02
(あれ……何も見えない……)
ふと気がつけば、部屋の明かりが落とされたのか真っ暗になっていた。あの後、また母が様子を見に来たのだろうか。自分が寝てしまっていたので電気を消した?
しかしそれなら布団で眠るように言い、起こしてくれる筈なのだが……
「―― ―― ―――― ―――― ―― ――――」
何故か虫の音色も聞こえない。いや、虫の音どころか、何も見えず聞こえない。
「――――よし、これで聴覚機能はいけるだろう! おーい、俺の声が聞こえるか?」
突然何者かの声が響き渡った。それだけでも驚くには十分だが、声の主に覚えが無い事が驚きに拍車をかける。
「おっと、聞こえてても反応できないか。とりあえず先に視覚機能だな」
聞き覚えの無い、若い男の声。自分には兄弟がいないのでこれは家族の誰かでは無い。
思わず声をあげそうになったが、その時になってようやく気がついた。
今の自分は身動き一つ出来ない状態だ。縛られたりしている訳ではなく、全身の感覚が麻痺しているのか、妙にあやふやになっている。
「今は疑似眼球で良いだろう。さて、繋がったか? 次は何かしらの動かせる器官だな……まあ、適当なモノで良いか」
不意に白い光が目の前を埋め尽くした。光に慣れるに従い徐々に視界が開けていく。
目の前に現れたのは、白衣を羽織った乱れた金髪と褐色の肌の長身の若い男。二十代半ばから後半あたりに見える。
その隣にはメイド服のような紺と白の服を着た、桜色の髪の小柄な少女。その細い首筋には、刻まれた鮮やかな赤のタトゥーが目立っている。
(知らない人がどうして僕の部屋に――ってここ僕の部屋じゃないぞ!?
何かの実験室なのか!? それに、あの見た事ない動物みたいなのは何だ!?)
見知らぬ二人の姿だけでも十分な驚きなのだが、周囲に置かれた巨大なフラスコとその中に浮かぶ、様々な動物を混ぜ合わせたような生物の姿。伊織は完全に言葉を失っていた。
――――ホムンクルス
(ホム、ンクルス……? なんで、僕はあれが何なのかわかるんだ!?)
フラスコの中の生物を見ていると、それが何なのか頭に浮かんでくる。
あれは『ホムンクルス』と呼ばれる人造生物。家畜や愛玩動物のような存在で、様々な分野で人間の生活を支えている。
初めて見るのにもかかわらず、しかも常識で考えれば有り得ない筈なのに、何故かそれが何なのかがひとりでに頭に浮かんできた。
「おい、メモリア。何か書く物を取ってくれ」
若い男が声をかけると、メモリアと呼ばれた少女は丁寧な仕草でペンを差し出した。
「これでよろしかったでしょうか、ウォルター様」
「おお、何でもいいぞ。この触手で扱えるものならな」
メモリアの桜色の髪と瞳。どちらも有り得ない筈だが、そのどちらも染めたような不自然さは無い。ウォルターと呼ばれた男も金髪と褐色の肌はともかく、その瞳は金色であり、やはり通常では考えられない外見だった。
「さて、見知らぬ人よ。きっと訳がわからず混乱しているだろう。今の君は視覚と聴覚以外が使えない筈だ。少し落ち着いてもらうために、自己紹介をさせてもらおう」
伊織は混乱して言葉を失っていたが、言われて気付けば言葉を出す事が出来ない。猿ぐつわをされている、といった理由では無い。舌の感覚が一切なくなっていた。
「お初にお目にかかる。私は第三空中都市ミネルヴァ出身の天道士、ミネルヴァ=ウォルンタース=ニゲルセプス。今は訳あってここ第十空中都市メルクリウスに居を構えている」
どうやらウォルターは自己紹介をしているようだが、さっぱり状況を理解できない。
今の自己紹介の中で一つだけわかった言葉――『天道士』とは、天道術という技術にたずさわる人間を指す言葉。さっきのホムンクルスもその天道術という技術で精製されている。
身動きが出来ず、知らない場所にいるこの状況。頭をよぎるのは『誘拐』の二文字だが、ウォルターの振る舞いはあまりに堂々としている。後ろめたさのかけらも感じさせない。
故に伊織は取り乱す事も出来ず、相手が話すのを呆然と聞き続ける事しか出来なかった。
「――――ってよく考えたら、共通語の単語と文法しか追加してないんだよな……天上語の固有名詞を言われてもさっぱりか。かと言って、これ以上余計な知識を追加すれば本人の人格に影響がでかねんし……」
(そ、そうだよ! これ、日本語じゃない! なのに僕は理解できてる!?)
ウォルターの話す言葉の意味は理解できるが、その言葉を頭の中で繰り返すと全く見知らぬ言葉だった。さっきのホムンクルスや天道士といった知らない筈の情報を知っていた事といい、何かがおかしい。
「ま、良いか……こっちはメモリア。俺の助手みたいなもんだ」
(ちょ、待って!? 良くないよ!? 全然良くないから!)
自己紹介の時の格式ばった振る舞いは既にそこになく、面倒そうに頭をかいている。
「メモリアと申します。どうぞ、こちらをお使い下さい」
(こっちの女の子は凄く丁寧な仕草だ……何だろう、服装もそれっぽいし、メイドさんなのかな…… うん? それは、ペンと紙……?)
伊織が閉じ込められているのはガラス張りの水槽のような空間。そこに空けられた隙間からメモリアがペンと紙を差し入れてきた。
「さて、見知らぬ人よ、こちらの紹介は終えた事だし、今度はそちらの事を教えて欲しい。急ごしらえだが動かせる器官を作ってみた。筆談なら可能だと思うが、どうだろう?」
突然右腕の感覚が戻ったのだが、その違和感に伊織が言葉にならない悲鳴を上げる。
(なんだ、これ……気持ち悪い……! こんな状態で何かを持つなんて出来っこない……!)
右腕が、関節も、骨も、指も、何もかもぐにゃぐにゃになったような異常な感覚。
「……ふむ。人体からいきなり触手というのはハードルが高いのか。形だけでも人体を模さなきゃ駄目か……少し時間がかかるが、仕方無いな……」
自分の身体はいったいどうなってしまったのか。状況に流されて現実感がなかった伊織だったが、ここでようやく身の危険を感じ始めていた。自分が閉じ込められている空間。それを観察すると、周囲を囲むガラス壁は湾曲しているように見える。
それこそ、部屋にいくつも並んでいる、あのよく分からない生物が入っているフラスコのように。
ここで伊織はようやく自分がフラスコに入れられている事を理解した。このフラスコは自分だけでなく、半分ほどの高さまで白い液体で満たされている。
「ふむ、とりあえずこれで良いか……形状は適当だが、これで動かせるだろう。サービスで両手を用意しておいた。デザインした右手を左右反転させただけだがね」
とぷんと白い液体に波紋が生じ、そこから白い両腕が突き出した。その両腕が目の前にとびだした途端、両手の自由を取り戻していた。
(――なッ!? なんでこんな……白い人形の手みたいなのに、僕の神経が通ってるんだ!?)
伊織はその両腕が誰のものであるか、否応もなく理解していた。
(まさか、この白い液体は……僕の身体は……!)
そして、言いようの無い恐怖に襲われる。自分の腕はこの白い液体から現れた。
ならば、この白い液体は、まさか――――
「おお、動かせるみたいだな! それじゃあ早速君の事を教えてくれ!」
(どうしてこの人はそんなに目を輝かせて喜んでるんだ……人を誘拐しておいて……! 『僕を家に帰して下さい』……これ以外に言う事なんて無いよ!)
「……? 駄目だ、読めん。メモリア、わかるか?」
「いいえ、私も初めて見た文字です……ウォルター様にわからないのであれば、恐らく共通語でも天上語でもない言葉かと……」
怪訝な表情で首を傾げていたウォルターだったが、何かに気付いたのか、突然顔を輝かせた。
「――ッ! そうか、向こうの世界の言葉か! 非常に興味深いが、今は意志疎通が優先だな。君、申し訳ないが、こちらの共通語で書いてもらえないか? 知識はあるだろう?」
ウォルターの口から不穏な言葉が飛び出したのだが、混乱していた伊織は気付けなかった。
(なっ、なんだこれ!? ……どうして、僕は見知らぬ言語を知ってるんだ……!? 単語はアルファベットだけど、どう考えても英語じゃない……! 英語じゃないけど、なんだろう、この単語……まったく知らない訳でも、ない……?)
日本語は通じなかったが、相手にわかるように書こうと思えば何故かどう書くべきかが頭に浮かんで来る。その言語の単語はアルファベットで構成されているが、日頃勉強している英語ではない。しかし、どこかで見たような気もする言葉だった。
「そうそう、いいぞ! ……なになに、『僕を家に帰して下さい』……?」
(良かった、通じた! 後は、『絶対に誰にも言いませんから』……)
意思の疎通が出来た事にわずかながらも希望を感じ、急いで続きを書きつづる。
「――『絶対に誰にも言いませんから』……? うん? これは、どういう意味だ……?」
「ウォルター様、恐らくですが、この方はご自身が誘拐されたと思われているのでは……」
思案顔のウォルターの袖を引き、メモリアが何やら囁いている。
(思うも何も、誘拐そのものじゃないか! 早く僕を家に帰してよ!)
ずれた会話を交わす二人に伊織は声を荒げようとするが、それが言葉になる事は無い。
「……なるほど、そういう事か……参ったな、俺ってクジ運だけは悪いんだよな……」
(何を言ってるんだ!? 早く家に帰って受験勉強をしなきゃいけないのに!)
伊織にも何となくわかってきた。このウォルターという男、明らかにどこかずれている。
「まずは手っ取り早く現状を認識してもらうか……メモリア、姿見を持ってきてくれ」
「はい、少々お待ち下さい」
(ちょっと待って! この人と二人きりにしないで!)
メモリアはまだ意志の疎通が出来る相手に思える。しかしあまりに一方的なウォルターと二人きりにされるのは、あまりに不安すぎた。
「……くそ、一回きりのギャンブルだってのにヘタを引いたか……もう一度やり直そうにも『哲学者の石』は無いし、術式の方もユピテルの連中が即行で禁術措置をとりやがったし……」
ウォルターは誰に言うでもなく何やら呟いている。その苛立ちまじりの口調から察するに、どうやら愚痴のようだ。
「ウォルター様、お持ちしました」
メモリアが運んできた姿見が自分の姿を映した瞬間、伊織はこれまでの人生を振り返っても類を見ないレベルの最大級の衝撃を受けた。
(――ッ!? なんだよ……これ……まさか、これが……僕、なのか……?)
姿見に映っていたのは、巨大なフラスコ。そして、そのフラスコを満たす白い液体と、そこから伸びた白い両腕。両腕の間には植物のようなものが生えており、蕾と葉のようなものをつけている。
「その植物から伸びた蕾みたいな二つが仮の眼球だ。で、そこから生えてる葉っぱみたいなのが仮の耳。両手はそのまま手だからわかるよな? で、下にたまった白い液体がその他もろもろだ」
(う、そだ……こんな……こん、な……)
人体標本より酷い姿だが、姿見に映る自分と目があっている。とても信じられないが、これが自分の姿なのだ。
「ったく、形だけでも人型に整えてやらなきゃ意志の疎通もできないのか。本来ならこれだけ時間があれば自分の形を取れる筈なんだが……こりゃ、本格的に外れを引いたな……」
(うそだ……うそだ……うそだ……うそだ……うそだ……)