悪魔の生物 第2幕 2
ナルシは夢の中にいた。これは夢であると自覚するには何が重要か、それは夢の中のナルシには分からなかったが、ナルシのいる世界は全てがセピア色で覆い尽くされ、そして一切の音がなかった。これが夢でなければ死後の世界だろう。ナルシは思ったが、いつどのようにして自分が死んだのか記憶にない。だとしたら生前の別の意識の世界だろうか。色々考えてみたが、答えは出なかった。唯一思ったのは、これは現実ではないだろうという事だけだった。
ナルシの目の前には森があり、その森の中に小屋があった。煙突からは煙が立ち上り、誰か中にいる事を認識させる。扉に立ち、手の甲の側でノックしてみるが反応はなかった。そこで静かに扉を開けようとすると施錠はされておらず、ゆっくりと扉が開いた。
中には子どもが2人、少年と少女が1人ずつと、男が1人いた。男は2人の師のように振る舞う魔術師のようだった。ナルシは男に見覚えがあった。ずっと以前、師と仰いだ天才魔術師その人のような気がした。だとしたら目の前にいる少年は自分なのだろうか。綺麗な金髪が寝癖で爆発したかのような髪型は、幼少の頃の自分にひどく似ている。しかしもう1人の少女については記憶がなかった。サラサラの銀髪をした、向日葵のような笑顔を見せる少女。ナルシと思しき男の子と、師の魔術師らに何かを話しているが一切の音や声はなかった。ただ2人に何かを話し、その度にこぼれるような笑顔を見せる少女は、その場に立つナルシに何かを訴えかけるような気分にさせた。
3人は血のつながった親子のような。そして少年と少女は実の兄妹のような様子で食事の時間を楽しんでいる。暖炉にくべられた火が暖かな光を周囲に照らしている。暖炉の火に掛けられたスープの匂いが、家族団らんの様子とワルツでも踊るかのようにナルシの中に流れ込んでくる。
(そう言えば腹が減った)
ナルシはここ数日、保存食と水ばかりで胃を満たしている事を思い出した。連日の乗馬による旅で腰を痛め、少々の休憩を願い出たのだ。再び、野菜や動物の肉が染み込んだスープの薫りが、必要以上にナルシの食欲を掻き立てる。腹の虫がポルカでも歌うかのようにリズミカルに鳴り始める。もうこの欲望を止める事は出来ない。ナルシはそう思うと叫び声を上げた。
「もう腹が減って寝ていられねぇ!」
実際に叫んでいた。そして自らの声で目が覚めた。
瞼を開くと、そこは満天の星空。音は夕闇に乗った風の音と、虫の鳴く声。遠くで梟の少々不気味な声も聞こえる。そしてヒンヤリとした大地の感触があった。
「起きていたのかナルシ。先ほど頑張って色々煮込んだスープを作ったんだが、ナルシの口に合うか…」
近くで銀髪の少女の声がする。旅を共にする仲間の元から、野菜や動物の肉が染み込んだスープの薫りが流れてくる。頭や口以上に早く反応したのは、ナルシの腹の虫だった。そしてセスチナの元から器に盛られたスープが運ばれてくる。
ナルシは勢いよく飛び起きた。が、それまで忘れていた腰、そして身体の節々の痛みが、鋭利な刃物のようにナルシの意識に突き刺さる。ングと、小さく息を漏らしながらその痛みに耐える。しかし同僚である少女には、そんな様子も見破られていたようだ。
「すまんナルシ、色々迷惑を掛けてしまって。ナルシは寝ててくれ。私が食べさせよう」
「よせやい! 妹のような年齢のオマエに心配される義理じゃねぇ!」
強がってみせるナルシだが、耐え難い痛みからか、額にうっすらと汗かくのを自ら感じていた。そして妹という自らの発言で、ハッと脳裏をかすめる何かを感じた。それはデジャヴのような既視感めいた何かであったが、明確な記憶には結びつけられない。時が止まったように表情を固めるナルシを、セスチナは不思議そうにのぞき込む。
「お、オイオイ、旅のさなかこの美青年で名高いナルシ様に惚れちまったのか? そんなに顔を近づけるのはやめろ。どうにかしてしまいたくなるだろ!」
バツが悪そうに照れ隠しながら、ナルシはそっぽを向いてセスチナの視線を避けた。そしてセスチナが持ってきた木器のスープを横取りするように手に取り、がむしゃらに食った。
少量の野菜と道中で狩った鹿肉の入ったスープだった。野菜は少し手前の村で調達した物を。鹿は少し痩せ気味だったが、その分火の通った肉の食感は悪くなく、しかし味は塩味が強い。
塩気の強い味には理由があった。それは遠征をする際の保存食は乾燥させたパンや塩漬けにした野菜や肉と言うのが定番なのだが、遠征による行軍で消費される体内塩分の補充と言う意味がひとつ。そして最初こそしょっぱくて食いづらい味の食事でも、それを継続していることで塩漬け保存食の味に慣れ、薄味に対して舌が利かなくなるという現象がその理由なのである。
しかし乾燥した乾パンと塩漬け肉ばかり食していたナルシにとって、この温かいスープは寒い荒涼した中にいる疲弊した身体に沁みわたり、この上ない安堵をもたらしていた。セスチナは既に食事を済ませたと聞き、鍋から湯気の上がるスープを勢いよく平らげる。いつの間にか節々にあった痛みが消え失せ、欲求を満たした腹が膨れている事に気づいた。
ヴァイスの街を出発して半月。セスチナとナルシはようやくあと数日で、目的のルネスの街に到着するというところまで来ていた。
ヴァイスからルネスの街に進むには、基本的に大陸に作られた街道を進む。ヴァイスからネルス川の支流を伝って水の都クラン=ベルに。その後まっすぐ南進して、神聖ヴァンスター帝国領の聖杯の街ラクレール、街道沿いに進んで賢者の街エルクレスト。そこから東進し、エルーラン領のウィンディアを経由しルネスに入るルートだ。道としては交易商人や冒険者、その他旅人らが進む道なので比較的安全であり、道中で人とやり取りができることから、多様な情報を得る事も、場合によっては物を調達する事もできる。何より整備されている街道が多いので道に迷う危険性がない。しかしながら魔物が多く住む陰の森や、険しい山々が連なるダニス山脈を迂回する事になるので、それ相応の時間がかかるのだ。今回の移動は自分たちの馬で行くのでひと月程度と考えられるが、これを乗合馬車などで旅するとなると、ひと月半を見るのが妥当な距離であった。
しかしセスチナが考えるルートは違った。ナルシにとって絶望的とも言えるルートを、この銀髪の少女は易々と決断したのだった。
ヴァイスのあるルディオン山脈を峰伝いに南下、そして陰の森と無限の砂漠に横たわる荒涼な土地を、ただひたすら南進するという、単純でそして向こう見ずな行程だった。それは先に考慮した整備された街道や妖魔などの外敵、一切の情報収集を遮断した、しかし地図を直線で結んだ際に如何に早く到着するか、ただそれだけを念頭に置いた危険を顧みないルートだった。
そしてその旅は、ナルシが思っていた以上に過酷だった。
やはり道なき道を進むという点で、進むべき方角に迷いが生じ移動速度が低下する。低下すると、腹を空かせた動物や妖魔などに狙われやすく、実際にそれらの襲撃に幾度となく見舞われた。戦闘があれば疲弊し、また慣れぬ土地での移動に疲労する。そんな体力が削がれていく中での旅だった。そして人間の体力以上に疲労しているのは、馬の方であったようだ。現時点でナルシがヴァイスで買い求めた馬は潰れ、現在は2頭目の馬に跨っている。そういう観点で言うと、セスチナの愛馬ブレッザは、良く耐え忍び頑張っているようだった。がしかし馬もその乗り手も、心身ともに疲労し限界を迎えつつある。そんな状況がまさに今であった。そしてその中でナルシの身体が悲鳴を上げ、白旗を上げて現在に至ったのである。
セスチナはこれまでもそうだが、自ら決めたことを成し遂げようと気を張っていた。そしてナルシ同様疲弊していたが、それを声にも顔にも出さずにいた。しかしこの精悍な様子を見せる少女も徐々に疲労が心を蝕み、口数が減り、反応が遅れ、笑顔が消えた。ため息の数が増え、次第に苛立ちをも見せるようになる。その様子は下にいるブレッザにも良く分かったのだろう。だからこそブレッザはブレッザなりに耐え凌いでいたのだ。しかしナルシ同様にセスチナにとっても、その限界の時は確実に近づきつつあった。馬上で居眠りし落馬しかけた事が何度かあり、その頻度も着実に上昇していた。
しかしそれでもルネスの街に近づいているという点について、2人はそれ相応の手ごたえを感じてはいた。もちろん手ごたえに対する代償は大きいと言えるだろうが、しかしそれでも死んだものとは訳が違った。生を全うしている。信ずる道を走っている。セスチナもナルシもそういう意味では同調しているのだ。
しかしナルシは、セスチナの「炎の巨鳥に対する想い」に老婆心を抱かざるをえないのである。それは失われた幸福の日々を消し去った仇敵に対する怒りについてであり、また自らが背負った業の深さの念について必要以上に抱え込み、いっそ炎の巨鳥と刺し違えてやろうかと、それこそ生に対する冒涜的な衝動に走らないかと心配になるのだ。もちろんその時はナルシ自らが、その命に代えても止めなければならないと想うのである。
そしてナルシの思惑と連動するかのように、その機会は2人にとって唐突に訪れるのであった。