠すこともせずに、真っ直ぐ向けられるつぶらな黒い瞳。
愛蘭を呼ぶ、鈴を転がしたような舌足らずな声。
薄れていたその面影はより鮮明なものに変わり、全てをありありと昨日のことのように思い出せる。
「鈴……小鈴……」
鈴華がいなくなった途端、愛蘭はその場に崩れ落ちて、啜り泣いた。
(神様……ありがとうございます)
生まれてから一度も感謝したことがない神に、生れて初めて感謝した。
(あの子を助けてくれて……私にあの子を殺させないでくれて、ありがとうございます)
もし、実の妹を殺してしまっていたら……そう思うだけで、体は震えた。
あの子が生きていてくれる。
生きて、幸せになってくれる。
それだけで、神に感謝しなければならないと、そう思った。
――だからと言って、それで愛蘭の罪が許されるわけではないけれど。
「……もう、翠の伝言を掘る必要はないな」
鈴華は、明朝、愛蘭は処刑されると言っていた。
ならば、愛蘭の認識が間違っていなければ、あと一度。あと一度だけ、蜥蜴に出会う機会がある筈だ。
自分の口から、別れを告げることが出来る機会が。
もう一度言葉を交わし、その体に触れることが出来る……それが分かっただけで、愛蘭には十分だった。
「翠……早く、ここにおいで……少しでも長く、お前と一緒にいたい……」
一人呟く愛蘭の視線の片隅で、水に浮かぶ蓮の花はすっかり枯れきり、腐っていた。
それは、単純に時間が経ってしまったから故で、つけていた水の種類は、別段関係はないのだろうと思う。
それでも愛蘭には、蓮の花が枯れて腐ってしまったのは、泥水ではなく、澄んだ水の中につけたからのように思えて仕方なかった。
泥の中に咲く花は、泥の中でしか生きられない。
どれほど美しい水に憧れた所で、泥の中から離れることなんて、できないのだ。
泥の中で生き、泥の中で枯れて、散っていくのが、きっと一番相応しいのだ。
(――何処にも行くことなんて、できやしないさ)
「……愛蘭。泣いて、いたのか?」
暫く後に現れた蜥蜴を前に、愛蘭は笑って首を横に振った。
「何でも、ないわ……少し、昔を思い出していただけ」
蜥蜴は、今日もまた、ちゃんと来てくれた。
愛蘭は、蜥蜴とちゃんとお別れが出来る。
そのことがただ、嬉しくて堪らなかった。
「……悲しい、記憶なのか?」
「悲しい記憶ではないわ……幸せな…とても、幸せだった頃の、記憶よ」
そうだ。あの時、自分はきっと幸せだったのだ。
慕ってくれる愛しい妹と共にいた日々は、ちゃんと幸せな日々だったのだ。
ただ、当時の愛蘭が、そうと気付いていなかっただけで。
「幸せだったから……懐かしくて、涙が出てきたの……」
「……そうか」
「だけど、もういいの……だって、私は今も、幸せなのだから」
そう言って、愛蘭はそっと蜥蜴の手を握った。
相変わらず熱を感じない冷たい手だったが、今の愛蘭にはそれが何より温かく感じた。
握った手を、そっと自身の頬に押し当てる。
「翠が、来てくれたから……今、こうして傍に翠がいてくれるから、私はとても幸せなのよ」
愛蘭の言葉に、蜥蜴は少し戸惑ったように視線を彷徨わせてから、くしゃりと顔を歪めて笑った。
「……俺も、だ。……俺も、愛蘭と要られて、とても幸せだ……」
愛蘭は再び零れ落ちそうになる涙を堪えて、蜥蜴に微笑み返した。
「……そうだわ。翠。私、翠にあげたいものがあるの」
牢に入ってからずっと首元に隠していた首飾りを外して、蜥蜴に見えるように差し出した。
削り取られたままの形で光り輝く翡翠色の石に、紐が取り付けられただけの簡素なそれは、生前の洪然が宝物庫の中で、最も価値がある宝石として大切に保管していたものだ。
「――これは……」
「【龍の珠】の欠片、よ」
天に住む伝説の生き物とされる龍が、一体につき一つ持っているとされる珠。
それを掌中に収めた物は、持ち主である龍を支配することができ、この世のありとあらゆる願いを叶えることが出来ると言われている。
これは、その珠の欠片だ。
勿論、愛蘭はそんな伝説を信じてなんかいない。
伝説はあくまで、伝説。龍なんて生き物、存在している筈がない。龍も、龍の珠の伝説も、欲を持った人々が創りあげた、ただの幻想だ。
愛蘭にとって、重要だったのは伝説そのものではなく、伝説がある故に富裕層の間で高額で取引されていた石の価値だった。
――だけど、今はそんな伝説があって良かったと、心から思う。
「これを、翠にあげるわ……だから、この欠片に合う残りの欠片を探して欲しいの。欠片が揃って、完全な龍の珠になれば、どんな願いでも叶えてくれると言うわ……きっと、翠の呪いだって溶ける筈よ」
伝説があるから、愛蘭は、蜥蜴に希望をあげることが出来る。
いつか、呪いが解けるかもしれないという、儚い生きる希望を。
それが、愛蘭こそが希望だといった蜥蜴に、愛蘭がしてあげることだから。
唯一、愛蘭が遺してあげられるものだから。
「……いいのか?……そんな、価値があるもの、貰っても……」
「いいのよ。…ううん。翠に貰って欲しいの。……翠。少し頭を下げて。掛けてあげるわ」
あからさまに恐縮する蜥蜴の頭に、愛蘭は首飾りを掛けた。
紐の長さはかなり余裕があった為、蜥蜴の頭でも簡単に首飾りは入った。
蜥蜴の胸元で揺れる珠を、愛蘭は満足気に眺めた。
「……俺は醜い、から……こんな宝石は、似合わないだろう……」
「そんなことは無いわ……よく似合う」
龍の珠の色は、ちょうど蜥蜴の肌の色と同じ色だった。
陽に照らされて煌めく、萌える若葉と同じ色。
愛蘭が一番、好きな色。
思わず愛蘭の口元から、笑みが零れる。
「ねぇ、翠……首飾りのお礼を強請るようだけど。……良かったら、今日は一晩一緒に眠ってくれないかしら? 朝まで、ここで一緒に過ごしてくれない?」
愛蘭の願いに、蜥蜴は少し驚いたように目を丸くしたあと、微笑みながら頷いた。
「……それが、礼になるのなら……」
その晩は、一つの布団の中で、二人で寄り添って眠った。
処刑の前夜だとは思えない程、愛蘭の心は落ち着いていて、ひどく穏やかな気分だった。
この時間の一瞬一瞬が愛おしくて。
眠って朝が来てしまうのが惜しくて。
眠れないでいる愛蘭を余所に、蜥蜴は早々と眠りについてしまった。
「……このまま鍵を奪って私が逃走するとは、思わないのか」
思わないのだろう。……蜥蜴は、そういう男だ。
愛蘭は苦笑いを零して、どこか満ち足りた表情で眠る蜥蜴の額にそっと口づけた。
「ありがとう。翠……私は、お前のおかげで人間になれたよ」
一か月前まで、愛蘭はきっとおよそ人間と呼べる存在ではなかった。
人の皮を被った、蜥蜴よりずっとずっと醜い、化け物だった。
愛を解さず、ただ己のことだけを考えて周囲の人間を踏みにじる、利己的な化け物だった。
そんな愛蘭に愛を教えて、人間にしてくれたのは、蜥蜴だ。
「お前のおかげで、私は明日、人間として死ぬことができる……」
それはきっと、最も幸福な死に方だ。
惨めで、誰にも必要とされないまま死ぬ筈だった自分には、十分過ぎる程の。
愛蘭は蜥蜴の胸に頭を埋めるようにして、目を瞑った。
その日見た夢は、幸せな夢だった。
蜥蜴と二人寄り添って、この国を後にし、どこか知らない新しい地へと向かう夢。
けして叶うことがない、幸福な夢だった。