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「あー、やっぱり駄目か。ユピテルのクソ共め、毎度毎度余計な事しかしやがらない」
昼下がりのフィードの屋敷、いつもの実験室。
全身至る所に包帯を巻いたウォルンタースが忌々しげに呟いている。
「禁術ってやつですか……じゃあ、僕はもう元の世界には戻れないんですね……」
覚悟はしていた。だが、やはり喪失感を感じずにはいられない。
「ま、そうでもないさ。前に言っただろ? ユピテルが禁術指定するのは、一度使われた天道術に限ると。つまり、お前の世界に干渉できる天道術をまた一から新しく構築すれば良いんだ。……そうだな、今度の術式はこっちの人間も転移出来るようなものにするか」
「え?」
「お前が使ったあの『筒』に込められていたのは、対象を『故郷に送還する』天道術だ。この世界の人間に使っても、この世界のどこかに転移させるだけだ」
「ええッ!? って事は、あの人はまだこの世界のどこかに……!?」
「いるな。――とは言っても、やつにはメルクリウス出入り禁止の処分が下った。ここにいる限り二度と顔を合わす事もないだろう。まあ、それ以前に、誰でもお前の世界に転移出来るなら俺が自分に使ってたよ」
「は、はは……相変わらず、正気の沙汰とは思えない発想ですね」
「そうか? ま、褒め言葉として受け取っておこう」
呆れを隠そうともしない、かなりストレートな皮肉だったがウォルターは平然と受け流している。
――――コン コン コン
「失礼します」
ティーセットの置かれたワゴンを押し、メモリアが扉を開ける。
カップを用意すると伊織とウォルターの分の紅茶を注ぎ、メモリアは伊織がカップに手を伸ばすのを緊張した面持ちで見守っている。
「――――あ……美味しい」
伊織のふと漏らした感想に、メモリアは安堵したように笑顔を浮かべた。
「良かった。こちらの世界のものだし、口に合わなかったらと不安だったの」
「そんな事ないよ。お昼ご飯も美味しかったし、メモリアの料理は凄く上手だよ」
「前の身体は循環型の設計だったが、その身体は人体と同じみたいだからな。基本的な生活は人間と同じサイクルが必要だ。少々不便だろうが、我慢してくれ」
「いや、今の身体の方がよほど自然なんですけど……」
フルカとの戦いが終わっても伊織の身体は人型を維持していた。落ち着いた時点で無意識に発動していた天道術も解除されたらしく、今は普通の感覚を取り戻していた。
「さて、と。それじゃあそろそろ出かけるとするかな……」
カップを空にしたウォルターが立ち上がる。
「僕もですか?」
立ち上がりかけた伊織を手で制す。
「いや、お前はいい。俺とフィードとグラティアだけだ。お前達は……そうだな、今日はもう休んでて良いぞ。俺達は外で食事をすませるから、お前達も適当にやってくれ」
「どちらにお出かけなのですか?」
「議会までな。今回の件は内々で処理するつもりだったが、イグニスレオがアルターリアを切り捨てるのなら遠慮する必要もない。まあ、ゲートで少々暴れすぎたのもある……筋を通す意味でも、しっかり詫びを入れておかないとな」
「え、あの、それなら僕も行かないと――――」
結局あのゲートは半壊し、しばらく使用不可能になってしまった。実際に設備の破壊に至ったのは伊織とフルカの戦闘が原因なのだ。慌てて伊織も立とうとするが、やはりウォルターに制止された。
「気にすんな、責任を取るのは大人の仕事だ。そして、ガキの仕事は家で留守番だ」
「ぐぬぬ……! だから、僕は今年で一八だって言ってるじゃないですか! 未成年ですけど、小さな子供扱いは――――」
「いや、そうは言ってもなぁ……身長はそこそこだが、その顔はどう見てもそんな年じゃないだろ。メモリアと同じか……下手すればそれより下に見えるぞ。お前の世界の人間は童顔が基本なのか?」
「日本人はこれが普通なんです!」
「わかったわかった。だが、お前は存在しない筈の人間だからな。議会に顔を出されると余計に話がややこしくなる。それらしい理由をでっち上げて市民証も発行させるから、今はその辺をぶらぶらしててくれ」
不満の声を上げる伊織を適当にいなし、ウォルターは実験室を出ていった。
「トリア、怪我は大丈夫? あ、僕の事わかる? 姿は変わってるけど伊織だよ。ほら、このローブ、いつも着てるやつ。わかる?」
廊下で背中に包帯を巻いたトリアを見付け、親しげに声をかける。最初は見知らぬ人間の姿に首を傾げていたが、声と匂いで伊織と判別したのか、尻尾を振りながら駆け寄ってきた。
「またしばらくお世話になるから、改めてよろしくね」
「ワンッ!」
元気よく吠えると、親愛の情を示すように跳びつき、ぺろぺろと伊織の顔を舐め回した。
「わっぷ、待って、やめ――くすぐったいってば! あはは、やめっ、首は駄目だって!」
相手は怪我をしているので無理に引き剥がせない。なんとか押し留めようとするが、トリアはたくみに手をすり抜けてぺろぺろと舐めようとしている。微笑ましくそれを見ていたメモリアがトリアを抱え上げた。
「こら、トリア。イオリくんを困らせちゃ駄目。――――あ、そうだ。他の皆にもイオリくんの姿が変わった事を伝えておいてくれるかな。大きな子に同じを事されたらイオリくんが潰れちゃう」
「ワンッ!」
了承するように吠えると、トリアは元気よく廊下を走って行った。
「ふふ、トリアはイオリくんが大好きみたいだね。はい、これで顔を拭いて」
「あ、ありがとう……好かれるのは嬉しいけど……もうちょっと、こう……ね」
手渡されたハンカチで顔を拭く。じゃれついてくるのは嬉しいが、どうにも遠慮が無さ過ぎる。トリア達は主人であるウォルターには規律正しく接するが、どうやら自分は遊び相手と認識されているらしい。無邪気と言えば聞こえがいいが、さすがにホムンクルスに全力でまとわりつかれてはたまらない。
「トリアはもう元気みたいだけど……アルターリアさんはどうなったんだろう……」
「アルターリアさんは病院に入院しているみたいだよ。命に別条は無いけど、かなり衰弱してるみたいで……病院の場所も聞いているし、良かったらお見舞いに行ってみる?」
「僕も行って大丈夫なの? ほら、今はこの姿だし……」
人の姿になったので逆に見咎められるかもしれない。そう心配する伊織をよそに、メモリアはじーっと伊織の顔を見上げている。
「……えー、と……メモリア? 何か言ってくれないと不安なんだけど……」
「あ、いえ……イオリくんの背が伸びてしまったから、何だか寂しいなって……」
拗ねるように微かに頬を膨らませている。元の姿に戻った事で、伊織の方が頭一つ分背が高くなったのだ。それでもフィードと同じくらいになっただけで、ウォルターの方がまだ高い。
「お見舞いなら、フィードゥキアさんのお知り合いが経営している病院だから大丈夫。何度かお使いに行った事もあるし、私がいればイオリくんも通してもらえるよ」
「そうなんだ。それじゃあこれから行っても大丈夫かな」
「うん。それじゃあ私は出かける準備をするからイオリくんはお庭で待っててね」
庭園の綺麗に整えられていた芝生と植え込み。その大半がアルターリアの魔眼で灰になっていた。ほぼ更地にされた庭園は無残だが、そこの番犬からすれば遊べるスペースが増えて大満足なのだろう。十体の犬型ホムンクルスが大喜びで走り回っている。
主人も家主もいない今の状況はまさに彼らの天下。広い庭でじゃれあい駆け回り、思うがままに自由を謳歌している。何だかんだ言っても、根っこの部分は犬なのだ。
(みんなかわいいなぁ……向こうの世界に戻れたらまた犬を飼いたいな……)
伊織の気配に気付いたのか、トリアが立ち止まって振り返った。僕の事は気にしないで良いよと手を振ってやるが、逆にトリアは猛然と駆け寄り、他の九体もそれにならい突進してくる。
「え? ちょ、まさか!? や、やばっ――――」
身の危険を察し、慌てて屋敷の中に戻ろうとしたが、それより早くホムンクルスの群れに押し倒されていた。
「ワンワン! ワンッ!」
「待って! 待って! そんなにいっぺんに相手できな――――ちょ、やめ、駄目だってばーー!」
小・中・大と大きさはバラバラだが、その体力はホムンクルスとして強化されている事もあり、とても人間が相手にできるものではない。なすすべなく、伊織はトリア達に舐め回され身体をすり寄せられていた。
興奮したホムンクルスは伊織の制止の声も聞かずにじゃれついていたが、不意に身をすくめるように慌てて伊織から離れた。
「ハァ、ハァ……た、助かった……?」
息も絶え絶えになりながらふと見上げると、メモリアが腰に手を当てて伊織のすぐ後ろに立っていた。
「……おかしいですね。あなた達には庭園の片づけをお願いしていた筈なのですが」
指示した時からまったく片付いていない庭園を眺めながら、冷たい眼差しでホムンクルス達を見下ろす。
「ク、クゥゥン……クゥン……」
まるで悪戯がばれた犬のように――というかそれそのものなのだが――どれも怯えて尻尾をたらし、メモリアと目が合わないように顔を逸らしている。
「言葉が理解できるのに、私が口で言ってもわからないという事ですか? なら、体に教えてあげないと駄目ですか? それとも、ごはん抜きにしましょうか?」
「キュ、キューン……キュゥン……」
鼻を鳴らして許しをこうが、メモリアの追及には何の効果もなかった。が――――
「まぁまぁ、メモリアもそれくらいで。みんな反省しているみたいだし……」
「イ、イオリくん……でもね、この子達はいつも――――あ、こら! 待ちなさい!」
メモリアの注意が伊織に移った瞬間、ホムンクルス達は脱兎のごとく駆け出していた。
みな散り散りに逃げ、あっという間にその姿は見えなくなった。
「まったく、もう! あの子達は本当に!」
「え、えーと……きっと、すぐに戻ってきて仕事をするんじゃないかな? それより、ほら、僕達はアルターリアさんのお見舞いに行かないと」
「むぅ……」
頬を膨らますメモリアをなだめながら公共馬車の停留所へと向かう。
「あの子達はウォルター様やフィードゥキアさん達がいないと、すぐに遊び呆けるの! 反省したフリだけは一人前なのに、目を離したらすぐにまた遊び始めるんだから!」
「た、多分ちょっとだけ息抜きしたかったんだよ。今頃は真面目に仕事を――――」
してる筈、と言いかけた所で庭園の方から聞こえてくる、楽しそうにはしゃぐホムンクルス達の鳴き声。
「…………なるほど。あの子達、今日のごはんは必要ないみたいですね」
「あ、あはは……はは……」
冷え切った口調で呟くメモリアに、伊織は乾いた笑いを返す事しか出来なかった。
清潔感を感じさせる白い壁に包まれた病室。アルターリアはベッドに横たわり、すぅすぅと静かな寝息をたてている。目と手首には包帯が巻かれ、傷口に触れないようゴーグルのようなものが目元を覆っている。
「まだ目が覚めないみたいだけど、だいぶ顔色が良くなってるね」
「うん――……あれ? でも良く考えたら、アルターリアさんはあの人の仲間なんだよね? それがどうしてウォルター様に保護されたんだろう。それに、この怪我もどうして……ウォルター様は傷つけないように戦われていたのに」
「え? ああ、そっか……あの時メモリアは気絶してたっけ。実はあの後――――」
フルカが足止めと魔眼の回収のためにアルターリアを傷つけた事を説明する。
「そんな……いくらなんでも酷過ぎる……」
「しかも今回の責任を押し付けるために家から切り捨てられたみたいだし……ウォルターさん達がうまく話をつけてくれると良いんだけど……」
目を覚まさないアルターリアに自分達がしてやれる事は無い。せめて彼女のこれからに幸あらん事を祈り、二人は病院を後にした。
「お見舞いも済んだし、そろそろお屋敷に戻る? それか、何か買う物があるなら荷物持つよ」
「うーん、今日は特に何も買わなくても大丈夫かな……それよりイオリくん、ちょっと寄り道していこう?」
「ああ、どこか寄りたい所があるんだ。僕は構わないよ」
「ふふ、それじゃあ行こっか。少し歩くけど良いよね?」
メモリアは微笑みながら先導するように伊織の手を取る。
絡んだ指からメモリアの温もりを感じ、伊織は微かに頬を赤らめていた。
街の高台の上にあるレストラン。議会との交渉を終えた三人が休憩がてらに紅茶を飲んでいる。高台からの見晴らしは良く、三人の席は街を見下ろせる位置にあった。
「――――やれやれ、一応議会を納得させる事は出来たな。それなりに死人が出た事でこじれるかと危惧していたが、相手が下層のゴロツキ共で助かった」
「有力商会からの口添えもありましたからね。ウォルンタース殿が事前に根回しをしてくれていたおかげでスムーズに話が進みました。やはり人付き合いは大切ですね。『情けは人のためならず』とはよく言ったものです」
「ハァ……フィード、あなたはどれだけおめでたい考えなんですか。彼らがただの善意で手を貸したとでも思っているんですか? 相応の見返りを要求するに決まってるじゃないですか」
「別に良いじゃないか、それくらい。もし彼らが手を貸してくれなかったら、今頃メモリアはミネルヴァに連れ去られていたよ。それに感謝して恩を返すのは当然だろう?」
「それはわかってますけど………パクス商会の再興計画は一から考え直しですね……」
「安心しろ、グラティア。今回の一件でかかる費用は全て俺が負担する。返済が済むまでメルクリウスから離れられないが、この際仕方無い。しばらく腰を据えて借金返済に励むとするよ。それに、お前達にとってはメリットもあるんだ」
「私達にメリット……? 何かありましたか?」
「ああ、人手が増える。アルターリアはミネルヴァの名家、イグニスレオで教育を受けた天道士だ。ミネルヴァ独自の技術体系も身に付けているだろうし、立派な即戦力になる筈だ。イオリも天道術の知識こそ持たないが、素質は超一流だ。身体に編み込まれた天道術を意識して稼働出来るようになれば、理論上は俺すら上回る至高の天道士になれるだろうな」
頷ける話ではあるが、それを聞いたグラティアは小さくため息をついた。
「つまり貴方は……イオリくんだけでなくアルターリアも当家で受け入れろ、と仰りたいんですね。イオリくんに関しては言われずともそのつもりですが、あの娘は……」
「う、ぐ……! いや、お前達にもメリットがあるのは間違いないだろ!? 金の問題なら、俺が何とかする! だからあいつも屋敷に置いてやってくれ! 他に行くあてが無いんだ!」
「…………まあ、良いでしょう。私としても彼女には庭園を灰にした償いをしてもらうつもりでしたし、手元に置いて身体で返してもらうのも一興です」
「グラティア、あの庭園がお気に入りだったんですよ……それでちょっと機嫌が……」
「そ、そうだったのか……すまん。身体が癒えたら、あいつから正式に詫びを入れさせる」
「私も怪我人をいたぶる趣味はありません。傷が癒えるまでは保留で結構です。――――……あら? あれは……」
眼下の街並みに見知った姿が見えた。黒と桜色の髪が並んでいるとよく目立つ。
「おや、イオリくんとメモリアみたいですね。……ああ、恐らくアルターリアさんのお見舞いに行ってきたんでしょう。病院の事はメモリアに伝えてましたから」
「何処かに向かってるようだが、あの先に何かあったか……? ふむ……ほう、あそこに出るのか。眺めの良さそうな場所だ。周囲に人もいなさそうだし、なかなかの穴場じゃないか」
「そうですね。空中都市の外周が一望できる場所は人気スポットですが、たいてい人がたくさんいますから。うーん……あの場所、良いなぁ……今度詳しい道順を教えてもらおうかな」
そろそろ陽は沈みかけ、空は茜色に染まりつつあった。
「――――……………………!」
目の前に広がる絶景に伊織は言葉を失っていた。
遥か彼方に見える地平線。そこに沈みゆく太陽が全てを夕焼け色に染め上げている。
背後に流れ行く雲も夕陽を浴びて輝き、メルクリウスが切り開いて進む雲の海は、まるで黄金色に輝く麦畑のようだ。
この幻想的な光景は向こうの世界では絶対に見られないものだろう。
「あの……イオリくん……」
おずおずとメモリアが伊織の袖を引いた。
「まだきちんとお礼を言ってなかったよね……イオリくんのおかげでウォルター様と私は無事に戻る事が出来ました。凄く……凄く、感謝しています。本当にありがとうございました……」
「い、いいよ、そんなの! あれは僕の力じゃなくて天道術で強化されてただけだし。結局は、ウォルターさんのおかげみたいなもので……ほら、頭上げてよ。別に気にしなくて良いから」
深々と頭を下げられ、伊織は慌てて頭を上げさせようとする。
「でも、そのせいで……イオリくんは元の世界に戻れなくなったんだよ……? 私達がいなかったら、今頃は元の世界に戻れていた筈なのに……」
メモリアが顔を上げると、桜色の瞳は涙でにじみ、紡ぐ言葉は弱々しくかすれていた。その追い詰められた姿は、初日にウォルターに意見した時の姿を思い起こさせる。
「イオリくん、怒ってるよね……? ごめんなさい……私にできる事ならどんな償いでもするから……だから、ごめんなさい……どうか許して下さい……お願いだから……私を嫌いにならないで……私と、友達でいて下さい……」
こらえ切れなくなったのか、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちている。
――――ああ……やっぱり自分の決断は間違っていなかった。
向こうの生活に未練が無い訳じゃない。絶対にそれは違う。家に戻れない事、家族と会えない事、友人と話せない事。割り切れない理由はいくらでもある。
だが、何でもそつなくこなせるのに、根本がどうしようもなく不器用なこの少女を放っておく事も出来なかった。メモリアの肉体は人のものとほぼ変らない。だが、ホムンクルスとみなされている以上、この世界の人間と対等な友人関係を築くことは不可能だろう。
自分はたった一人のメモリアの友人なのだ。それを見捨てる事など出来る訳が無い。だから、向こうの世界に未練はあるが、昨夜の決断に悔いはなかった。
「メモリアに怒る理由なんて無いよ……もし僕が怒ってる事があるとしたら、それはあのフルカって人の言動だけだ。だから、僕はあの人がどうしても許せなかった……この世界に居残る事になったのはその結果な訳で……メモリアが気に病む事なんて何も無いんだ」
メモリアはぐすんと鼻を鳴らし、ハンカチで涙を拭う。
「じゃあ……これからも、友達でいてくれる……?」
「もちろんだよ。こちらこそ、これからもよろしくね」
伊織が安心させるように微笑むと、メモリアの瞳がまた涙でにじんだ。
「うん……! ありがとう……ありがとう、イオリくん……」
感極まったのか、メモリアが伊織の胸に飛び込んでいた。安心して泣きだしてしまったのだろう、ローブに顔を埋めぐすぐすと鼻を鳴らす姿は、十歳という年齢相応の姿に思える。
(……妹がいたらこんな感じなのかな? まあ、僕なんかよりよっぽどしっかりしてるんだけど)
感情を露にしてすがりつく珍しい姿に思わず苦笑が漏れてしまう。伊織はメモリアの桜色の髪を優しくなで、あやすように華奢な身体を抱き寄せていた。
「おや? おやおやおや? ちょっと良い雰囲気じゃないですか、あれ」
「あらあら。これはこれは、何と言うか……」
フィードとグラティアが高台の店からその様子を微笑ましく眺めていた。ウォルターは一瞬ぴくりと眉をしかめたが、すぐに平静を取り戻した。――――ように見える。
「どうするんですか、お父さん。娘さんに彼氏が――――」
茶化そうとしたフィードが無言の拳骨をくらい、呻きながら頭を押さえている。
「……別に? 良いんじゃないか? 俺はあいつの自由意思を尊重するだけだ……」
何でもないと言わんばかりに紅茶を飲もうとするが、その手は明らかに動揺し震えている。
「仕方無いですね……今夜は飲み明かしましょう。費用は私が持ちますから」
「あ、僕も半分持つよ、グラティア。代わりにランクの高い店にしよう。安酒じゃあ悲しみも紛れないからね」
「おい、待て、やめろ! 俺がへこんでるみたいな空気にするな!」
「まぁ、そう仰らずに。とりあえず今夜は飲みましょう。大丈夫、わかっていますから」
「心中お察しします。なので今夜はパーっとやりましょう! 大丈夫、わかってますから!」
「だから! やめろと言ってるだろ! 俺は別にショックなんか受けてなァァい!」
うんうんと頷く二人と、断固として否定するウォルターの叫びが夕焼け空に響いていた。




