予期せぬ訪問者
もう、まもなく。
もう、まもなく全てが終わる。
愛蘭の処刑の日は、今日だろうか、明日だろうか。
蜥蜴が訪問する度に、また蜥蜴に会えたことに感謝するようになった。
蜥蜴が去る度に、これが最後の邂逅なのでは、と怯えるようになった。
最後の別れを、別れの為の言葉を、処刑の前に蜥蜴に告げなければと思っているのに、今日もまた、言えなくて。
去っていく蜥蜴の背中を見つめながら、愛蘭は膝を抱えてこみ上げてくる涙に耐えた。
(ーーせめて、遺言を残せないだろうか)
今の愛蘭には、差し迫る死に抗うつもりはなかった。
この一月の間で、愛蘭の気持ちは変わっていた。
処刑は、犯した罪からすれば、妥当なもので。人を一人殺しかけた自分は、その罰を甘んじるべきなのだろう。
今は、ただ、死ぬ前に何かを蜥蜴に遺したい。
それだけが、今の愛蘭の望みだった。
牢獄の中には当然紙も筆もない。蜥蜴に強請ることも考えないでもなかったが、それが蜥蜴にとって不都合を生じさせたらと思ったら、口にするのを躊躇われた。それに蜥蜴に無邪気に目的を尋ねられた時、全てを隠し通す自信はなかったのだ。
「……石壁に文字を彫れないだろうか」
石でできた牢獄の壁は古く、ところどころ一部欠けていて、牢獄の中には石が転がっている。
小石で壁に、蜥蜴に体する言葉を遺すことは出来ないだろうか。
試しに小石で壁を引っ掻くと、壁には削れた痕が残った。
これなら、きっと大丈夫だ。蜥蜴に言葉を残すことができる。
(そうだ、せっかくだから、あそこの隙間にこれを隠して……)
「……っ!!」
愛蘭が隠し持っていた首飾りに手をやった時、不意に扉が開く音がした。
蜥蜴の筈はない。先ほど蜥蜴は食事やその他の仕事を済まし、去っていったばかりなのだから。
それならば、以前のように他の看守がやってきたのか?牢獄そのものの鍵は蜥蜴が保管しているが、牢獄に繋がる扉の鍵は他の看守達も持っているという。だから、そうだとしてもおかしくない。……ああ、だけど蜥蜴に散々油を絞られた彼らが、今更愛蘭の元を訪れるだろうか。再び鍵を盗まれるような失態を、蜥蜴が犯す筈がない。牢の鍵が開けられないならば、彼らが愛蘭の元を訪れる意味もない筈だ。
ならば。
ならば。
今回の訪問こそが……。
(待って……せめて後少し……翠に言葉を遺す時間だけでも……)
しかし愛蘭の願いとは裏腹に、訪問者は真っ直ぐに愛蘭の元を近づいてきた。
だけど、その足音は一つで。
そして、荒々しさがない、静かな音だった。
布で顔を隠したその人物が牢の前に立った瞬間、愛蘭は瞠目した。
(…………女?)
小柄な体つきも、纏う衣装も、すべてが女性のそれで。
「……お久しぶりです。愛蘭様」
鈴が鳴るような声でそう告げて、布を取った女の姿に愛蘭は息を飲んだ。
「……お前は」
そこに立っていた人物は、愛蘭が毒殺しようとした張本人である、鈴華その人だった。
「……こんなところまで何をしに来たの? まもなく処刑される私を嘲笑いに来たのかしら」
吐き捨てるように言い放って顔を背けながらも、愛蘭は胸の奥に苦い罪悪感が湧き上がってくるのを感じていた。
愛蘭は、鈴華のことをよく知らない。何度か対峙したことはあるが、それも愛蘭が一方的に嫌味を言い放つだけで、碌に会話をしたことも無かった。
愛蘭が鈴華に対して知っていることは、彼女が庶民の出であるということと、突然現れて皇太子の寵愛を全て攫ったということ、それだけだ。
ただ、それだけしか知らないのに、愛蘭は鈴華を憎んだ。
憎んで、殺そうとした。
それを罪と認識することさえ、せずに。
愛蘭は震えそうになる体を抑え込み、唇を噛んだ。
今更、罪悪感を抱いた所で、それが罪だと気が付いた所で、全ては手遅れだ。
鈴華は運良く、後遺症も残すことなく生き残ったが、だからといって愛蘭が行ったことがなくなる筈はない。
だから、けして謝罪は口にすまい。……今さらそんなことをしても、何も変わらない。ただ、愛蘭が処刑された後の鈴華の寝覚めを悪くするだけだ。
彼女の前では、自分は蜥蜴と出会う前までの愛蘭でいよう。私利私欲の為だけに動き、嫌味で尊大な、憎々しいかつての自分で。
それこそが、まもなく処刑される愛蘭が、鈴華に出来るせめてもの贖罪なのだから。
「……どうしても、聞きたいことがあって、ここに来ました」
鈴華は愛蘭の言葉を気にする様子もなく、静かにそう口にした。
その顔には、愛蘭に対する怒りは微塵も滲んでおらず、ただ抑えきれない悲しみだけがそこにあった。
何故、この人がこんな顔をするのだろう。
自分を殺し掛けた女が、牢獄に繋がれ、死を待っている状況を、何故喜ばない?
愛蘭には理解できなかった。鈴華はもっと自分を憎んで、罵倒してしかるべきだと、そう思った。
悲しみを湛えた澄んだ鈴華の瞳は、どこか蜥蜴の瞳と似ていて。
奇妙な既視感が、愛蘭の胸をざわめかせる。
(私は、以前も、これと同じ瞳を……)
知っている、気がした。
この瞳も。鈴が鳴るような、この声も。
後宮で対峙した時よりも、もっとずっと、ずっと昔に。
「――愛蘭様。貴女は……貴女は、『蓮』という名前の女性をご存じですか」
鈴華の口から出た、思いがけないかつての自身の名前に、喉の奥がひゅっと鳴った。
何故、その名を、知っている。
何故、鈴華が、その名を……!!
何も言葉を返すことができずに、狼狽える愛蘭を前に、鈴華はその瞳から大きな涙を零した。
「やっぱり……蓮姉様。貴女、だったのですね」
愛蘭のことを、蓮姉様と呼ぶ相手。
そんな相手は一人しかいない。
『蓮姉さま‼……蓮姉さま‼!』
愛蘭の脳裏に、鈴が鳴るような声が蘇る。
目の前の女と同じ泣き顔で、兄に後ろから羽交い絞めにされながら、人買いに連れられて行く愛蘭を呼んだ声が。
まるで水晶のように煌めきながら、零れ落ちたあの時の涙が、今鈴華の頬に流れる涙と被って見えて。
(嘘だ……嘘だと、言ってくれ)
そんなこと、あるのか。
そんな、残酷過ぎる偶然が、あるのか。
だけど、ああ、だけど、改めて鈴華の顔を見れば。
この目は、この鼻は、この口は。
そして、七年経っても、少しも変わっていない、鈴が鳴るような美しい声は。
鈴華は、両手で牢の柵を掴みながら、嗚咽を漏らした。
「蓮姉様……私です……鈴、です…小鈴です…っ……、貴女の妹の、小鈴です…っ‼」
『――ありがとう。小鈴。嬉しいわ……私も蓮の花が、一番好きなの』
(そうだ。私はあの娘を、いつも小鈴と呼んでいた。鈴と言う名そのままでは味気ないから、小さい、愛しい妹という意を込めて、小鈴と、そう呼んでいたのだ)
殺そうとした女は、かつてただ一人自分を慕ってくれた、妹だった。
愛蘭は、残酷過ぎる運命の悪戯と、自身の罪の深さを知った。