「琳愛蘭」として散る
「『鈴華』は、私が後宮へ来る前に働いていた奉公先で、旦那様から頂いた名前です……鈴だけでは、あまりに淋しいと、ここで働くならば、もう少し豪華な名前を抱くべきだと、そう言って旦那様は私に『華』の字を下さいました」
呆然と鈴華を見つめるばかりで、何も口にすることができない愛蘭に、鈴華は嗚咽を堪えながら語り掛けた。
「蓮姉様……私は、蓮姉様に毒を盛られたことを、少しも恨んでおりません……だって、今の私があるのは、蓮姉様の犠牲があったからなのですから」
そう言って、鈴華は袖で次々に零れ落ちる涙を拭った。
「蓮姉様を売ったお金で、私達家族は、あの凶作の一年を乗り越えられました……。そして、翌年……昔、蓮の花を求めに村にやって来た、商家の男性を覚えてらっしゃるでしょうか?……あの方が、どうしても蓮姉様を忘れられなかったからと、再び村にやって来て……蓮姉様が既に売られて村にいないことを、私がお伝えしました。その事実に、あの人はとても嘆いて、村の貧しい実情を憂い……そして、次の凶作の年に蓮姉様同様に、私が売られてしまわないように、商家の奉公の口利きして下さったのです。……一見、ただの下働きしか見えなかった彼が、実は見習い中の商家の跡継ぎであったことを、私は奉公に出て、初めて知りました。そして、奉公中に、偶然皇太子様と接する機会があり……私は今、ここにいるのです」
あまりに、出来過ぎた話、だった
あの、馴れ馴れしく声を掛けて来た下働きの男が、商家の跡取り?
蓮だった頃の愛蘭を気に入っていた?
確かに、ただの貧農の娘でしかない愛蘭にやたら饒舌に話掛けてきて、やたら熱の籠もった視線を投げ掛けて来るとは思っていた。
けれど、それはあくまで下劣な下心から来るものだとしか、思っていなかった。
当時、男は今の愛蘭と同じか、それより少し上くらいの年齢だった。それなのに、まだ10歳の自分に、こんな風に粉を掛けてくるだなんて、碌な男ではないと内心嘲笑っていた。
それなのに、彼が、そんな風に愛蘭の身に降りかかった不幸を嘆き、妹である鈴華を労わってくれただなんて。
そんな風に、想っていてくれた、だなんて。
とても、信じられなかった。
だけど、愛蘭を真っ直ぐ見つめる鈴華の瞳は、どこまでも澄んでいて。
そこに偽りなぞ、微塵も浮かんでなくて。
「……本当に、私は運が良かったのです。商家の皆様も、後宮に働く方々も、皆、私に良くしてくれました。たくさんの方に助けられ、大きな苦しみを背負うことがなく、今まで生きてこられました。たくさんの方の優しさを受けて……でも、それも全て、蓮姉様の犠牲があったから。私の幸運は全て、蓮姉様の不幸の上に成り立っているのです。……全て、蓮姉様のおかげなのです」
違う、と思った。
鈴華が幸福だったのは、きっと鈴華だったから、と。愛蘭のことなんて、単なるきっかけに過ぎないのだと。
同じ状況だとしても、愛蘭なら、きっと幸福なんて掴めなかった。優しい純粋な鈴華だからこそ、周りの人も、きっと特別に優しくしてくれたのだ。
だって、愛蘭の周りに、そんな人はいなかった。
ずっと周りは皆、敵ばかりで。
ごくたまに向けられる優しさは、必ず、何かしらの裏があるものばかりで。
――ああ、でも、本当に、そうだったのだろうか。
本当にすべて、裏があるものばかりだったのだろうか?
もしかしたら、中には下働きの男のように、下心がない優しさを注いでくれた人もいたのかもしれない。
ただ、それを愛蘭が頑なに拒絶していただけで。
かつて生きてきた世界は、愛蘭が思っていたよりもずっと、優しさに満ちていたのかもしれない。
ただ、愛蘭が、それに気づくことが出来なかった、気付こうともしなかっただけで。
「連姉様……私はなぜ、貴女が貴族の娘として生きるようになったのかは、知りません。……けれど、自分を偽り生き続けることが、とてもお辛かっただろうことは、想像ができます。そんな中、掴みかけた皇太子様の寵愛を、突然現れた私に奪われて、姉様がどれほど苦しまれたかも……」
鈴華はそこで一度言葉を切って、苦痛に耐えるかのように、顔を歪め胸元を押さえた。
「皇太子様は……皇太子様は、明朝、蓮姉様を処刑すると、おっしゃっていました。……ですが、必ず、私が皇太子様を説得して見せます……私が蓮姉様に受けた恩の大きさをお話しすれば、きっと、皇太子様だってわかってくれる筈です……!!」
(――そうか。私は明朝、処刑される予定なのか)
明確になった処刑の期日は、愛蘭の心を驚くほど揺らすことはなかった。
もう、これで、十分だ。
処刑の期日を教えて貰えただけで、十分だ。
「――何か不愉快な勘違いをされているようだけど」
愛蘭は気が緩めば涙が零れ落ちそうになる目を、きっと吊り上げて、憎々しげに鈴華を睨み付けながら吐き捨てた。
「私は、蓮なんて女、知らないわ。……私は、大貴族の琳家の娘、琳愛蘭よ。あなたの姉だなんて、卑しい身分の女と一緒にしないでちょうだい。不愉快だわ」
――蓮という名の少女は、七年前、口封じの為に洪然によって、ほかの子供たちと一緒に殺された。
ここにいるのは、ただの琳愛蘭。皇太子の寵愛を浚った庶民の女を、毒殺しようとした罪人。それ以上でも、以下でもない。
だって、そうだろう?
かつて唯一温もりを与えてくれた妹を、殺そうとする実の姉なんて、いる筈がないだろう?
そんな存在、いてはいけないだろう?
「嘘です……そんな嘘……」
「嘘なもんですか……分かったら、さっさと、ここを立ち去って頂戴。貴女の顔なんて、見たくないの」
傷ついたように顔を歪めて縋る鈴華を、冷たく切り捨てる。
鈴華は柵をつかんだままその場に崩れ落ち、悲痛に叫んだ。
「何故です……何故、私の姉だということを認めてくれないのです…私に、助けを求めて、くれないのです……!! 蓮姉様、どうして……!!」
(……馬鹿だな、鈴華。何故、お前が何を皇太子に訴えても無駄だと、分からないんだ)
愛蘭の処刑は既に決まっていることで、どんな事情があっても、今更撤回などできる筈がない。
愛蘭が鈴華を毒殺仕掛けたことは、既に皆の知るところになっているのだから。
皇太子が愛蘭に恩赦を与えることは、すなわち、次期正妃である鈴華の立場を軽んじることになるのだ。
貴族の立場である愛蘭を許せば、地位さえ高ければ、庶民出の妃を粗雑に扱っても許されるのだと、周囲に思わせることになる。ただでさえ庶民出身で、立場が弱い鈴華にとって頼れるのは皇太子の寵愛だけだ。その寵愛の薄さを示すような行為を、皇太子がすると思えないし、愛蘭だとて、そんな事態、望まない。
鈴華が恩赦を求めることは、ただ皇太子の鈴華に対する心証を悪くするだけだ。
殺しかけた相手が妹だと知って、改めて思う。
自分はきっと、滅ぶべきなのだ。死ぬべき、なのだ。
それ以外の道なんて、選ぶことができる筈がないのだ。
「……さっさと、ここを失せなさいと言っているのが、聞こえないの?」
「蓮、姉様……」
「だから、私はお前の姉なんて知らないわっ!!」
視線をそらすことなく、強い瞳で真っ直ぐに鈴華を見据える。
感情を偽ることも、隠すことも、この七年間で慣れっこになっている。
一分の隙もない「琳 愛蘭」を、演じてみせる。
間違っても、鈴華が、自分の姉を見殺しにしただなんて罪悪感を抱かないように、傲慢で、利己的で愚かな、醜い貴族な娘を完璧に。
「何度でも言うわ!! 私の名前は琳愛蘭。誇り高き琳家の娘よ!! お前のように卑しい血筋のこそ泥に、同情されるだなんて、まっぴらごめん、死んだほうがましだわ!! ……理解したら、さっさとここを出ていきなさい!!」
「蓮」ではなく、「琳愛蘭」と死ぬ。
それこそが、最も自分にふさわしい最期のように思えた。