少女が愛蘭になった日
すすり泣く子ども達が密集して詰められた柵の中で、少女は一人膝を抱えてしゃがみ込んでいた。つぎはぎだらけの古い服だけではなく、肌までもが土埃や溜まった垢で薄汚れていたが、それでもなお少女は集められた子ども達の中でも一際目立つ美しい容姿をしている。
他の子ども達が涙を流し、親を恋しがる中、少女だけは一粒の涙も、一言の嘆きも口にすることもないまま、虚ろな黒真珠の瞳で宙を見つめていた。
いつか、こんな日が来るとは思っていた。
貧しい農夫の夫婦の間に生まれた、たくさんの兄弟の中の一人でしかなかった少女。
口減らしの為に売り飛ばすのならば、最も容姿が美しいが故に一番値が高くなるであろう少女だということを、家族の誰もが悟っていた。分かっていたからこそ、親も年長の兄弟達も下手な未練を残さぬよう、極力少女には情を注がないように普段から気をつけていた。ーーそんな事情を知らない、幼い末の妹だけは、少女との別れを泣いて嫌がってくれたけども。
……哀れな娘だと思う。とうに嫁に行った姉様達を除けば、残りの兄弟は男ばかり。少女の次に売り飛ばされる運命なのは、自分だということも知らないで。
指折り今の自分の歳を数えてみる。……10歳か。ならば、妹も少なくとも2年は猶予があるだろう。
願わくば、せめてあと2年……出来れば嫁の貰い手が現れるもしれない年齢になる、あと4年、今年のような凶作が訪れないことを。
ただ一人、少女の為に泣いてくれた妹には、出来るならば姉様達のようにちゃんと嫁に行って貰いたい。……それが必ずしも幸福だとは、限らないけれども。
「ーーほう。ずいぶんと上物が入ったではないか」
人買いの主人に連れられて、「お客様」がやって来る。
見たこともない程の煌びやかな衣装を身にを飾り、今日食べるものにも困る庶民たちには有りえない程の脂肪を体に纏った、裕福そうな中年の男が。
ねっとりとした男の視線は、明らかに目の前の少女に向かって注がれていた。
「薄汚い見かけをしているが、磨けば他に並ぶものがない傾国の美姫になろう容姿だ。……使えるな」
「へへっ、旦那様。流石お目が高い。……だが、そいつはうちでも滅多に入って来ない上物でして。その分、お値段も……」
「分かった。分かった。言値で払ってやるから、暫く黙ってろ」
「へい‼」
脇に控えていた人買いの主人が後ろに下がると、男が一歩少女に向かって足を踏みだした。
好色そうに緩められた口元とは異なり、男の目はまるで物を見るかのように無機質で冷たく、少女の体は本能的に跳ねた。
……もしかしたら、この男は単純に少女の体を目的に、この店に来たわけではないのかもしれない。
よくよく見れば、男が纏う服装はあまりにも新しい。……新し過ぎるのだ。まるで、今日この訪問の為に、誂えたかのように。
「……お前、名前は?」
温度を感じさせない声に、一瞬言葉が詰まるものの、冷たい視線に促されるように何とか口を開いた。
「蓮……」
蓮。
10年の間慣れ親しんだその名は、この国では一般的な名前だ。
汚れた泥の中で、美しく咲き誇る、薄紅色の花。
どんな悪辣な環境でも、染まることなく凛と咲くその花は、清らかさの象徴であると同時に、自らの商才のみで裸一貫で成り上がることを最も美徳と考える商人の間では、特に尊ばれている。
だからこそ……清らかで美しく育つようになどという親心故ではなく、買い手である裕福な商人たちの好みに合うように、貧農の娘にして分不相応な名を両親は少女に与えたのだと、気付いていた。
生まれたその瞬間から、少女が売り飛ばされる運命は、きっと決まっていたのだ。
「蓮か……ふん。薄汚れたその身に、似合いと言えば似合いの名だな」
だが、男は、少女の名を馬鹿にしたように鼻で笑い飛ばした。
……成り上がりを嫌う、伝統的な商家の人物なのだろうか?
否、伝統的な商家であろうと、蓮は縁起物として大切に扱われていると聞く。何代も続く高名な商家の下働きの男が、旦那様が酒宴の会場を飾る為に必要なのだと言って村に蓮の花を求めに来たことがあった。村の沼に勝手に自生する花が、普段より高値に売れると聞いて村人が我先にと泥の中に入って奪い合ったことは、記憶に新しい。
その下働きの男曰く、生まれの卑しさに繋がるとして蓮を嫌うのは、ごく一部の……。
「髪や瞳の色は勿論、年頃も申し分がないな……ふん。まぁ、こいつでいいか」
「あの……旦那様。それで、お値段ですが……」
「ああ……」
それは、一瞬の出来事だった。
飾りのように男の脇に刺されていた、一本の短刀。
男は、それを徐に引き抜くと、脇に控えていた人買いの男の首を一太刀で切り捨てた。
舞い上がる血飛沫。
その場に倒れ込み、痙攣する人買いの男。……男は、すぐに動かなくなった。
悲鳴をあげる、柵の中の子ども達。
蓮はただ、呆然と、突然始まった目の前の凶行を眺めることした出来なかった。
悲鳴を聞きつけたかのように、扉から幾人かのの男達が押し入って来た。
蓮は、男達が男を捕縛に来たのだと信じて疑わなかった。
だって、人が一人死んでいるのだ。殺されたのだ。
罪を犯したものは、捕えられてしかるべきだ。それが、倫理というものだと、蓮は習った。
それなのに。
「洪然様。お目に掛かる娘は見つかりましたか」
「あぁ、こいつだ」
「他の子どもはどうしますか?」
「――始末しろ」
男の一声を合図に、始まる惨劇。
ただ一人、男によって柵から出された蓮は、先ほどまで同じ柵の中にいた子どもたちが目の前で次々殺されていく様を、まざまざと見せつけられたのだった。
「ふん……悲鳴一つあげないとは、なかなか肝が据わった娘だな」
悲鳴をあげないのではない。声すら出せないのだ、とは言えなかった。
もしそれを口にすれば、次の犠牲になるのは自分だということを蓮は本能的に悟っていた。
口を開けば、喉から悲鳴が漏れてしまいそうになるのを、唇を噛みしめることで耐えた。少しでも、男を不快にさせたくなかった。
「煩く泣き喚くようならば、殺してまた別の娘を選別しようと思ったのだが……気に入った」
「………」
「お前を、私の娘にしてやろう」
娘?
蓮は思わず耳を疑った。
一体、この男は何を言っているのだろう。分からない。
それでも蓮に、その疑問を口にすることは出来なかった。蓮が出来たのはただ、男を見つめることだけだ。
「皇太子に妻として献上すべく育てていた娘が、先日病で亡くなった。おかげで娘を次期王の正妻にして、実権を握る私の今後の計画が狂ってしまった。……だが幸いなことに、娘は元々病気がちで家を出ることが殆どなかった為、名や容姿を知っているものは家人以外はいなかった。秘密を漏らす恐れがある者は、既に処分した。秘密裏に代わりとなる娘を用意する為にな」
(ああ、やっぱり、この男は貴族だった……)
蓮の花を嫌う、ごく一部の人間。
泥にまみれて生まれてきたことそのものを嫌悪するのは、血筋を何より尊ぶ、一部の高位貴族だけだ。
この国では、貴族とそれ以外の人間の地位の差は歴然としている。
貴族ならば、身分が低い人買いや、子ども達を殺した所でさしたる罪には問われない。
今、ここで蓮を救ってくれる人なぞ、現れる筈がないのだ。
「……それを、私が……」
「そういうことだ。……断っても構わないぞ? 別の娘を探すだけだからな」
断った先にある未来……それは、死、のみだ。
断った瞬間、蓮は先ほどの人買いや子ども達のように、一太刀で切り捨てられるのだろう。
「貴方の娘になります。……娘にして下さい」
蓮の言葉に、男は口端を吊り上げた。
「よかろう。……今日から、お前の名前は琳 愛蘭だ。――泥に塗れた花なんぞより、よっぽど上等な名前だろう?」
――その日から、蓮は琳愛蘭になった。
「――ああ、皇太子様‼ どうか私を信じて下さいませ……私は何もしていない、何もしていないのです!!」